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東吾さんのいる家をあとにすると、私は大学へ足を運ばせた。
昨日と同じ色の電車に乗り込み、最寄りの駅を目指す。
同じ大学といっても、農学部のある校舎は都内の喧騒から離れた郊外にあった。
電車を降りれば、私がバイトをしている大型スーパーの看板が迎えてくれる。
スーパーの横には商店の連なり。そこは夕方になると賑やかになる。
商店街を抜けた先に広がるのは住宅と畑のオセロだ。
アスファルトと土が共存する街――そんな、振興住宅地の一角に私の学舎はある。
私は整備された道路を歩きながら、考えを巡らせた。
本当はすぐにでも家に帰りたい。
でも畑の様子が気になるのも事実だ。
夏休み中、畑の管理は持ち回りだが、実習のレポートが課題に出されているので、どっちみち顔を出さなければならない。
私は他の農学生よりもスタートも遅いし、与えられた課題も人より多いから尚更のこと。
正直、炎天下の中での登校は気が進まないのだけど――これも自分で選んだことだ。仕方ない。
諦めに近い決心が浮かぶと、大きなあくびに襲われた。
気分転換に首を回すと、緑の世界が渦をまく。
歩道には同じ背丈ほどの並木が小さな陰を作っていた。
木々は早く成長しようと太陽に向かって茎や葉を横に伸ばしている。
それでもさんさんと降りそそぐ紫外線は殺人的だ。
帽子、持ってきておけばよかったな。
先を歩いている小麦色の子どもたちを見ながら、私はぼんやりと思う。
一番日差しの強い時間帯に外に出てしまったことを少しだけ後悔した。
駅から大学まで十分かかるかかからないかの距離だけど、アスファルトから漏れる熱気は私の体温を否応なく上げてくれるから困ったものだ。
この様子だと、今日も真夏日になるのだろう。
だとしたら熱中症になる前に大学にたどり着きたいところ。
私はだるい体に鞭をうつと、歩調を早めた。
緩やかな坂をやっとのことで超え、残りの距離を縮めていく。
すると、バッグそのものが震えた。
主張する携帯電話――着信は芽衣子からだ。
「綾ぁ?」
電話を取ると芽衣子の声が耳に届く。心なしか元気がない。
「昨日はありがと。その、いろいろごめんね」
「芽衣子、バイト出て大丈夫なの?」
「こっちは大丈夫……」
そう芽衣子は言うけれど、声色は全然大丈夫とは言えなさそうだ。
体力的なものもあるのだろうけど、きっと昨日のことを気にしているのかもしれない。
そんなことを思っていると案の定、話題は芽衣子から振ってきた。
「その、何だか綾にすごい迷惑かけちゃったよね? 綾お酒初めてだったのに。私がしっかりしなきゃだったのに……」
芽衣子のしょんぼり声に私は別にいいよ、と声をかける。
「私は全然気にしてないから」
「ごめんねぇ。申し訳ないというか、もうあやまるしかないっていうか……まったくもって記憶が飛び飛びなんだけど――ホント、変なこととかしてない?」
「私にはしてないけど」
「けど?」
「……樋本さんは大変だったと思う」
思わずこぼした一言に、芽衣子が食らいついた。
「え、何それ? あたし樋本っちにヤバイことしてたの?」
「ヤバイというか――まぁ、いろいろ迷惑かけてたというか」
一連の行動に私は言葉を濁す。よみがえるのは樋本さんが綴った苦労の記録だ。
酔いつぶれた芽衣子を家まで送ってくれたこと、芽衣子を背負って階段を上ってくれたこと、介抱を手伝ったはいいが、顔面強打をくらったこと。
私は芽衣子の記憶をひとつひとつ埋めていく。
まぁ、さすがに「帰らないで」と叫んだことは言わなかったけど、一連の出来事は芽衣子の気持ちを沈めるのに十分すぎたらしい。
「ええっ! あたし、そんなにコトしてたの?」
「……うん」
「うっそ。ちょっとの酒じゃ酔っ払わないって自信あったのに……うわ、ホント最悪だぁーっ」
「まぁ、樋本さんも怒ってるわけではなかったから。大丈夫だと思う、よ」
「本当に?」
「本当に」
私はそっと微笑むと、再び歩き始めた。
うろたえる芽衣子をなだめながら、たわいのない会話を続ける。
高い塀の向こう側では蝉たちが鳴きはじめている。短い命を悟ったのか、彼らは自分の存在を必死に訴えていた。
大学の正門にたどりつくと視界に鮮やかな緑色が広がる。
今朝収穫したものだろうか。小さなテーブルの上に胡瓜が山積みされていた。
刺々しいのは食材が新鮮だという証。彼らは通常の値段より破格で売られてた。
週末になると農学生たちが大学構内で野菜を売る姿をよく見かける。
それは授業の一環として作ったもので、近隣の住人にとって貴重な食材調達の場になっていた。
開店直後のこの時間はいつも人がひしめき合うのだけど、まだその波はきていないらしい。
売り子当番の学生たちは大きなパラソルの下でうだる暑さと戦っている。彼らの視線の先は向かいのコンビニで、冷房に浸される店員たちを恨めしそうに睨んでいた。
それは私にとって週末の見慣れた光景。
普段なら素通りしてしまう所だっただろう。
だけど――
「ねぇ芽衣子」
ふと、足を止める。
気がつくと、私は携帯をを持ったまま、つぶやいていた。
「樋本さんの住所、教えてくれないかな?」
私の言葉に、芽衣子は驚きの声をあげていた。
「まさか、私が潰れてる間に変なことされた?」
「え?」
「だって綾が初対面の男にそんなこと言わないじゃん。つうか、どうしたらその考えに至るわけ? 住所って現在地だよね? つうか、メアドじゃなくて何故住所? どうしてそうなる?」
「ええと……」
芽衣子の質問攻めに私は困ってしまう。
そんな矢継ぎ早に聞かれると答えに戸惑うのだけど。
目の前の野菜を見た瞬間、彼がもろきゅうを満面の笑みで食べている姿がふっと浮かんで――そしたら私の口は勝手に動いていたのだ。
とはいえ、自分の衝動を芽衣子がちゃんと理解してくれるかどうかも怪しい。
「ほら、昨日芽衣子の件で色々お世話になったし……お礼みたいなものっていうか、ね」
私は適当に話を取りつくろうと、芽衣子にお願い、と頼みこむ。
思い付きの行動ではあったけど、ダメならそれはそれでしょうがない。
そう思っていたのだけど――
「わかった」
芽衣子は私の要求をあっさりと受けてくれた。
「綾に頼まれごとされるのも早々ないからね。すぐ調べてメール入れる。ちょっとだけ待ってて」
「ありがとう」
私は感謝の言葉で締めくくると、電話を切った。
携帯をポケットにしのばせると、私は売り子の学生たちに声をかけ、買う意志を告げる。
ここの直売所は学生証を見せると、さらに値段をまけてくれる。
最初は胡瓜だけにしようかとも思ったけど、さすがに緑づくしは栄養偏りすぎかもしれない。
なのでトマトや茄子も買っておいた。
適当な大きさの段ボールを譲ってもらうと、びっちりと夏野菜を詰めこむ。
あとは配送を頼むだけだ。
ここにある即席の直売所は野菜を売るだけのものだから、配送は自分でやらなければならない。
こういう時、向かいにコンビニがあることがとてもありがたい。
ガムテープは……コンビニで借りるしかないかな。
私はバッグを肩にかけなおすと、箱の前にしゃがみこんだ。
びっちり詰まった夏野菜。この積載量だと、二日酔いの体が悲鳴をあげるだろう。
でもそこは農大生、私だって伊達に実習を受けているわけではない。
私は両手で箱を抱えると、一気に持ち上げた。
重さが腰に響かないよう腰を落とすと、一定のリズムを保ちながら道路を渡る。
途中、体が震えた。
二度目の着信、これは芽衣子からのメールだ。
私は店の前で荷物を置くと、携帯を開き、ディスプレイを確認する。
住所を見る限り、彼の家は芽衣子たちのマンションからほど近い所にあるらしい。
そういえば――昨日も歩いて帰るとか言ってたっけ。
私は画面に表示された文字をまじまじと見つめた。
漢字で表現されたことで、彼の下の名を初めて知ることになる。
樋本健。
健の字はケンと読むのだろうか、それとも――
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