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 一触即発の前触れ。


「温海さん……」
「……なんて余計なことしてくれるのよ!」
 温海が俺の腕を振り払った。
 言葉がおじさんに噛みつく。
 だが。
「そう簡単に楽なんかさせません!」
 それは怒りの感情で引き裂かれていく。


「貴方は角膜を与えようとしているけど、違うでしょう? そんなことしても解決にならない。 貴方は野辺山さんに真実を話さなきゃならないし、病院は謝罪すべきなんです」
「だからって病院を訴えろって?本当に分かってるの? 裁判なんて、訴訟起こしたって何年かかるか……お金だって」
「そうですね。現実は甘くない。相当な気力がなければ……負けるでしょうね」
「それを見越してあんたは家庭を犠牲にしたってわけ? そこまでして私を生かしたいわけ?たいそうな正義感だこと」
 バカじゃない、温海は言葉を吐き捨てた。
「私はイヤよ! 病院を訴える気はないわ。だって……病院は何もしてないのよ。『私』がやったのよ。私が!」
「まだそんなこと言うんですか!」
「それでいいじゃない。私は自分が許せないのよ。だったら責任取って死んだ方がずっとマシよ」
「温海さんっ!」


 温海はおじさんを睨んだまま、動かない。
 話は平行線のままだ。
 やがて……おじさんがため息をついた。
「わかりました。貴方がそこまで言うなら……仕方ありません」
 諦めの声に、温海は少しだけ表情を緩める。
 だが、それは違う意味合いで。
「遺書と貴方を警察に渡します」
「なっ」
「遺書を見た警察は貴方を捕まえるでしょうね。 おそらく……貴方が罪を認めたとしても、あの内容なら病院は管理責任を問われるでしょう。ボロが出てくるのも時間の問題です。 ああ。どうせなら警察の前にマスコミに流した方が早いかも……こっちは事実が公表されればいいんですから」
 そう言って、少しだけ口元を上げるおじさんに、
「ふざけないで!」
 温海が怒鳴る。


「マスコミなんて。そんなことしたら……病院だけじゃない。被害者や別の患者まで巻き込まれるじゃない! あんたは好きで飛び込んだかもしれないけど、彼らは違うのよ。そんな、みんなの人生狂わせること……」
「それはできないって? ――はっきりしませんねぇ」
「え?」
「病院と患者。貴方はどちらを守りたいんですか?」
 おじさんは手元の携帯を持てあます。
「このままじゃ中途半端だと思いませんか? どっちつかずで、偽善だ。臭い自己満足だ」
 表情は穏やかだが、言葉は的をついている。
 氷のように冷たい口調は温海を詰まらせる。
「いいかげん、決めて下さい。病院か、患者か。それとも今まで通り、放棄するのか」
「くっ……」
「ま、私はどっちでもいいんですけどね。どれを選んでも、貴方が思い描いた結末は私が握りつぶしてしまうんだから」
「そんなこと!」
「言ったでしょう? そう簡単に楽なんかさせないって」
 さあ、と。
 非情な声が温海を押しつぶす。
「答えないなら私の都合のいい方……警察を呼びます。貴方は危険だし、私たちじゃ手に負えないですからね。 もちろん、死んでもらったら困るってのもあるんですけど」
 温海は唇を噛む。
 どうみても不公平な選択だった。
「……答えないんですか?」
 ちょっと前だったら。
 おじさんの戯言など、彼女が一喝するだけで終わったはずなのに。
 今は言葉に隙がない。
 怒鳴って終わる話じゃない。
 温海は焦ったまま。


 おじさん――本気だ。


 時が緩やかに、確実に流れていく。
 でも、温海は答えなない。
 答え――られない。
 しばらくして。
「……わかりました」
 決意を固めたおじさんは、
「ま、留置所の方が今の貴方にはお似合いかもしれませんね」
 そう言って。
 さっきの携帯番号よりも短い、三桁の数字をなぞった。
 小さな機械音。
 最後に残った通話マークの上に、親指が乗って。
 ボタンが動く――


「待って!」


 しなやかに伸びた手が、弧を描く。
 おじさんの利き手が叩かれた。
 乾いた音。
 同時に小さな電話は床に落ちて。
 更に弾んで、転がっていく。
 廊下を騒がせた音はこだまを残し……やがて消えていった。
「温海さん……」
「……分かったわよ」
 ため息。
 さっきまでうなだれていた温海に厳しい瞳が戻った。
 それは憎しみに近い感情。
 でも。
「私が訴えればいいんでしょ! それで満足?」


 新たなる、決心。


 安心して、ふっと笑顔をのぞかせるおじさんを。
 温海がすごい形相で睨みつけていた。
「あんたのこと、一生恨むから……何度倒れても、そう簡単に死なせないんだから!」
「そうですか。結構長生きできそうですねぇ」
 おじさんに、いつもののほほんとした表情が戻った。
 それが癪だったのか、ぷいっと背を向けてしまう温海。
 その二人の様子に、
「何だかよく分からないんだけど……とりあえずよかった、なわけ?」
「みたい、だけど……」
 未だに情況が理解できてないrozeとユウキ。
 唯一知っていた俺は安堵のため息をつくけれど。
 こんな追いつめ方は――
「おじさんらしくない」
「でも、話はまとまりましたよ。いいじゃないですか」
「それにしたってあんな言い方……あれは脅迫じゃあ」
「だって。この位やっとかなきゃ温海さん、絶対自分から『生きる』なんて言わないでしょう?」
 その、含みを持たせたような笑い方に。
 はっとした。
「方法なんて脅迫でも何でもいいじゃないですか。どうせ死にたいと思っている人間に常識や理性なんて通じないんだから。 どんなに自分が願っていても、訴えても。相手が『生きたい』と望まなきゃ結局何も変わらないんです。 ま、今回うまく引き出せたからよかったですけどね」


 ――やられた。


 俺が必死になって捜していたことを。
 それをおじさんがあっさり解いちゃうものだから。
「うわっ……」
 俺は思わず頭を抱えてしまう。
「何かすげー負けた気分かも……」
 やっぱりダテに年を取ってないってことか?
 そんな俺の苦悶を悟ったのか。
 いいえ、とおじさんは首を横に振った。
「私は――狡いんですよ。事情を知っていながら、見て見ぬフリをしたのですから。私の方こそ自分勝手で……逃げてたんです」
「おじさん……」
「でもね。あの瞬間、私は目の前で人が死んで突然消えてしまうことが怖くなった。 あんなに死にたいって言ってたのに、それでも必死に助けようとした温海さんを見て……自分が恥ずかしくなりました。 貴方が生きかえって、まだまだじゃないかって、感じたんです。だからこの先、老いて体が動かなくなっても、カッコ悪くても。私は自分のために生きたいと思いました。 教えてくれたのは貴方と、温海さんなんです」
 おじさんが振り返る。
 温海さん、と呼ぶ声はとても優しい。


「子供達は必死に立ち向かおうとしている。なのに大人の私たちが逃げてばかりじゃ格好悪いじゃないですか。 貴方は私の人生を賭けていいくらい生きる価値がある、小学生の彼が守ってあげたいと思うほど、愛されるべき人間なんです」


 温海はおじさんに背を向けたままだ。
 でも。
 ふとのぞかせた耳の裏側が赤くなったのに俺は気づく。
「バカよ……あんたたち」
 温海がつぶやいた。
「なんて人達に遭遇したのかしら?野暮天に卑怯者に、泣き虫に早とちり……本当、ろくでもない」
 皮肉めいた言葉がこぼれる。
 でも、その奥に涙が混じっていることを、俺たちは気づかないフリをする。
「あんたたち、人間として本当、最悪」
「……それはお互い様だと思うけど?」
 rozeが口をへの字に曲げる。
「温海さんだって。怖いし、執念深いし、諦め悪いし……」
「私、そんなにねちっこい?」
 温海がくるりと振り返る。
 無愛想な顔が、責任感あるってならわかるけど、と言うけれど。
 rozeはふっ、と小悪魔な笑みをのぞかせる。


「だって……ねぇ? この中で一番死ぬ気満々だったし」
「そうそう。未遂で終わってもへこたれないっていうか」
 しみじみ思ったことを、つい口にする俺。
「正直、責任感もここまでくると……どうかと」
 おじさんの上乗せの一言に。
「な」
 図星なせいか、温海がひねくれたように口をとがらせる。
「でも僕、そんな温海さんも好きだから」
 そんな悪態の数々をさらっと包み込んだユウキはというと。
 いつの間にか温海の手をとっている。
 温海も繋がれた手を離すことはなかった。


「……でも、おじさん」
 ユウキがおじさんを見上げた。
「このまま離婚しちゃうの?」
「どうなるんでしょう?」
 おじさんは首をすくめる。
「でも、別れても私に娘がいることには変わりないし、娘を大切に想ってくれるひともいる。 もしかしたら、また違った関係を作れるかも……離れることで、大切なことに気づくかもしれませんね」
 そう言って笑顔をのぞかせるものだから、
「何よ……カッコいいこと言うじゃない」
 rozeの口から誉め言葉が出た。
「ま、そういうのも悪くないよね。前向きで……いいんじゃない?」
 rozeがちらっと俺を見る。
 何か言いたそうな表情だったが俺は何が何だか分からない。


 そして――


               
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