君といた夏

 5



 夏祭りの翌日、両親が旅行から帰ってきた。
 両親は体全体が小麦色に染まっていて、いつもの一割増しの陽気さを背負っていた。
 店や部屋に琉球ガラスの置物が飾られ、食卓にはアグーやゴーヤーチャンプルといった料理が並ぶ。久々に豪華な夕食だ。だが箸をつけようとすると何とも言えない虚しさが広がって、いつもの半分も食えない。ちんすうこうはひとつ食べたけど、俺には甘すぎて麦茶で味を薄めた。どうやら向こうのお菓子とは相性が悪かったらしい。
 店に人手が戻ると、俺の手伝いの数はぐっと減った。呼ばれても、重いものを運ぶ時くらいだ。それ以外は自分の部屋に引きこもる日が続いた。蒸した畳部屋で何をするわけでもない。ただ窓の外に浮かぶ空をぼんやりと眺めるだけだ。時々ミナが家を訪ねてきたみたいだけど、彼女の顔を見る気力もない。家族はそんな俺をいぶかしそうな顔で見ていた。
 夏休みが残り一週間を切ると、しびれを切らした朱姉ぇが宿題は終わったのか、と聞いてきた。もちろんやってない。素直に答えると、軽く足を払われた。畳に頭をぶつける、このまま死んでしまってもいいか、とも思う。
 けど結局俺は生きていた。腹がすいたら適当なものを探して食べるし、毎日トイレにも行く。規則正しく眠気もやってくる。俺の体は自分が思った以上に頑丈だったのだ。
 俺は体を起こすと、机に向かった。
 シャーペンを手に取り、宿題のプリントに取りかかる。まずは英語から。別のことに集中していれば忘れられるかと思ったけど、それはとんでもない間違いだった。
 分からない単語につまずくたびに自分とは別の意識を探してしまう。もちろん、答える声はどこにもなかった。
 そして一つの問題にぶち当たる。


 問10 )次の文章を日本語に訳しなさい。
 

 英語の先生は意地悪だ。テストや宿題の中に一問だけ俺らが学んでいない文法や単語を出す。それは予習を習慣づけるものだと言っていたが、俺にとっては迷惑きわまりないものでしかなかった。
 仕方なく俺は分厚い辞書を引く。 can't はcan not の略。「〜することができない」という意味らしい。himは「彼(に)」、meetは「会う」、againは「再び」と出てきた。
 つまり――
 答えが導かれた瞬間、俺の視界は歪んでいた。プリントの上に小さな雨が降る。すぐに指でふき取ったけど、貼りついた黒い芯が紙ににじんで、文字が汚れるばかりだ。
 I can't meet him again.
 ひとつの体に二つの心は相容れない。
 俺はもうひとりの俺と会うことはできないのだ――永遠に。


 九月に入り、学校が始まった。
 俺は始業式が始まる前にバスケ部の顧問に入部届を提出した。
 季節外れの入部に先生は驚いていたけど、俺の届け出はあっさりと受理された。一五〇センチを超えない者は入部をさせないという噂はどうやら先輩たちが流した嘘だったらしい。
 それでも、ウチの部は厳しいぞ、と先生に脅された。
 そんなの分かってる。県でベスト四に入るほどの強さを誇る部だ。控えを含んだとしても、ベンチに入れる人数は十人にも満たない。俺は卒業するまでにそこにたどりつくことはないのかもしれない。
 バスケを始めるのに迷いがなかったわけじゃない。今更とも思ったし、柔道のことも頭によぎった。別に柔道でもいいじゃないか、とも思った。
 でも柔道をやりたいと言ったのはあくまでキョウであって、俺の希望ではない。おそらくキョウだって自分の道をなぞられることを望みはしない。だから俺は腹をくくったのだ。
 家族は俺がバスケ部に入ることに反対もしなかったし、期待もしてなかった。卓球部にいた奴らはバスケットコートに現れた俺を見つけると、すぐに辞めるだろうと口を揃えて笑っていた。
 俺は厳しい練習にがむしゃらについていった。遅れた分は誰よりも早く行動し練習の回数をこなす。ひっきりなしに落ちる先生や先輩の激に耐えた。
 シュートを決める回数が増えてくると、身長が一センチ伸びた。反復走で学年一番になると更に一センチ伸びた。縦が伸びたおかげで、横幅とのバランスも徐々にとれてきている。気づけば俺の周りに人が集まるようになった。最初は練習に関するアドバイスだったけど、そのうちそれ以外の話もするようになった。卓球部のやつらの冷やかしも日に日に薄れていく。
 心も体もすこぶる良好だ。
 前は体が重くてだるかったのに、キョウがいなくなってからやけに体が軽い。今ではシュートを決めるたび、リバウンドをひとつ取る度に空をも掴めそうな、そんな錯覚さえ覚えてしまう。
 悔しいけど、認めたくないけど。キョウの言っていたことは正しかった。
 だから俺は突き進むしかない。自分の道を我がままに。
 それが俺の進むべき答えだと信じるしかない。


 厳しい練習にほどよく慣れた頃――下駄箱でミナに会った。
 ミナはいつものようにおさげ頭で色白で、フルートの入ったケースを抱えていた。違和感を覚えたのは、並んだ時に肩の高さが一緒だったからだろう。
「そっちも部活終わったの?」
「おう」
「痩せたんじゃない?」
「そうか?」
 学校指定の運動靴を履き替えながら、俺は首をかしげる。
「がんばってるみたいだね」
「俺にはそれしかできねぇから」
「そっか……」
 俺よりひとまわり小さい靴のつま先がとんとんと音を奏でる。ミナは俺の顔を下からのぞきこんだ。ねぇ、と声をかけられる。
「寄り道、つきあってもらってもいい? アイスおごるからさ」
 俺は無言でうなずき、ついていく。誘いに乗ったのはアイスの言葉につられたからだ。相変わらずミナは俺の扱い方をよく知っている。
 外に出ると、じめっとした空気が俺らを迎えた。
 日は沈みかけているが、むっとした暑さは変わらない。制服が肌にはりつく。激しい運動のあとにこれはかなり気持ち悪い。それでも一時期の暑さに比べたら、だいぶましになった方だ。今は風も通らないが、これは海風と陸風が変わる直前の無風状態――夕凪のせいだとこの間、理科の授業で教わった。相変わらず退屈な授業ではあるけれど、なるべく眠らないように気をつけている。
 やがて、通りにひと吹きの風が抜けた。
 軒先に下げられた風鈴が揺れる。以前、寺町通りで聞いたような爽やかさはない。夏の終わりを惜しむような、とても寂しい音だ。あんなにもうるさかった蝉しぐれも今はなりをひそめている。彼らもまた、遠いどこかへ旅立ったのだろうか。
 俺はミナと肩を並べて歩く。会話はすでに途切れている。とても静かな帰り道だ。
 ミナは学校に一番近い寺の敷地に入っていった。
 本堂に続く石畳を進む。築数十年を超えたであろう本堂にはすらりとした仏像が祀られていた。
 ミナは入口で足を止め、一度姿勢を正してから頭を下げる。神社の娘が仏像に手を合わせている姿は見ていて滑稽だ。 
「ねえ、知ってた?」 
 祈りを捧げた後で、ミナは言う。
「うちの神さまは『今を一生懸命生きなさい』としか言ってくれないの。あるがままを受け止めて、自然に生きるのが大切なんだって。でも、ここの仏さまは『悟りを開かない限り、魂はこの世に何度も生まれ変わる』って言っているんだ」
「ふうん……」
「だから私、祈ってる。キョウちゃんがもう一度生まれ変われますようにって、生まれ変わって、幸せになりますようにって」
 その言葉を聞いて俺ははっとする。
 そう、キョウのことを知っているのは俺とミナだけだ。キョウがいなくなって寂しいのは俺だけじゃない。
「その……ごめん」
 俺はミナにあやまった。
「俺、何も説明しないで、勝手に一人落ちこんで……」
「ううん。ウメは生まれた時から一緒だったもん。キョウちゃんがいなくなって、一番淋しいのはウメだもん」
 ミナは俺の無神経さを責めることはしなかった。その眼差しは目の前にある仏像の瞳と同じだ。とても温かい。
 やんわりと、いたわるような言葉に俺は救われる。目の前にいる少女はお節介でうるさいけど、本当はとても優しいヤツなんだと、心から思った。
「ずっと、ありがとな。キョウのこと信じてくれて、すげえ嬉しかった」
 するりと抜けた感謝の言葉。俺の体温ほんの少し上がったのは秘密だ。
 ミナはきょとんとしていたけれど、やがてそれは、静かな微笑みに変わる。
「……キョウちゃん、きっとウメのそばから離れたくなかったんだと思う」
「俺もそう思う」
 これは俺のうぬぼれなのかもしれないけど、でも立場が逆だったとしても俺はキョウのそばにいただろう。そして、キョウの将来を思って、消えていったのかもしれない。
 キョウは嘘つきだ。今なら分かる。最初からバチが当たっていない。その気になればいつでも簡単に抜け出せたに違いない。そうしなかったのはキョウの魂が宿った器が「俺」だったから。
「あいつ、バカだよ。いったい誰に似たんだろうな」
 そう言って俺はすぐに、愚かな質問だと悟る。誰に似ている、だなんて。そりゃ他でもない。俺に似ているんじゃないか。
 俺は思わず苦笑した。仏像のある本堂に背を向けて、寺をあとにする。
 俺はミナに尋ねた。
「アイスって、いつもの駄菓子屋?」
「それだとウメの家通りすぎちゃうよね? コンビニにしようか」
「そりゃかまわないけど……コンビニって、みかん売ってたっけ?」
「どうだろ? というより、何でみかん?」
「実はさぁ」
 ここ最近、母親の具合が良くない。
 この時期になると家族の誰かしらが風邪をひく。夏風邪と呼ぶには微妙な時期だけど、酒の需要が半端ない地域の祭りが終わると、家族の緊張がいっきに緩むのだ。今回も母親におはちがまわってきた。
 今年の風邪はタチが悪い。母親は時々食べたものを戻したりしている。そんなに吐くなら薬を飲むなり医者にいくなりすればいいのに、あの母親は薬に頼ることもなく、まだ大丈夫だと言ってみかんばっかり食べている。みかんは風邪にいいらしいけど、今は酸っぱいし季節外れもいいところだ。
 今日こそ医者に行くとは行っていたけど、ちゃんと薬をもらってきたのだろうか。つうか、風邪薬より胃薬貰った方が正解じゃねえの?
 母親のそんなこんなを俺はミナに愚痴る。
 するとバカっ! と雷が落ちた。
「バカ、って……いきなり何だよ」
「この鈍感! そのくらい気づきなさいよ。つうか、何でこんなところでぼさっとしてるのよ」
「はぁ?」
「何でそんな大事なことを最初に話さなかったんだ、って言ってるの!」
 ほら行くよ、とミナが言う。腕を掴まれた。ミナが向かう方向――つまりは俺の家のある方向へずるずると引きずられていく。
 俺が、せっかくのアイスが、とぼやくと、
「そんなの、あとでうんざりするくらいおごってあげる!」
 と一蹴された。
 ミナの顔は今もくしゃくしゃだ。なのに、声はめちゃくちゃ明るかったりする。口元が右上がりだ。
 一体何なんだ?
 おまえは泣きたいのか、笑いたいのか?
 俺はミナの矛盾した横顔に首をかしげるしかなかった。(了)



 

(sagittaさん主催 競作小説企画 第四回 「夏祭り」参加作品)


(使ったお題)
蝉、日傘、蚊、夏風邪、冷やし中華、夕凪、花火、麦わら帽子、茄子、逃げ水、終戦記念日、プール、高校野球、団扇、日焼け、沖縄、蝉しぐれ、冷夏、夕涼み、流れ星、墓標、通り雨、ジンギスカン
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