君といた夏

 3



 家に帰ると、冷やし中華がテーブルの上に置かれていた。
 俺の昼飯は百々姉ぇが出かける前に作っておいたらしい。
 百々姉ぇは相変わらず進歩がない。厚切りされた胡瓜とハムはつながっているし、錦糸卵には卵の殻が混ざっている。何より、麺がこれでもかというくらいのびていた。
 本当、どうやったらこんな料理が作れるんだろう。ここまでくると噂の彼氏が可哀そうに思えてきた。
 延びた麺を無理やり腹に押しこめた頃、しろ兄ぃが店に戻ってきた。早速、大量のビールケースを車に積んでいる。これからお得意様回りに行くらしい。
 すると、何故か俺にお呼びがかかった。
「おまえも麺ばっかじゃ飽きただろう?」
 しろ兄ぃは俺について来い、と言う。俺は言われるがまま車にのりこんだ。
 しろ兄ぃが向かった配達先の大半は小料理店だ。
 酒を運ぶのは重労働だけど、時々綺麗なお姉さん(そう呼べとしろ兄ぃにきつく言われた)からジュースやお菓子をもらう。とある店の板前さんからは、まかないの親子丼をごちそうになった。
 なるほど。しろ兄ぃが百々姉ぇのご飯に文句を言わなかったのはこんな美味しい思いをしていたからか。
 帰り道、車を運転するしろ兄ぃを見ながら、俺も早く免許とりてえ、と思った。そうすれば出かけるのも楽だし、何たってエアコンがついている。
 車の免許も新しい車も、時がたてば手に入るんだろう。
 まぁ贅沢は言わない。せめてそれまでにこの身長がもう少し伸びてくれ。最悪でも一五〇センチは超えてくれ、と俺はこっそり願った。
 配達から戻ると、家の中が急に慌ただしくなった。
 朱姉ぇは百々姉ぇの浴衣を着つけるのに必死だ。しろ兄ぃは店を閉めて、再び神社へ向かった。大事な打ち合わせがあるんだよ、なんて言ってたけど、これから神社でやることなんて酒を飲くらいしかないじゃないか。
 俺は浮足立つしろ兄ぃの背中を恨めしそうに見送った。そしてため息をひとつ吐き捨てる。
 朱姉ぇは人ごみが嫌いだから家で夕涼みしてると言った。百々姉ぇは言うまでもない。浴衣に着替えた百々姉ぇは甘い香りを漂わせながらいそいそ出かけていった。
「で? あんたも行くの?」
 朱姉ぇの質問に俺はまぁ、とそっけなく返事する。
 誰かを誘ったわけでもなく、誰かに誘われたわけでもないが、俺は周辺をひとりぶらぶらするつもりでいた。誰かに会ったらその時決めればいい。
 何たって年に一度の夏祭りなのだ。家で過ごすのは勿体ない。それにミナに借りた帽子を返さなきゃ。
 俺は携帯ゲームを放りだすと、麦わら帽子を手に取った。そこらへんにあった紐の端を帽子のつばにつけて結び肩に引っかける。恰好悪いがまぁ、神社に行くまでの辛抱だ。
 家を出ると涼しい風が体をじんわり冷やしていった。神社の前の通りにたどり着くと、昼間作っていた露店は鮮やかな布をまとって、商売を始めている。焼きそばに綿あめにかき氷――どの店の前も誰かしらがのぞいていて客入りは上々のようだ。
 お囃子が俺を境内へ誘う。人の流れにそって鳥居を抜けると、舞台の前は人であふれていた。みんな巫女舞を見ようと集まったのだろう。人が連なることでできた壁は身長一四六センチの俺とってかなりの障害だ。
 だが、俺は舞台を見る場所に「当たり」をつけていた。
 俺は舞台に背を向ける。目指したのは俺よりもずっとでかくて、何倍もの年をとっている大木――の上。昔はミナとこの木に登って、大人たちに怒られていたものだ。
 俺は久しぶりに木の幹へ足をかけた。長年かけてできたくぼみに手足を乗せ、上を目指す。二メートルちょっとの高さを一気に登った。行儀悪いと思いつつ、俺は設置されていたスピーカーの上に座る。少し離れてはいるが、ここからなら舞台が良く見える。
 俺は舞いが始まるのをぼんやりと待っていた。時々周りにうろつく蚊を手で仰いで追い払う。
 銀杏の葉はまだ青くてつやつやしていた。この葉もあと二、三カ月もしたら黄みを帯びるのだろう。そしてあの臭い実をつけるのだろう。
 やがて、スピーカーから人の声が流れる。舞台の上に巫女が現れると観客のざわめきがすっと引いた。長い髪をひとつにまとめたミナが舞台の中心に立つ。
 静けさの中、巫女舞が始まった。
 巫女舞、といっても踊り自体はゆったりとしたものだ。振付けも単純で俺でも簡単にできる。でも神に仕える役目を背負うとなると、舞う人間は限られる気がする。巫女なんて思っている以上に地味で根気のいる仕事だ、とミナは言っていたけど、俺にしてみたらやっぱり巫女は特別な存在だ。
 ミナが腕を振ると、しゃらんと鈴が鳴る。澄んだ音色がお堂を包むと、涼しい風が天から舞い降りたような気がした。どん、と太鼓が鳴り、ミナが舞台をくるりと回る。正面を見た時、ほんの一瞬だけど目が合った。
 ミナの口元がほんの少し持ち上がる。うっすらみせた笑顔は神というより小悪魔に近い。俺の心臓がどきりとうずいた。
 あいつ、いつからあんな顔をするようになったんだよ。
 突然の動悸を抑えようと、俺は舞台から目をそらす。すると木の根元に酔っ払いらしき男が三人いた。肩まで髪を伸ばした長髪野郎にタトゥーの男にアロハを着た奴。見た目だけならヤバそうな奴らだな――と思ったら、俺が間違えて酒を売ってしまった男たちではないか。
 百々姉ぇの情報によれば、この三人はまだ高校生らしい。奴らは缶ビール片手ににやにや笑っていた。ビールの銘柄は俺が昼間配達したのと同じものだ。
 もしかしてあいつら、社務所に置いてあったのをくすねたのか?
『あんまり関わらない方がいいんじゃない』
 ぽつりとキョウが言った。分かってる。さわらぬ神にたたりなし、だろう? 酔っ払いは絡む、絡まないに関わらずタチが悪くなるものだと、俺はしろ兄ぃを見て学んでいる。
 奴らに気づかれないよう、俺は幹の影に隠れて木を降りた。あふれる人の波を避けるために、御堂の裏に回る。塀伝いに歩くとミナの家の母屋があり、その向かい側に鉄の扉がある。この扉はミナの家の人間だけが使っている勝手口で裏のお寺につながっていた。
 俺は迷うことなく鉄の扉を開く。
 その先にあるのは死者の住処――墓場だ。石の連なりは無条件にその場の空気を冷やしていく。おどろおどろとした雰囲気は「いかにも」と言った感じである。
 人気のない墓地をキョウとぶらぶら歩いた。
『誰か肝試しでもやってそうだなぁって思ったけど……いないね』
「ああ」
『ウメは怖くない?』
「怖くねぇよ。提灯でまわり明るいし、笛とか太鼓うるさいし。つうか、キョウだって幽霊みたいなもんだろ?」
『僕が幽霊だっていうなら、ウメは僕のお墓だね』
「はあっ?」
『だってそうだろ。僕は実体がないしここから出ることができない。これが死んでいるってことなら、僕の墓標はウメってことになる』
「うわ、気持ち悪ぃ」
 俺は思わず大きな声を上げた。だけど、それも正しいのかな、とも思う。キョウは幽霊とはちょっと違うけど、俺自身が器になっているのは事実だ。
 よくよく考えれば奇妙なことである。けど怖いとは思わない。昔から一緒にいるせいかな? 俺は俺で生きているし、キョウはキョウで生きている。ちょっとうるさい兄貴だけど俺にとって不都合なことは何ひとつないのだ。
 俺たちは墓場を抜けると、寺の本堂を経由して外に出た。石畳の路地裏に抜け、昼間歩いた道に回る。つまりはふりだしに戻る、だ。神社の前に両側にある屋台の連なりは戻ってきた俺を温かく迎えてくれる。
 屋台をひとつひとつ見ながら歩いていくと、ジンギスカンの暖簾の前で腹が鳴った。
 そういえば夕飯がまだだった。鉄板の上から独特の匂いが鼻につんとくる。自然と口の中が唾液であふれてくる。そういえば昼間、肉が食いたいって思ったんだっけ。
「食うか?」
 俺の独りごとに、キョウが同意した。お金を払い、紙皿に盛られた肉を口に含んで噛み砕く。空っぽの腹に甘辛さが染みてくる。
「旨いな」
『うん』
 俺は皿にあった肉をいっきに平らげた。満腹感に浸ると、電柱に引っかかったスピーカーから案内放送が流れてくる。もう少しで和太鼓の演奏が始まるらしい。
 人の流れが変わった。
 次のイベントを求めて、浴衣姿の人たちの足が浮足立っている。女の人がすれ違うたびに甘い匂いが鼻をかすめた。そういえば、百々姉ぇも似たような匂いをつけていたような気がする。
 最近はあの匂いが流行っているのか?
 俺が浴衣姿の人たちに後ろ髪を引かれていると、
『ミナちゃんの浴衣姿でも想像した?』
 とキョウが聞いてくる。
『ミナちゃんって和服がすごく似合うよね。髪も長くて綺麗だし、色白だし』
「ばっ」
『でもミナちゃんは巫女さんの姿が一番似合っていると思わない?』
 俺はさっきまであった否定の言葉をのみこんだ。
 確かに。白い着物はミナの凛とした表情に良く似合う。赤い袴も、色白の肌を引き締めていて、神がかった雰囲気をまとっている。さっきの舞いも、ありきたな言葉しか言えないけど、とても綺麗だった。ひとつ鈴を振るだけで、まわりの空気が浄化される。まるで、全てが最初に戻ったような――そんな錯覚を与えてくれたのだ。
 やっぱりミナはすごい。
 勉強や部活だけでなく、巫女の仕事もこなしている。ミナから溢れる輝きは物事に対する責任と誇りの結果だ。俺とは段違いだ。
 ひとつ気づかされると、もやもやとした霧が俺の胸を覆う。その正体が何なのか、俺にはまだ分からない? 
 いや、違う。
 本当は――
『認めたくないんだろう?』
 キョウの言葉に俺はどきりとする。
『知ってるよ。ウメはミナちゃんに嫉妬しているんだよね』
 あまりにも冷たい言葉に俺はただ面食らう。
『ウメは必死に隠していたみたいだけど、僕にはばればれだ。ミナちゃんといる時のウメは素直じゃない。真っ黒で、どろどろしている』
「そんなこと……」
『ウメ、本当はバスケがしたかったんだよね』
 キョウはずばりと言い当てた。それは俺が一番触れてほしくなかったこと。
『中学はバスケ部が強いからすごく楽しみだって、ウメ言ってたよね? 僕は中学に上がったらウメがバスケ部に入るんだ、ってずっと思ってた。でもバスケ部の練習は厳しくて、身長が一五〇センチ以上じゃないと入部できないって、バスケ部の先輩から聞いたんだよね。だから諦めて卓球部にしたんだ。最初からやる気なんかなくて、練習さぼって――結局三か月ちょっとしか持たなかった』
「だから……何だっていうんだ?」
 キョウの指摘に俺は堪える。苦いものがこみあげた。どろりとしたものが今にも口から溢れそうになる。
 キョウは静かな口調で続けた。
『ミナちゃんだってフルートを始めたのは中学に入ってからだ。でも、今度の演奏会のメンバーに選ばれた。一年生で選ばれたのはミナちゃんだけだ。ウメはそれが気に入らなかったんだろ? 自分は好きなバスケもできなかったのに、ミナちゃんだけが選ばれて、いい思いをしたってひがんで――』
「うるさい!」
 俺が突然吠えたことで、周りの人間が俺から一歩引いた。腫れものを見るかのような視線が突き刺さる。
『だって本当のことだろ?』
「そんなんじゃない! ただ、俺は……ミナが……」
 俺は必死になって弁解する。でも、その先の言葉が続かない。キョウに反論できない自分がいる。
 俺だって本当は分かっていた。
 ミナが演奏会のメンバーに入ったのはミナががんばったからだ。楽器ケースを手放さなかったのは、家で練習するため。少しでも時間ができるとミナはそれをフルートの練習につぎこんでいた。いつだってミナは努力することを忘れなかった。
 俺もミナみたいに目標があったら――好きなことに打ち込めたら、どんなに幸せだっただろう。
 でも世の中にはどれだけ好きでも、どんなに頑張っても報われないことがあるんだ。
 身長一四六センチの俺は一五〇センチの壁をまだ超えられない。超えたとしてもその間、他の奴にどれだけ置いて行かれる? 広がった差を埋めるのにどれだけ時間をかければいい?
 答えは分かり切っていた。追いつくよりも先に卒業が来るのだ。
 それはどうしようもない時の流れ。
 喉がきりりと痛む。それでも俺はキョウにはっきりと言った。
「俺はミナとは違う……ミナみたいにがんばれない。無理なんだよ」
『そうかな?』
「そうだ。無理だと分かったら諦めた方がいい――人間、諦めが肝心なんだ」
 無理やり言葉を吐き出す。それは自分に言い聞かせるためのものでもあった。
「もう、ほっておいてくれ!」
 俺は話をそらす。その話題に触れてほしくなかった。
 スピーカーから流れてくるお囃子がやけにうるさい。言い過ぎたと悟ったのだろうか、キョウはそれ以上俺に口を出すことはなかった。
Copyright(c) 2010 All rights reserved.