君といた夏

 2



 車がほとんど通らない路地裏をしばらく歩くと、左手に小さな建物が見えてくる。
 今にも潰れそうな、小さな木造住宅が目的の駄菓子屋だ。立てかけられたよしずの裏に子供だましのガチャガチャが置いてある。その上に野良猫が二匹だれていた。
「ごめんください〜」
 お菓子の詰まった店内に入る。
 店の主は奥の部屋でテレビを見ていた。もう八十は超えただろうばあちゃんは耳が遠いのか、客が来たことに気づかない。
 ミナがもう一度ごめんください、と声を張り上げると、仰いでいた団扇の動きがようやく止まった。俺たちの存在に気づくと、いらっしゃい、としわしわの顔をくしゃりとさせる。
「暑い中、よく来たねぇ」
 ばあちゃんのねぎらいにミナは愛想よく微笑んだ。アイスの入っている冷凍ケースからお目当てのものを探しはじめる。
「ウメはどれにするの?」
「そりゃあもちろん――いちばん高いヤツに決まっているだろう」
『ホント、ウメは遠慮ないよな』
 ミナのおごりなんだ、別にいいだろ。
 俺はキョウのぼやきを吹き飛ばす。ミナがこれでいい? と聞いてきた。
「これが一番高いヤツだけど?」
 それは練乳クリームの上にドライフルーツがてんこ盛りのカップアイスだった。
 こんなじじむさいの、誰が食うか。だいたい台車を転がしたままでカップのアイスをどう食えと?
 俺はミナの持っていたアイスを奪うと元の場所へ放り投げる。冷凍ケースに頭と腕をつっこんだ。ぐるぐるかき回し、結局百円にも満たない棒アイスを選ぶ。ミナと同じラムネのアイスだ。
「じゃ、おばあちゃん。これください」
 ミナは百円玉を二枚渡す。お金を受け取ると、ばあちゃんの動きがぴたりと止まった。店の中をサイレンが駆け抜けたからだ。同時に店の壁にかかっていた古時計が十二時を知らせる。ばあちゃんは俺らに背中を向けたまま動かない。
 ばあちゃん、立ったまま居眠りでもしたのか?
 しびれをきらした俺はお釣り……と声をかける。ミナに小突かれた。あんたも黙祷しなさいよ、と小声でたしなめられる。何なんだよ、と思うがその理由はすぐに分かった。線香の香りが届いたからだ。
 ああそうか、今日は八月十五日――終戦記念日だっけ。
 一分後、瞼をあけると、ぼんやりと映っていた奥の部屋がくっきりと浮かんだ。
 テレビとテーブルと仏壇の置いてある小さな畳部屋。鴨居の上には軍服をまとった青年の遺影があり、仏壇の側にはきゅうりで作った馬と茄子の牛が置いてあった。
 やがて、木の珠がはじかれる。
 この店のばあちゃんはお釣りの計算にそろばんを使う。そろばんなんていつの時代だよ、と思ってしまうけど、木でできた計算機はこの店の中で全然色あせない。しっくりと収まってしまうのだ。
 もしかしたら、店の中だけ時間が止まっているのかもしれない。
 ばあちゃんがゆったりとした足取りでお釣りを持ってくる。しわしわの手に包まれた小銭がミナの手に渡ると、
「ありがとねぇ」
 と、ばあちゃんが間延びした声を上げた。中断していた高校野球が再開される。
 俺とミナは駄菓子屋を出た。
 日傘が再び開かれる。日差しを和らげるよしずの向かいには小さな鳥居があり、石で造られた狐たちがにらめっこを続けている。稲荷さまと住宅の間にある道に入れば、そこはもう「寺町通り」だ。
 全長一キロに渡る石畳の小路は江戸時代からあった旧道で、湯治場へ向かう街道の起点だった――らしい。湯治場に行く中継点以外にも、この周辺に集中する寺をめぐって札をもらうのが当時の庶民たちの楽しみだったとか何とか。そんな話を俺は昔から聞いていた。
 ひとつの寺と寺をつなぐ道には白い石が行儀よく敷き詰められている。ミナが軽やかにステップを踏むと、どこかの家の風鈴が涼やかな音を奏でた。軒先に植えられている朝顔の葉がふわふわと揺れている。アイスの袋を開く音が、寺町の風景を見事に壊していく。
「ご両親、沖縄旅行だって? いいなぁ」
「どこが」 
 はしゃぐミナを横目にして、俺は気のないため息をついた。 
 半年前、母親の出した懸賞ハガキがペア旅行を当てた。ところが両親は店のことで手いっぱいで、そのことをすっかり忘れていたのである。指定されたホテルのプランがお盆までだというので、両親は慌てて旅行計画を立ち上げた。
 三泊四日の沖縄旅行――父親は店を自分の子供たちに託した。店を構えてから一度も旅行に行ってない母親は出かける直前まで俺たちのことを気にしていた。
「史郎や朱音はともかく、百々子や青梅に店のこと任せて大丈夫かしら?」
 大丈夫だよ、俺がちゃんと仕込んどくから。
 二十歳を超えたしろ兄ぃはそう言った。けど、しろ兄ぃの本心は違う所にある。しろ兄ぃは単純に酒屋の二代目としてちゃんと切り盛りできる所をアピールしたいだけなのだ。
 足を洗ったヤンキーはやたらと頼られたがりで大人ぶるのだと。どうせ仕込むのは私の仕事なんでしょ、と大学に通う朱姉ぇは呆れた顔で言っていた。
 三つ上の百々姉ぇはというと、その時、うんうん大丈夫、と携帯メール打ちながら適当に相づちを打っていて――たぶん、話の内容自体聞いてなかったのだろう。食事係になったとたん、ありえない、の言葉を連発している。
 だが俺にとっては食卓に並ぶものがありえない。
 毎日麺類ってのはどうなんだ? もうちょっと他のものは出せないのか?
 炭水化物ばっかりの日常に、俺の胃は悲鳴を上げている。ここにきて、母のすごさを思い知らされている。
「ったく、兄ぃも姉ぇも勝手だし、いろいろ口だしするし……うざいんだよ」
「そんなに文句言うなら、自分でやりなさいよ」
「暑くてだるいし、動くの面倒だし」
「そうやって何でも楽しようと考えるのがよくないの!」
 ぴしゃりとミナは言い放つ。繰り返される説教に耳が痛くなってきた。
「……おまえ、キョウと同じこと言うのな」
「え? キョウちゃんも言ってたの?」
「ああ」
 俺は不機嫌そうな声を上げる。
「でも、キョウちゃんだってウメのこと思って言ってるんだよ。ただでさえあんたは目つき悪いんだし。そんなひねくれた態度とってるからみんなに誤解されるんだよ」
「余計なお世話だ」
 俺はつい、とそっぽを向いた。学校の中で、俺の評判はあまりよくない。勉強はもちろん、部活での態度が散々だからだ。元ヤンだったしろ兄ぃの影響もあってか、みんなすすんで俺に近づこうとしない。話しかけてくるのはミナくらいだ。それも、同じクラスじゃなかったりする。
 学校内でミナと一緒にいるのは苦痛だった。
 ミナはそこそこ頭もいいし、先生からの信頼も厚い。絵に描いた優等生は良くも悪くも目立つ。俺が横に並んでいる時は特にそうだ。
 だが、当の本人はそんなことなど気にしちゃいない。
「いっそのこと、キョウちゃんと入れ替わったら?」
「は?」
「ほら、ドラマとかであるじゃん、自分以外の人格が体を乗っ取っちゃうやつ。キョウちゃんもウメの体乗っ取っちゃえ。そうすればちょっとは性格丸くなるでしょ」
「おっまえなぁ」
「きっと女の子にもてもてだよ。何たってウメより頭いいし。優しいし」
 ミナは、自分の中でキョウは穏やかな目をしたメガネ男子なのだ、と言う。そんなの初めて聞いた。
 つうか。
「なんで俺よりキョウが頭いいって分かるんだよ」
「なんとなく」
「なんとなくって……」
「あれ、図星だった?」
 ミナのかまかけに引っかかり、俺は顔を赤くする。体の内側から笑い声が漏れた。こらキョウ、そこ笑うところじゃねえだろ。
 俺はミナに反論しようとしたが、棒に引っかかった欠片が今にも落ちそうなことに気づき、慌ててそれを口に含んだ。爽やかな味が名残惜しげに溶けていく。ミナも残りのアイスを平らげ、とっておいた袋の中に棒を放りこむと、ゴミちょうだい、と俺に催促した。話題がぶつりと切れると、ミナが道を右に折れていく。
 寺の手前で狭い路地裏から脱出する。寺の塀沿いに進んで角を更に左に折れると、雑然とした通りに抜けた。両脇では的屋の人たちが露店の骨となる部分を組み立てている。今夜行われる夏祭りの準備はすでに始まっていた。
 俺とミナはきょろきょろしながらその並びを歩く。更に進むと左手にミナの家の玄関ともいえる鳥居が見えてくる。コンクリートでできたそれは、さっき通った稲荷さまと比にならない位でかい。
 境内では祭りの準備が着々と進められていた。
 本堂の延長線上に作られた舞台の上で、お囃子のリハーサルが行われている。軽快な音楽に気持ちがふっと軽くなる。
 今の時間、観客は俺たちとその後ろに佇む大木だけだ。樹齢二百年を超える銀杏の枝は舞台のひさし代わりにもなっていて、猛暑に弄ばれた人たちを優しく守っている。ここに来ると、吹き抜ける熱風すら爽やかに感じる。
「おお、ウメじゃねえか」
 突然大声で呼ばれ、びくりとした。見上げると、舞台の上でマイクを持ったしろ兄ぃがいる。
 どうやら、音響のテストをしていたらしい。
「ウメ、そのビールケースは社務所の脇のテントなぁ〜」
 しろ兄ぃの指示に俺は手を上げて軽く返事をする。気がつけばミナが自分の荷物を引き上げていて、三歩先を進んでいた。じゃあね、と手をふって、奥にある住居へと消えていく。俺も指示された場所へ台車を転がした。
 社務所ではミナのお母さんが来客用のテーブルをセッティングしていた。
「こんにちは。『さかや』ですけど、ビール届けにきました」
「あら、青梅くん久しぶり。家のお手伝い?」
「はい」
 無理やり働かされていますけど、と言いたかったけど、さすがにそれはやめた。俺はビールケースを指定されたテントに置く。これで重たい荷物からようやく解放される。
 するとミナのお母さんにお昼を誘われた。
「これからみんなで食べるんだけど、青梅くんもどう?」
 俺にとってはおいしいお誘いであった。だが手に持っていた大量のそうめんを見て俺は頬をひきつらせる。今日の朝飯がまさにそうめんだったからだ。
 しろ兄ぃに悪いと思いつつ、俺はまだ配達が残っているからと嘘をつく。すると、ミナのお母さんはちょっとまって、と言って一度奥へ引っ込んでしまった。ほどなくして梨の入った買い物袋を渡される。
「早もぎの豊水。みんなで食べて、だって」
 俺はお礼だけ言うと、足早にもと来た道をたどった。
 片足を乗せて台車を滑らせる。勢いがついた所でもう片方の足を宙に浮かせ、惰性で路地裏を駆け抜ける。
「なぁ」
 神社の手水で洗った梨にかぶりつきながら、俺はキョウに問いかけた。
「おまえ、外に出たいって思ったことねえの?」
『何が?』
「ミナが言ってた話。俺の体盗ろうとか考えなかったわけ?」
『ああ、それね――そういえば、考えたこともなかったなぁ』
 のんびりとした調子でキョウが言う。それは俺にとって意外な答えだった。
『生まれた時からウメと一緒なのが当たり前だと思ってたし。まぁ、不自由なことはあるけど、体から出たいとか、乗っ取ろうとか――そこまでは思わなかったなぁ』
「そっか」
『たぶん、この気持ちはずっと変わらないのかもしれない』
 そう、キョウは言う。話を聞いていた俺は、ちょっとだけ嬉しくなった。
『でもさ、僕がウメの体奪ったら、神さまのバチが当たりそうだな』
「なんで?」
『悪い事はそうそうできないってこと。そういうのって、神さまはちゃんと見ていると思うんだ』
 俺の中に、緩やかで温かいものが流れ込む。なんとなくだけど、キョウが朗らかに笑った気がする。
 寺町通りから外れると、風向きが変わった。
 頭がふわりと浮き上がる感じに、俺はあ、と声を上げる。
 そういえばミナに帽子を借りたままだった。
 一瞬、神社に戻ろうかとも思ったが、その考えはすぐに消えた。この暑さに耐えうるほどの体力はもう残っていない。アイスや梨を食べても満腹までには至らない。
 こんな日はスタミナのつきそうな――肉とか、がっつり食いたいなあ。早く扇風機かエアコンの効いた部屋で涼みたい。
 俺は麦わら帽子を頭に押し付け、アスファルトを蹴り飛ばした。
 勢いに乗った台車はごうん、ごうん、と音をたてて、道を滑っていく――
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