君といた夏

 4



 夜店をゆっくりと時間をかけて本堂に戻ると、社務所の前で、しろ兄ぃに会った。
「おう、ウメ。ミナちゃんがおまえのこと捜していたぞー。いいねぇ若いもんは」
 ほろ酔い気分のしろ兄ぃはどこかご機嫌だ。その能天気さにイラっとした俺はしろ兄ぃから顔をそらす。
 ミナが俺を捜していたのはきっと、背中に引っかけた麦わら帽子のことだろう。
 今はミナと顔を合わせたくない。帽子はミナの家の玄関に置いていこうと思っていた。
 俺はバカ兄を振り切ると、ミナが生活している母屋に向かおうとする。その一方で巫女舞の時のことを思い出していた。
 あの時、一瞬だけ目があった。
 はるか遠くを見渡せる銀杏の木の上は俺たちにとって特別な世界で――秘密基地のようなものだった。
 空に近く、誰にも縛られない、自由な場所。
 ミナは俺がまだあそこにいると思ったのだろうか。
 でも、今は――
 気がつくと俺は銀杏の木のある場所へ向かっていた。ふってきた不安が俺の心をはやらせる。それはキョウも同じだったようだ。
 和太鼓の音に乗って人が音頭を取り始める。緊張の高ぶりとともに銀杏の木の裏をのぞくと、ミナが奴らの前で止めて下さい、と叫んでいた。
「火事になったらどうするんですかっ!」
 太鼓の音で消えないよう、ミナは語気を強めていた。よく見れば、木の根元に煙草の吸殻がいくつも落ちている。
「ここは煙草を吸う場所じゃありません! というか、あなたたち未成年じゃないんですか?」
「そうだよ。俺らみーんな未成年だけどそれがどうした?」
「だったら!」
「いちいちうるせえなぁ!」
 突然の罵声にミナがびくりと肩を揺らす。長髪野郎がミナに顔を近づけた。
「あんたさ、さっきから俺らのこと疑ってるけど、俺らが煙草吸ってる所を実際見たわけぇ? 落ちてた吸殻を拾ってまた棄てたとか思ったりしないわけ?」
「それは……」
 長髪野郎の屁理屈にミナの声が尻すぼみになる。奴らの目にはいやしさが残っていた。
 あのバカ。なに絡まれているんだよ。
 カッときた俺は思わずミナ、と叫んでしまう。
「おまえ、こんなところで何してるんだよ!」
「ウメ……」
「行くぞ」
 俺はミナの腕を掴んで歩きだす。その場から離れようとすると、通せんぼをくらった。ちょっと待った、の声が俺たちの動きを止める。
「こいつ、酒屋の息子じゃね?」
 アロハシャツを着た男の言葉に他のふたりが反応した。三人から顔をじろじろとのぞきこまれる。
「やっぱりそうだ。酒買った時、店にいたガキだよ」
「へー」
 奴らの酒臭い息に俺が顔をしかめていると、腕に衝撃が走る。ミナの腕が俺から離れた。あっという間に人質にとられてしまう。
「ミナを離せ」
 威嚇する俺に長髪野郎はいやらしい笑みをのぞかせた。俺の体の小ささを見て、勝てると思ったのだろう。
「だったら酒持ってきてくれないかなぁ。俺、親に頼まれちゃったんだよねぇ」
 猫なで声で長髪野郎が聞いてくる。何が頼まれちゃった、だよ。酒臭い息でバレバレだっての!
 俺はふざけんな、と反論しようとするが、すぐに言葉をのみこんだ。キョウが『あいつらの挑発に乗るな』と引き止めたからだ。口を封じられたミナも、首を横に振っている。
 こうなってしまったら俺は感情を抑えるしかない。
「嫌だ……未成年に酒は売らない」
「はぁっ? 何それ?」
「おまえら未成年だろ。未成年に酒は売らない。ウチの店のきまりだ!」
 俺は自分なりの理論を言葉にぶちこむ。
 奴らがぷっと吹き出した。
「何それ。今更イイコちゃんになっちゃうのぉ? それとも女の前でカッコつけたいのかなぁ? おまえ、この女が好きなわけ?」
「ミナは関係ない!」
 相手に煽られ、俺の冷静さが飛んだ。『ウメ』と厳しい声が走るが、俺はキョウを無視する。
「ミナを離せ! おまえらにやるものなんて何もない!」
 すると、長髪野郎から甲高い笑いが広がった。長い前髪の間からのぞかせた鋭い目に血の気が走る。
「つっまんねぇ。ちょーつまんねーの」
 長髪野郎が俺に近づく。拳で腹を思いっきり突かれた。
「おまえ最悪〜 ボッコ決定」
 不意打ちの攻撃に俺は顔を歪めた。さっき食べた肉の香りが鼻を抜ける。痛みと吐き気に襲われた。お構いなしに拳や蹴りが打ち込まれる。腹に、足に痛みが走った。膝が折れると、振動が地面を通して伝わってくる。
 神社に集まった人々は舞台の上で催されている和太鼓に釘付けだ。
 ここは大木の陰になっていて何をしているか分からない。バカでかい音を流すスピーカーのせいで、声すらかき消される。盛り上がる祭りの中で、俺たちだけが孤立していた。
 本当はパンチの一発でもお見舞いしてやりたかったけど、現実は散々だ。寄ってたかっての攻撃に自分を守るのがやっとだ。
「ほら、どうした? かかってこねぇのかよ。それとも酒でももってくるかぁ?」
 長髪野郎が俺をけしかけ、みぞおちに蹴りを飛ばす。肩を掴まれ、あさっての方向へ飛ばされると、今度はタトゥーの男が俺の顔を殴った。
 銀杏の木のそばではアロハの男がミナの口をふさいでいる。ミナも必死に抵抗をしているようだが、男たちの力の前では無力だ。ミナの瞳からは涙がにじんでいた。
「ほら、とっととキレろよ。もっと面白いことしようぜ」
 長髪の男が俺の頭を踏みつける。土を噛まされ、あまりの苦さに唾を吐いた。
「ホントつまんねぇなぁ。こうなったら巫女さん襲っちゃうか」
 俺ははっとした。
 長髪野郎が顎で仲間に指示する。にやにやと笑いながら、タトゥーの男がミナに近づく。ミナの体がさらに固まっている。
「やめろ……ミナに触るな!」
 俺は気力だけを頼りに立ち上がる、が――背後に殺気を感じた。
 振り向いた先で聞いたのは狂った叫び。ざまぁ、とかバカ、とかそんな言葉だった気がする。同時に、男の持っていた細長い「何か」が振り下ろされる。
 やばい、と思った。
 逃げなきゃ。でも遅い。体が痛くて動かない。
 もう自分を守ることすらできない。
 もうだめなのか―― 
 そう思った瞬間――突然、体が勝手に動きだした。
 男の攻撃をすんでのところでかわし、地面を転がる。すぐに立ち上がると、相手が持っていた棒きれを思いっきり蹴り飛ばした。
 体を翻し相手の襟を掴む。力の流れを読み、風を後押しすると、長髪野郎は空の彼方へ吹っ飛んだ。太鼓の音に乗って、見事な一本背負いが決まる。
「『青梅!』」
 自分ではない声が口から洩れた。痛みは相変わらずだが、内側に追いやられたおかげで多少は和らいでいた。キョウの意識がダイレクトに流れこんでくる。
「『気持ち悪くないか?』」
 ああ、どうにか大丈夫みたいだ。
「『ならよかった……ちょっとだけ体、借りるな』」
 まるでチャリを借りるかのようにキョウは言った。すぐさま、タトゥーの男が襲いかかる。てめええっ、という声とともに両腕を封じられる。
 キョウは恐ろしいほど冷静だった。
 腕を掴まれたまま、相手をダンスに誘う。小刻みにステップを踏み主導権を握ると、男の両足を一気に蹴りあげる。これは朱姉ぇにしょっちゅうかけられている技だ。
 案の定、タトゥーを刻んだ男の体が無防備な体制で地面に落ちた。打ちどころが良かったのか意識が飛んでいる。長髪野郎も、起き上がる気配はない。
「お、おまえっ……」
 最後の一人がミナを盾にして後ずさる。
「『彼女を離せ!』」
 張りのある声が、体を響かせた。言葉にこめられたのは深く強い意志。
 アロハの男はもともと腰巾着だったのだろう。キョウのただならぬ気迫に怖気づいたのか、ミナを思いっきり突き飛ばすと、あっという間に尻尾を巻いて逃げていく。ミナの膝が地面に打ち付けられる。せっかくの袴が土にまみれて台無しだ。
「『ミナちゃん、大丈夫? けがはない?』」
 優しい声にミナがうなずく。ミナはすぐに気がついたようだ。目の前にいる俺が俺じゃないことに。
「キョウちゃん……なの?」
 ミナの問いかけにキョウは微笑んだ。キョウはミナの服についていた土を払うと、借りていた麦わら帽子を差し出す。
「『ミナちゃん。僕に名前をつけてくれてありがとう。ウメのこと、これからも頼むね』」
 キョウの言葉は丁寧で、どこかよそよそしい。
 その一方で、俺はキョウの意識が、徐々に薄れていくのを感じていた。砂時計が時を知らせる時のような、さらさらとした流れ。
 何だよ、この感覚。
「『もうウメと一緒にいられない、ってことだよ』」
 俺が抱いた疑問にキョウが答える。
「『どうやら、神さまのバチがあたったみたいだ』」
 脳裏に昼間の言葉がよぎった。僕がウメの体奪ったら、神さまのバチが当たりそうだな、そう言ってキョウは笑って――
 バチなんかあたってない!
 俺はとっさに叫んだ。
 一緒にいられないって何だよ。嘘だろ? 冗談だろ?
 俺は何度もキョウに向かって叫んだ。だが、切実な思いは届かない。ミナを通して伝えることすらできない自分がいる。もどかしくてイライラした。
 まさか、十三年間、キョウはこんな思いをしていたのか?
 抱いた思いや疑問を俺以外の人に伝えることもできず――ずっと我慢していたというのか?
「『僕ね、もし、自分に体があったら柔道をやりたいって思っていたんだ。強くなって、大切な人たちを守りたいって……叶えられてよかった。最後にウメとミナちゃんを守れてよかった』」
 キョウが穏やかに笑った。薄れゆく意識をなんとか繋ぎとめようと俺は歯を食いしばる。あちこちがずきずきと痛んだ。
 殴られた場所じゃない。胸が、心が痛いのだ。
 これは俺だけの痛みじゃない。キョウも苦しんでいる。笑っているけど、本当は苦しんでもがいて痛くて泣いている。
 俺は自分のふがいなさを嘆いた。
 ごめん、ごめんなキョウ。俺は何も知らなかった。自分のことばっかりで、キョウがこんな思いをしていたことに全然気づきもしなかった。
「『青梅』」
 自己嫌悪に陥った俺をキョウが遮る。
「『そんなに自分を責めないで……悪いのは僕のほうだ』」
 俺の中に、キョウの意識が流れていく。温かくて優しくて、心の端っこが少しだけ痛い。
「『ウメにずっと黙っていたことがある。ウメの身長が伸びないのは僕のせいだ。僕がずっとここにいたから。僕がウメの成長を妨げていたんだ。ごめんな……もうウメの邪魔はしないから。だから、ウメは自由に生きて。もう僕に縛られることはない』」
 今の俺には何が自由で、何が縛りなのか分からない。
 でも、これだけは言える。
 キョウはなにも悪くない――悪くないんだ!
 行くなよキョウ! ずっとここにいろ。
 俺の体乗っ取っても構わない。人生持って行ってかまわない。俺の持っているもの、ぜんぶおまえにあげるから。
 だから、だから――キョウ!
 俺は十三年間一緒に過ごした兄の名を呼ぶ。実体のない、声だけの兄。それでも俺にとってかけがえのない存在。
 ふいに静けさが襲った。走ったのは鋭い痛み。キョウは俺にはっきりと言った。
『さよなら』と。
 その一言が俺を本来の場所へ引き戻す。同時に別の場所にあった確かな「もの」がふわりと浮いた。何かが抜けた瞬間、背中でどんという音が耳を突き抜ける。夜空に大輪の花が咲いたのだ。
 光る花弁がいくつも弧を描いて地面に落ちていく。目に焼きつくのは細長い残像。それはまるで流れ星のようだ。
 打ち上げ花火は幾つも続いた。その裏で俺を呼ぶ声が聞こえる。しろ兄ぃだ。そばで伸びている男たちに気づき、一体何があったんだ、と聞いてくる。しろ兄ぃの問いにミナは困ったような顔をしていた。巫女姿のまま、キョウから受け取った麦わら帽子をきつく抱きしめ、一生懸命言葉を探している。
 花が咲き、音とともに朽ちていく。今日最大のイベントが終わりを告げようとしていた。近くで儚さを称える拍手が聞こえる。
 空にいつもの静けさが戻ると、優しさで満たされていたはずの場所はものぬけの空になっていた。
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