「僕、イジメられたって言ったでしょ」
ユウキはとつとつと自分の想いを口にする。
「ずっと酷いこと言われてたから……怒鳴られるのが怖くて――
最初、温海さんもあいつらと同じだと思ってたんだ」
ユウキの後ろで、怯えた少年の陽炎が揺らぐ。
「でも……温海さんは違った。厳しかったけど、僕を無視なんてしなかった。
それに管理人さん助けた時『ありがとう』って言って誉めてくれたでしょ?
こんな僕でも人を救うことができるんだって、僕は必要な人間なんだって。
温海さんは僕に自信を与えてくれたんだよ。すごく嬉しかったんだから」
「ユウキ……」
初めて少年の名を口にした温海へ笑顔が向けられる。
はにかんだ様子は、やっぱり恋っぽくて。
嘘だろう?
俺は誰かに問いかけたくなる。
だが、他の二人も呆気にとられたままで。
言葉も出ないようで。
……和らいだ空気はすぐに引き締まった。
「僕は温海さんが何に苦しんでいるのか分からない」
でも。
犯罪者でもいいよ、とユウキは言った。
「今度は僕が温海さんを助けたい。守りたいんだ!」
少年の勢いに、温海の肩が揺らぐ。
ユウキの大きな目が彼女を射抜いていた。
昨日温海がきれいだといった瞳。
宿った意志に揺らぎは見られない。
その輝きは温海を捕らえて離さない。
「あ……」
俺が意識を失っている時に芽生えた感情。
そして。
自分の、何気ない言葉が。
ユウキを変えてしまったことに気がついた温海は――
「だめよ……」
速攻でユウキを突き放す。
「それ以上言わないで……側にいたら不幸になる。私は……私はいなくなるべきなのよ」
「温海さん!」
「あんたを汚したくないから言ってるの!」
それは、初めて見せた戸惑い。
「そんな口説き文句……私に使わないでよ。そんなこと……っ」
自分がどれだけ汚いか思い知らされる、と。
続けた彼女の拳が震えていた。
「どうして? 何でそう思うの? 温海さん汚くないじゃん。カッコいいよ。きれいじゃないか!」
「やめて!」
温海は耳を塞ぎ全てを閉ざそうとする。
真っ直ぐな言葉たちは逆に彼女を追いつめていくばかりで。
「もうやめてよ……」
うつむいた彼女の、今にもこぼれ落ちてしまいそうな雫。
そこにユウキの顔が小さく映っていた。
でも、瞼に潰されてしまう。
「お願い……楽にさせて……死なせて――」
その場にうずくまり、小さくなっていく温海に。
ユウキは言葉を失う。
必死で訴える温海は痛々しくて。
そっと手を差し伸べそうに、なる。
でも、認めるわけにもいかなくて――
ユウキはただ必死に首を横に振るしか術がなかった。
俺もrozeも声をかけられずにいる。
誰も同じ。
絶望の淵を歩く温海に。
答えを与えることができないのだろうか……
―― その時だった。
「わかりました」
そう言ったのは、おじさんで。
緊迫した空気が、変わる。
でも。
一体何が分かったというのだろうか。
おじさんは、自分が着ている上着の内ポケットを探ると。
黒い携帯電話を取り出した。
途中、何かをためらうような視線を残すが。
それを振り切り、軽快なリズムでボタンを押し始める。
しばらくして。
「朝早くにすいません。私です」
おじさんは、どこかにいる相手と話しはじめた。
「ああ、切らないで下さい。あの、お願いがあって電話したんです――いや、調停の話じゃなくて……
その、君が雇った弁護士を紹介してもらえませんか」
「!」
弁護士、という言葉に。
温海の目が見開く。
俺はおじさんが何を求めていたのか、理解する。
そうだった。
あの遺書は本に挟まれていたんだ。
だとすれば。
俺の前に見る機会があったのは――
「何か言ったの?」
温海が俺を一瞥する。
その表情が何か怖かったので、
「言って……ない。俺の前に誰か読んだ……のかなぁ?」
つい、曖昧に答えてしまう俺。
だが、その先を想像したのか。
温海の顔色が、さっと変わって。
「ちょっと!」
立ち上がり、おじさんたちの会話に飛びこんだ。
「な……突然何ですかっ」
「弁護士ってどういうことよ!」
電話などおかまいなしに問いつめる温海。
その表情は極悪に近くて。
下手したらおじさんを呪い殺してしまいそうだったので。
慌てて俺が止めに入った。
温海を羽交い締めにして、動きを止める。
おじさんは今の会話を聞かれまいと、携帯を遠ざけていたようだったが――
<――何?今の声>
携帯電話の中から、女性の声が漏れた。
よく見ると、携帯の小窓には『妻 携帯』と文字が流れていて。
うわ、おじさんが話していたのって……奥さん?
<どうしたの? >
電話越しに聞こえる低い声に、
「ああ、何でもないです。ちょっとした電波障害で……」
かぶりを振るおじさん。
だが。
<……嘘おっしゃい。女でしょう ?>
おじさんの顔が引きつった。
「いや……それはですね」
側にいた俺に、一抹の不安がよぎる。
なんとなく嫌な想像が浮かび、俺は温海をそこから離そうとするが、
「ごまかしてないでちゃんと答えなさいよ!」
すでに温海さん、問いつめてるし。
<やっぱり女じゃない! >
携帯で奥さん、更にヒートアップしてるし。
……どうするんだよ。
<怒らないから正直に答えなさい。何処にいるの? そこに居る女は何! >
「一体何企んでるのよ!」
<答えないのね? 言えないような人だってことね>
「あんたこそ何様のつもり?」
<まさか……浮気? 隠してたの?>
「あんたには関係ないことじゃない!」
<否定しないってことは……そうなのね? 浮気してたのねっ>
「もう放っておいてよ!」
<甲斐性ないとは思ってたけど、浮気までされてたなんて……こうなったら容赦しないんだから! 慰謝料ふんだくってやる! >
「余計なことしないでって言ってるでしょう!」
<あなたっ! >
「おじさん!」
矢のように飛びかう罵声は全ておじさんに向けられているが。
それは女性二人だけの会話のようにも聞こえて。
けど、俺は温海を抑えるのに精一杯。
いくら誤解とはいえども。
これでは修羅場まっしぐらじゃないか。
おじさん、ここで固まっている場合じゃないだろうが。
どうするんだよ。
と。
次の瞬間――
「やめなさいっ!!」
一瞬とはいえ、すごみのある声が飛んだから。
こっちがぎょっとしてしまった。
横顔から見える。浮き上がった首筋の血管。
紅潮した肌。
やばい。
おじさん、許容量を超えちゃってる。
とうとう――キレた!
「温海さんはちょっと黙って! 話がややこしくなる」
「な」
「それから」
おじさんは携帯電話を耳に当て、
「君もちょっとは人の話を聞きなさい! 君はいつもそうだ。『私が何も言ってくれない』って愚痴を言っているけれど、
それは君が私の話を聞こうとしないだけでしょうが!」
と奥さんに早口で文句を押し込める。
今までが穏やかすぎたものだから。
おじさんの、その豹変ぶりは驚きで。
俺の体が思わずのけぞってしまう。
「とにかく!」
弁護士は絶対捕まえておいて下さい、と。
おじさんは電話の向こうにいる奥さんに伝えた。
「もちろんタダでお願いしているわけではありませんからね。ちゃんと聞いてくださいよ。
っていうか、録音しといて下さい。君のことだ。証拠だ何だって、色々残しておくんでしょ?」
いいですか? と受話器の向こうに問いかけたおじさん。
少しの間。
そして――
「私の要求を受けてくれるなら、君の望み通り離婚に応じます。必要があれば慰謝料も払いますし親権も放棄しますよ。
それでも不服なら裁判でも何でも戦おうじゃないですか。何でもきやがれってんだ、コノヤロウ!」
これは宣戦布告だ――
そう、見事にセリフを決めたおじさん。
俺はその啖呵以上に。
滑舌があまりにも素晴らしすぎて、思わず拍手を向けたくなる。
けど……ちょっと待て。
これって、もの凄く大変なことをしでかしてるんじゃあ……
だが、おじさんは興奮が冷めないのか、さして気にもせず。
一度咳払いをすると、
「それと、ちーちゃんに伝えてもらえますか? 一日遅れになったけど、誕生日おめでとう、って」
と、優しい言葉で締めくくろうとする。
早めに巻いた時間を調整するように。
厳しい口調は残したまま、電話を切った。
それでも、事の一部始終を聞いていた温海の体は固まっていて。
緊迫した空気は終わらない。