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「酔っ払いのお姫さまを送ってきたんだよ」
俺の呆れ声に、東吾が俺のいる部屋をのぞいた。
奥で大の字にのさばるのは口をぱっくりと開けた芽衣子の姿。
「あーあ。しまりのない顔で寝てやがる……」
呆れた声をあげつつも、東吾の大きな手は芽衣子の髪をすきはじめていた。
乱れたタオルケットをそっと直す。
相手は違うけど、東吾は俺が躊躇った動作をさらりとやってのけてしまうから羨ましい。
「メイ……綾ちゃんと一緒だったんだな」
「メイさんの大事な友達だって?」
「ああ。最近は全然会ってなかったけどね」
そう言って東吾が目を細める。
綾さんを見つめる眼差しに家族のような温かさを感じた。
「綾ちゃんも酔いつぶれちゃったか?」
「さっきまで起きてたんだけどね。いつの間にか寝てた」
本当は星について二人で語っていたのだが――まぁ、それは言わなくていいだろう。
俺たちはねむり姫二人から離れると、灯りが残る台所へ移動した。
隣の部屋に灯りが漏れないようにしたことで、むっとした空気が室内にこもり始める。
「そうそう。おまえの携帯に全然繋がらなかったんだけど」
「ああ悪い。仕事でちょっとトラブっちゃって。番号解約したんだ……もしかしてメイ、何か言ってた?」
「さあ?」
俺もバイト中だったから、そういった話は聞いてない。
おそらく、綾さんも聞かされていないのだろう。
携帯に電話をかけた時、あんなにもうろたえていたのだから。
もしかしたら芽衣子自身も気づいてなかったのかもしれない。
「ちょっと外、いいか?」
東吾が手持ちの煙草をちらつかせたので、俺はうなずく。
奥の部屋で眠っているふたりに気づかれないよう、そっと部屋を抜け出した。
マンション前の廊下とベランダは火気厳禁らしく、喫煙者は外に出るしかない。
なので、俺と東吾は階段を下り、建物の前にある道路まで繰り出した。
深夜になっても、じめっとした空気は収まることはない。
風がないから余計に暑く感じる。
うっとおしさを感じる夜の帳の中、元気なのは自販機や外灯のあかりに群がる蛾や羽虫たちだけだ。
俺たちはマンションの前にある自販機に陣取った。
自販機の飲み物を促すボタンは売り切れを示すランプがちらほらついて、周辺には東吾と同じ境遇の輩が残していった吸殻が道路にのさばっている。
「コーヒーでいいか?」
東吾は自販機の灯に群がる虫たちを払いながら、ボタンを押した。
一度俺のうなずきを確認してから、同じ場所に力をこめる。
大きな音が響くと、東吾は缶コーヒーをふたつ出し、そのうちの一つを俺に差し出した。
「安っすいお礼で悪いけど」
「ホントにな」
俺は口元を歪めて、プルを外した。
口に含むと、ほどよい苦みが眠気のひとつひとつを吹き飛ばしていく。
やがて東吾の口に挟まれた煙草に火が灯った。
小さな灰皿がアスファルトの上にちょこんと置かれる。
「――で? 番号はいつ変えたんだよ」
「今日――じゃなくてもう昨日か。携帯壊されちまったんだ」
「誰に?」
「タチの悪い客」
東吾はため息を吐き出した。
「ちょっと前から出入り禁止にしてた奴なんだけどさー、新人がうっかり入れちゃって。店長と俺が止めたら大暴れしてもう大変。携帯で警察呼ぼうとしたら水没されるし」
「そりゃあ災難だったな」
「で、騒ぎのあと休憩入ってすぐ携帯ショップ走って――でも機種変払う金がなかったから、番号変えるしかなかったってわけよ」
「だったらすぐ連絡入れろっての。こっちは繋がらないって大変だったんだからな」
「悪い。本当、連絡する暇なかったんだ」
そう言って東吾は一本目を早々と吸い上げ、次の煙草にとりかかった。
いつもより大きな煙が、宵の空にぼんやりと浮かぶ。
「それにしても、酒に強いメイが潰れちゃうとはねえ……久々に綾ちゃんに会えたから、気ぃ緩んだのかな?」
そう、東吾はのんびりと言うけれど。
俺にはそんな簡単なことだとは思えない。
だいたい、酒はじめての友達相手にして、動けなくなるなんてありえないだろ。
それに俺たちに向けられた、帰らないで、の言葉。
「あんたら、最近うまくいってるの?」
ヒトゴトと思いつつ、俺は東吾に探りを入れてしまう。
「メイさん、最近ウチの店に来すぎ。日に日に酒と連れの人数増えてるし、男もいるし……そのうち浮気されても知らねえからな」
冗談半分、本気半分で俺は嫌味を言ってのけるが、東吾には、メイにそれはないから、とあっさり否定されてしまった。
「ずいぶん自信あるのな」
「つき合い長いからね。もう五年近くになるかな」
東吾の言葉のあとで、短くなった煙草が灰皿に埋まってゆく。
「メイは俺の知らない男友達とは絶対飲まないし、酔っても理性だけは残してるんだよね。もともとしっかりしているから……俺はメイの行動にとやかく言うつもりはないよ」
「疑ったりはしないって?」
「ああ。今も俺の仕事を理解してくれる。さびしい思いをさせていることは申し訳ないけど、俺はメイにすごく感謝してるよ。まぁ、面と向かっては言わないけどね」
芽衣子を想いながら、東吾が静かに微笑んだ。
あけっぴろげなノロケは聞くだけで耳がかゆくなるのだが、少なくとも東吾は芽衣子のことをとても大事にしているようだ。
そうなると芽衣子の帰らないで、は酔っ払いの戯言なのだろうか?
あるいは無意識の寂しさ――とか?
だったら。
「今の言葉、週イチでメイさんに言ってやれ」
「は?」
「おまえはどっか抜けてるから、そのくらいの気づかいが必要だってこと。つうか、シフトどうにかならないわけ?」
「大学が始まれば戻るんだろうけど……始まったら始まったで卒論だし。しばらくはむずかしいなぁ。社員になればまた変わるんだろうけど」
新しい煙草に火をつけながら、東吾はとつとつと語る。
社員、という言葉に引っかかりを覚えつつも、俺はそうか、と相づちを続けた。
「話には聞いてたけど……社員になる話、受けたんだな」
「一応。そっちは? 就職決まったの?」
俺は両手を挙げて肩をすくめた。
リーマンショックやら不況やらと言われる昨今、俺の受け皿はない。
最近では企業説明会に出ることすらおっくうになっている。
正月明けから就職活動をはじめて、半年。
会社のより好みをしているわけではないけど、面接ではことごとく落とされている俺がいた。
要領がわるいのか、それとも自分の熱意が伝わらないのか。
ここまでくると果たして自分は社会に必要なのか、悩んでしまう。
自分が社会で何をしたいのかさえ分からなくなってくる。
いっそのことフリーターでもいいか、なんて思いもよぎるけど、さすがにそういうわけにもいかないのが俺の性だったりするわけで。
「ま、そんなに焦らなくてもいいんじゃね?」
ふっと東吾が口を挟んだ。
「どこでもいいから、って考えで適当な会社選ぶより、時間かけてでも自分の納得のいく条件の所を選んだ方がいいって」
これは東吾自身の経験を踏まえた上での結論なのだろう。
その言葉を聞くたびに、俺の中にある焦りとプライドが渦巻いていることを、彼は知らない。
まあ、東吾も悪気があるわけじゃないから、立てつくつもりもないのだけど。
だから俺は苦笑程度にとどめておくことにする。
喉のつかえはぬるくなったビールごと流した。
東吾の指にある三本目の煙草はもうすぐ尽きそうだ。
「ところで、さっきからずっと気になってたんだけど」
「なに」
「『メイさん』ってのは何だ?」
ふいの質問に俺はぽかんとしてしまった。
そちらをみやれば、東吾のふてくされたような顔が目に入る。
「さっきからメイのこと名前で呼んでるだろ」
低い声が俺にからみつく。
ああ、煙草を吸うペースがいつもより早かったのはそういうことか。
東吾の嫉妬に俺の顔が思わず緩んでしまった。
「何が可笑しいんだよ」
「いや……あれは本人が名前で呼べって言ったんだよ」
「メイがそう言ったのか?」
「そう。年上なのに『姉さん』はないだろう、って。でもさ、そのまま呼び捨てにしたら誰かさんにどつかれるのがオチだし。だからさんづけで」
「なるほど」
俺の説明に、ようやく東吾が納得したような表情を浮かべる。
「そういえば――おまえ以外にメイさんを名前で呼ぶ人間、初めて会った気がする」
「綾ちゃんのこと?」
「そう。あの子、メイさんの周りにいないタイプだよな」
俺の中で綾さんはほんわかとした印象だった。
大人しくて少し頼りなさげで――でも、何事において一生懸命にやっていそうな感じ。
その清らかさを世間の波に投げ入れてしまって大丈夫なのかと思ってしまうくらいだった。
きっと、今まで大事に育てられたのだろう。
「どちらかといえば『守ってあげたい』って感じの女性だよな」
「そうだな。真逆だからこそ仲良くなれたのかも、ってメイも言ってたっけ」
「なるほどねえ」
つまり、お互いにないものに惹かれたってことか?
「つうか樋本、綾ちゃんに手を出してねえよな」
「は?」
「あの子は俺にとっても妹みたいなもんだからな。下手に手え出したらボコるぞ」
どいつもこいつも、何を言っているんだか。
芽衣子と同じ台詞を吐いた東吾に向かって俺は口元を歪ませた。
さっきまでいた角部屋の窓を見上げる。
今も彼女はあどけない寝顔を見せているのだろうか。
確かに、綾さんのことを可愛いなと思ったけど――それは一般論でしかない。
恋とかそういう話とはまた別の話だってのに。
やれやれと思いつつ、俺は気のないため息を漏らした。
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