9
柔らかい光が私を包みこむ。
まどろみから醒めると、そこにいたはずの人がいなかった。
代わりにいたのは――
「おはよう」
穏やかな眼差しが私を射抜く。
東吾さんは半年前と変わらない笑顔で私を迎えてくれた。
思いがけない再会は私の心を揺らす。一瞬の喜びのあとに広がったのは、鈍い痛み。
眠気がいっきに吹っ飛んだ。
「昨日はごめんね。メイがつぶれちゃって、大変だったでしょう?」
東吾さんの声に私は首を横に振った。
「あの、芽衣子は――」
「先にバイトに行った。綾ちゃん起こすの悪いから、ゆっくりしてって、だってさ」
朝御飯用意してあるけど食べる?
涼やかな声に私は小さくうなずくと、肩に引っかかっていた髪がだらりと下がった。
発酵したような匂いが鼻を刺激する。
その正体が何なのかを悟った時――私の体温が一気に上がった。
うわ、これはひどすぎる。
私はゆっくりと立ち上がった。
「あの……洗面所借りてもいいですか?」
「いいよ。好きに使って」
東吾さんは台所で鼻歌を歌っている。
私は昨日芽衣子を介抱した洗面所に籠ると、冷たい水で顔を洗った。
気持ち悪さはないけれど、頭が少し痛い。
おそらく……これが二日酔いというものなんだろう。
そこそこ飲んだという自覚はあるけれど、ここまで体が重くなるとは思いもしなかった。
私は頬に濡れた手のひらをのせて、火照りを直す。
「大丈夫……」
私は昨日と同じ言葉をそっとつぶやく。
乱れた髪をまとめることで、気持ちを引き締めた。
大丈夫、もう私は大丈夫。
だから、気にすることは何もないんだ――
洗面所から戻ると、テーブルの上には和風のランチプレートが用意されていた。
海苔の巻かれたおにぎりに卵焼き。
茄子の煮びたしと胡瓜の漬物、じゃことすった大根を和えたもの。
それらは私の食欲をいとも簡単に誘う。
「これ東吾さんが?」
「うん、って言いたいところだけど……メイが全部やってくれた。味噌汁飲むでしょ?」
「あ、はい」
言われるがままに返事をした私は、勧められた席へ座る。その向かいに東吾さんが座った。
お椀がふたつ、テーブルの上に添えられる。
「じゃ、いただこっか」
いただきます、と声をかけあって食を始める。
箸を手にした私は、食材を選ぶふりをして――そっと東吾さんをのぞき見した。
よくよく見てみれば以前よりも前髪が伸びている。
私よりも一回り大きいであろう肩、そこから延びる逞しい腕。
白いシャツにGパン姿のその人は、姿勢正しく座っている。
以前より気持ち痩せたように見えるのは、バイトのせいなのかもしれない。
半年ぶりに会う東吾さんは、朗らかな声で私に話しかけてくれた。
「綾ちゃんは向こうの学部に慣れた?」
「いろいろ大変ですけど――なんとかがんばってます」
「そっか」
「東吾さんは……今日もバイトなんですか?」
「うん。今日は昼から十二時間ぶっ通し。途中で中抜けの時間あるけど」
「大変ですね」
「もう慣れちゃった」
そう言って、東吾さんがみそ汁をすする。顔は笑っていたけれど、目元に浮き出たクマは明らかに疲労を訴えている。
もしかしたら、見ないふりをした方がいいのかもしれない。
私は目線をそっとずらすと、出されたお椀に口をつけた。
よい温かさが体内に染みわたるものの、飲み込むタイミングがつかめない。
もしかしたら喉越しの音が聞こえてしまうんではないかと、どうでもいいことばかり考えてしまう。
だめだ。東吾さんと一緒にいると落ち着かない。
しかも二人きりで食事だなんて――
心臓がどくり、とうずく。
昔、こんな風景を想像した時もあったけど、それは絵空事でしかなかった。
東吾さんが昨日のことを聞いてくる。
私は芽衣子と交わした内容を話していく。
学校のこと、バイトのこと、向こうで知り合った人たちのこと。
東吾さんは私のつたない話に身を乗り出して聞いていた。時々笑ったり、へえ、と唸ったりしている。
それらすべてが――今の状況が滑稽に思えてならなかった。
そして自分の心拍数がどんどん上がっていくのが異常としか思えない。
話題がひとつひとつ消えていく。私の中で不安が広がっていく。
このざわついた気持ちが何なのか、考えるのが怖かった。
ふいに訪れる沈黙が――怖い。
ひととおりの話が終わると、あとは出された物を黙々と食べるしかなかった。
新たな話題を拾うにしても、どこにあるのかが分からない。
一体何を話せばいいのだろう。
私が卵焼きに手を出したのはそんな時だ。
丸みを帯びた、淡い黄色の直方体。
ほおばると、口の中にふんわりとした感触とほどよい甘みがひろがって――
「美味しい」
思わずこぼした一言に、東吾さんが微笑んだ。
「メイの卵焼きは絶品なんだよな」
そこのジャコおろしと一緒に食べてみて、と東吾さんは続ける。
言われるがままに試してみると、今度はさっぱりとした風味が口の中に広がった。
塩気を含んだじゃこと粗めにすった大根が卵に絡んだことで、また違った食感を味わう。
「こっちも美味しい……」
「でしょ? メイがつくるのはふわっとしてて、ちょっと甘くて、冷めても美味しいんだ。これ食べちゃうと他の卵焼き食べられなくなっちゃうんだよね」
私の反応に、東吾さんは嬉しそうだ。
美味しさにつられた私は、卵焼きとじゃこおろしを交互につまんでいた。
口に含みながらそういえば、と思う。
大根は確か、胃の消化を助けてくれたはずだ。
よくよく見れば、食卓に並んだ食べ物たちは栄養のバランスも、疲れた相手に対する気配りも利いている。
芽衣子ってば。
家事は適当にやってるなんてこと言ってたくせに。
何だ。ちゃんと東吾さんのことを想って動いているじゃないか。
そして、東吾さんはそれを全部受け止めている。素直に喜んでいる。
――何だ。結局はそうなのか。
お互いへの揺るがない気持ちを見つけられたせいだろうか。
緊張が抜けると、今までの動悸が嘘のようにおさまった。
何かがすとん、と落ちていく。もやもやとしていた霧がすうと引き、今までの不安が解消される。
それでも、芽衣子の寂しそうな声は私の心に留まったままだ。
私は芽衣子の本心をぜんぶ汲みとれてはいない。
一緒に暮らすと些細なことでも、不満が募るものなのだろうか。
すれ違ったら、寂しくてたまらないのだろうか。
「東吾さん」
私は自分の箸を置いた。
顔を上げ、東吾さんの顔を見据える。
「一週間に一度でいいから芽衣子に感謝してください。でないと芽衣子が拗ねちゃいますよ」
すると、東吾さんの目が大きく見開いた。
何か珍しいものを見るような眼差し。あまりにも驚いた様子だから、私にも戸惑いが走ってしまう。
「私、変なこと言っちゃいました?」
「いや……昨日、樋本にも同じこと言われたからさ。ちょっと驚いただけ」
思いがけない偶然に今度は私が目を丸くする。
ただならぬ芽衣子の様子に、樋本さんも私と同じような思いを抱いたのだろうか。
「樋本さん、って東吾さんの友達なんですよね?」
「そ。就職試験で一緒になってさ。何だかんだでつるんでる。あいつ面白いっしょ?」
東吾さんの問いかけに私は首をかしげる。
面白いかどうかは分からないけど、今まで見た限り樋本さんはそんなに悪い人に見えなかった。
頼りがいがあって、教え上手で、照れたように笑う姿は微笑ましくて、一緒にいてほっとできる人だなというのが私の今の印象だ。
だから、とてもいい人だと思います、と私は述べる。
「昨日樋本さんがいてくれて、とても助かりましたし」
まぁ、最初の接近には焦ったけど、それは向こうも仕事に一生懸命だったからなのだろう。
あらかた食事を終えた所で、東吾さんが立ち上がる。
私もあとにつづいた。
「片づけ、手伝いますよ」
「ああ、気にしなくていいよ」
「でも、一晩お世話になったし――」
私は自分の意見を少しだけ押しつつ、器をかさねていく。
その途中であれ、と思う。
「漬物、食べないんですか?」
白い皿に残っているのは緑色の野菜。
「その、瓜系はちょっと苦手で……綾ちゃん食べる?」
東吾さんが私に皿を差し出す。メイにばれたら怒られるんだよ、と付け加えながら。
甘えが交じった懇願に私は一度、言葉に詰まってしまう。
至近距離での会話。ほんの少し前の私だったらどぎまぎして、答えすらままならないものだったのだろう。
でも、その時間はすでに超えていた。
「好き嫌いはいけませんよ、ちゃんと食べて下さい」
私はそっと皿を返した。
「せっかく芽衣子が東吾さんの為に作ったんですから、食べなきゃ」
「……だよね」
勝ち目がないと思ったのか、東吾さんはがっくりと肩をおとしていた。
「くそぅ。こうなるんだったら樋本を引きとめておけばよかった。あいつがいればどうにかなったのに」
「? 樋本さんは胡瓜好きなんですか?」
「好きと言うか。ありゃ河童だ河童」
「河童?」
「あれは胡瓜与えたら際限なく食うんだ。しかも今のバイトを決めた理由何だと思う? 『もろきゅうが一番うまかったから』だって。俺にはそれが一番理解できねえんだけど」
東吾さんは口をとがらせながら、うらめしそうな顔で漬物を見ていた。
私はまさか、と思ってみたりするけど――
ふと想像してみた。あの大きな体が胡瓜をむさぼっている姿を。
そう言われてみると、確かに樋本さんはちょっとだけ面白い人なのかもしれない。
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