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「綾さんは夏の大三角形、覚えている?」
「ええと……どの星でしたっけ?」
 俺は天井に広がる星の調べに人差し指をかざす。
「中心より東側――ちょっと左にいった所に、十字の星座があるんだけど……」
「あれ、ですか?」
 綾さんが空の一点を指で示した。
 お互いの指が重なった先にひときわ大きな星が輝いている。
「そう、あれがはくちょう座。で、はくちょう座のすぐ右下に小さい四角の星座があって、目立つ星がひとつ飛び出ているでしょ。それが織姫の星。そしてはくちょう座よりもっと下に矢印みたいな星があって」
「もしかして、あの一番大きい星?」
「そう。この彦星のアルタイル、織姫のベガ、はくちょう座の頭の部分――デネブを結んだ形が世に言う夏の大三角形」
「へえ……」
「今映っているのは天の川が縦に流れているから、上から下に星座が広がっているけど、実際は右上から左下に川が流れていて、彦星と織姫の星座は横に並んで見えるんだ」
 本当はこの時期、西の空にも春の三角形が広がっているのだけど、続けて話すと彼女が混乱しそうなので、今は省いておく。
「樋本さんって星に詳しいんですね」
「まぁ、俺も受け売りとかだけど」
「受け売りでも、説明がとても分かりやすかったです」
 思いがけない褒め言葉をもらったことで、俺は急に恥ずかしさを感じてしまった。
 その中には喜びの気持ちもあったのだけど、感情は胸の内に押しこめる。
 わずかなくすぶりも見えない所へ隠した。
 もともと、俺は星に興味があったわけではない。
 星についての知識は山登りの布石といってもいいだろう。
 まぁ、その山登りも俺の趣味ではなく、親父のものだったけど。


 俺は小さな宇宙に揺られながら、ぼんやり思い返す。
 規模は違うけど、昔もこんな風に寝転がって、満天の星空を見たことがある。
 あの時はもっと空に近い、山小屋の屋根の上で、空には宝石箱がひっくり返ったような景色が広がっていた。


 中学の頃、俺は親父に連れられて山に登ったことがある。
 それは日帰りのハイキングから、本格的な登山まで。さまざまな山へ足を運んだ。
 親父からは登るときの足の運びや、山での心得、山に生きる様々な生態を教えてもらった。
 頂上にたどり着いた時は、最高の褒め言葉と、素晴らしい景色が待っていた。
 もちろん、山登りもいいことばかりではない。
 不意の油断が、事故を招いたりする。
 天候不良で予定を大幅に狂わされたことはもちろん、下山途中で怪我をしたこともあった。
 一度、親子で遭難しかけたこともある。
 そういったトラブルが起きた時は、山小屋で流れゆく雲や星を追いかけたり、親父の若い頃の話を聞いたりして、折れそうな精神をつなぎとめていた。
 過去の挑戦を語る親父は、スーツを着ている時とは違い、とても生き生きとしていた。
 その背中は、俺がいつも見ている以上にたくましく、大きく感じたものだ。 
 親父が教えてくれたことで、俺の山を見る目も変わった。
 今も自然が作る造形に対して尊敬を抱いている。
 同時に危険との背中合わせだという認識も――


「あの……」
 過去への思いを馳せていた所へ、綾さんの声が重なる。
 俺の意識がふっと戻った。
「北の空に北斗七星がふたつ見えるんですけど……あれは?」
「小さいひしゃくはこぐま座。柄の先端にある星は北極星だね」
 俺は中心を司る星に目をむけた。
 こぐま座のひしゃくはこの時期、器を天頂に向けている。 
 それと相反するような向きでいるのはこぐま座の親であり、七星を預かるおおくま座だ。
 俺は頭上に広がる北斗七星を見ていたけれど、そのうち、あるものがふっと思い浮かぶ。
 そうか、とひとりつぶやく。 
「今思ったんだけど――その観賞会、子どもたちに星時計を作らせてみたら?」
「星時計?」
「日時計の夜版みたいなもの。盤の中心を北極星に合わせて、北斗七星の位置から時間を割り出すんだ」
 この時期は北斗七星もまだ高い位置にある。
 図書館やネットで調べれば星時計について詳しい記述が見つかるはずだ。
「昔の人たちは星や月の位置でだいたいの時刻を測っていたらしいよ」
「何だか面白そうですね」
 俺の提案に綾さんも興味津津のようだ。
「工作時間をつくったら子どもたちも飽きなさそうだし……今度サークルで提案してみます」
 綾さんの、きらきらとした瞳が俺の心に染みわたっていく。
 くったくのない笑顔に俺もいつのまにか顔が緩んでしまったのは言うまでもない。


 俺は綾さんから、他にどんな星座があるのか、と聞かれたので、俺はさそり座の話を始めた。
 夏の夜、南の空に広がる緩やかなSの字。
 尾に毒を持つさそりはその昔、乱暴者の巨人、オリオンを倒したという逸話がある。
 今はまん中の三つ星がトレードマークとなっているオリオン座。
 彼は毒を盛られたことがトラウマとなったらしく、今ではさそりのいない冬から春にしか顔を出さない。
 またオリオンを倒したさそりも天に上げられたが、その毒が脅威とならないよう、彼には監視役がついていた。
 それがいて座だ。
 いて座は占いと同様、常にさそりの隣にいて、離れることはない。
 星で結ばれた弓はぴんと張られたまま、この空をめぐっている――


 俺はひととおりの話を終えると、首だけを上へ浮かせた。
 途中で綾さんの相づちが切れていたことに気がついてはいたけど……
「やっぱり」
 綾さんの顔は天井ではなく、床の絨毯に向けられていた。
 静かな寝息は芽衣子のものと重なっていく。
 俺はゆっくりと起き上がった。
 隣にいる芽衣子はようやく深い眠りに入ったらしい。
 軽く体をゆすると、掴まれていた手はあっさりと解かれた。
 とはいえ掴んだ服の一部分は見事にしわくちゃだ。
 家に帰ったら洗濯確定だな――そんなことをぼんやりと思いながら、俺は体を傾ける。
 視線を芽衣子から外せば、彼女を越えた先にもう一人のねむり姫がいた。
 あどけない寝顔に思わず笑みがこぼれてしまう。
 素直に可愛いな、と思う。


 俺はプラネタリウムのスイッチを切ってから、押し入れの中からタオルケットを出した。
 綾さんの体をそれで包みこむ。
 床に広がるのは長い髪が作りだすやわらかな波。
 そこに添えられた手のひらが何と無防備なことか。
 綾さんの可愛らしい寝姿に俺は自分の手を差し伸べそうになるけど――
 すんでの所で動きを止めた。
 目の前にいるのは子どもじゃない、れっきとした成人女性だ。
 触ったらセクハラになる……のだろう。
 ただ、頭をなでてみたいだけなんだけど、な。
 ほんのちょっと――眠っている間なら大丈夫だろうか?
 少しの欲望と理性が俺の中でせめぎ合う。
 そうこうしているうちに、玄関のあたりが急に騒がしくなった。
 俺のつまらない情はあさっての方向に飛ばされてしまう。
「……あれ?」
 騒がしさが消えたと思えば、すぐに間抜けな声が突き刺さる。
 振り返った先にあったのは黒い人影、数秒遅れで、台所の電気がぱちりと点く。
 東吾はざっくりと切られた頭をかいていた。
「何で樋本がいるわけ?」


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