君といた夏

 1



 家でごろごろしていると顔を踏まれた。
「痛ってえな」
「何が『痛ってえな』よ! 暇だったらこっちの手伝いしなさい」
 朱(あか)姉ぇの甲高い声が頭にぐさりと突き刺さる。俺は迫りくる要求を突っぱねた。嫌だ、こっちは色々忙しいんだよ、と文句を垂らす。
 すると俺の中でもう一人の「男」が囁いた。
『嘘だね』
 何?
『どうせ今日も漫画読んでゲームして、ゴロゴロするだけなんだろ?』
「るさいなぁ。何をしようが俺の勝手だろ!」
 俺はひとりごちて、すぐにはっとした。だが、気づいた所でもう遅い。なかなか動かない俺に朱姉ぇは右頬をひきつらせている。
「……なーにが勝手だってぇ?」
 うわ、これはまずい。
「青梅(おうめ)!」
 朱姉ぇの手がにゅっと伸びた。
 腕を取られ、強制的に起こされる――と思ったらあっという間に両足が払われ、再び畳に沈められた。受け身を怠ったせいで背中がハンパなく痛い。
 くそぅ。朱姉ぇめ、有段者が素人に技をかけるのは反則だろうが。
 俺は悶々とした気持ちをにらむことで表現する。だが、朱姉ぇはそれを仁王立ちで踏みつぶした。
「我が家の掟は?」
「……働かざる者食うべからず」
「わかったらさっさと動く!」
 頭上で朱姉ぇの台詞が決まった。こうなったら俺はしぶしぶ起き上がるしかない。
 畜生。キョウが余計な茶々入れたせいで、痛い目に遭ったじゃねえか!
 俺は恨めしい思いを中にいる――キョウに流し込む。だがキョウは俺の感情をさらりと流しやがった。
『ウメが怠けているのがよくないんだよ。何でも楽をしようとするのはよくない』
「うるせぇ。キョウだって、結局楽してたんじゃねえか!」
「何か言った?」
 朱姉ぇが怖い顔で振り返ったので、俺は慌てて口を閉ざす。ぶるぶると首を横に振った。
 階段を降り、廊下の突き当たりにあるのれんをくぐる。フローリングとコンクリートの段差を降りると、缶ビールのケースが俺を迎えた。作りつけの冷蔵庫にはビールやチューハイが行儀よく並んでいる。カウンターの後ろにある棚には、日本各地の名酒が面を揃えている。
 このとおり、俺の家は酒屋を営んでいた。
 ちなみに苗字は坂屋。外の看板にはちゃんと「酒のさかや」と書かれている。冗談に思われるかもしれないが本当の話だ。
 朱姉ぇは店の一角を指で示した。
「とりあえず夏祭り用の缶ビールを三ケース神社に配達して。向こうでしろ兄ぃが待っているから」
 俺は積まれたビールケースを見てげんなりした。正直、重い荷物を運ぶのは億劫だ。
 だから俺は、配達より店番がいいなぁ、とごねてみるが、案の定朱姉ぇに一蹴されてしまう。この間、未成年に酒を売ったのがよくなかったらしい。
 うちの店は十九歳までの未成年に酒を売らない。親のお使いで頼まれても、だ。それは青少年の非行を防ぐためだ何だと両親はほざいている。
「成人と未成年の区別がつかないうちはウメをここに立たせないから……ってそんなふてくされた顔するんじゃないの。その台車使っていいから」
「チャリは?」
「百々(もも)がさっき借りていった」
「えーっ」
「仕方ないでしょう。ウチに自転車は一台だけなんだし。早いもの勝ちなんだから」
 朱姉ぇは呆れた声を上げた。聞くところによると、百々姉ぇは今夜デートらしい。そのための勝負服を買いにいったのだという。
「じゃあ百々姉ぇに配達行かせればいいだろ?」
「百々はちゃんと家事終わらせて出かけたわよ。家の手伝いも何もしないあんたとは違ってね」
 仕入れ伝票に目を通しながら、朱姉ぇは毒を吐く。俺は顔を歪ませるしかなかった。
 配達先の神社までは徒歩でも十五分以上かかる場所だ。外に出れば灼熱地獄が待っている。台車を使うとはいえ、神社まで俺の体が持つかどうか怪しい。
 だったら――
 俺は壁時計を見上げた。針は十一時半をまわっている。そろそろ「あいつ」が練習から上がる頃だ。
 俺はビールケースを台車に積むと配達に出た。
 向かったのは神社とは反対の方向――俺の通っている中学校だ。
 通学路を、台車とともに進んでいくと商店街に蝉の声が押し寄せる。今年は冷夏になる、なんて言ってたくせに。実際は気温三十五度を超える猛暑日が続いていた。俺の住む町は山と海のちょうど真ん中だから、夕立どころか、通り雨すら降ってこない。アスファルトも土もカラカラに乾いていて、どこもかしこも水を欲していた。
 やがて、中学校の建物が俺の視界に入る。
 校門をいっきに抜けた所で、バスケ部の奴らとすれちがった。
 ウチの学校のバスケ部は県内でもベスト四に入るほどの強豪校だ。入部希望者は毎年五〇人を超えるため、ある一定の基準を超えないと入部させてもらえない。練習の厳しさはお墨付きだ。
 まさかお盆に入っても練習があるとは……本当ご苦労様、と言ってやりたい。
 俺は蛇のように連なったランニング集団を見送ると、昇降口の前で「あいつ」を待ち伏せた。時刻は十一時四〇分。 家から学校まで片道で七分ちょっと。神社へ向かう時の半分以下だ。
 こうすれば半分で配達が完了する――はずだったのだが、待ち人はなかなか来ない。「音」はすでに消えているのに。「あいつ」は何をしているのだろう。
 俺は台車の持ち手部分に顎を乗せ、グランドの一角にあるコンクリートを見やった。あの砦の向こうにはプールがある。
 ああ、フェンスに鍵がかかってなかったら、迷わず飛びこんだのになぁ。
 炎天下の中、俺は冷たい水に飛びこむ自分を想像しながら暑さをしのぐ。何回かダイブを繰り返すと待ち人がようやくやってきた。
 黒髪のおさげに麦わら帽子、長袖のワンピースが小柄でほっそりとした体によく似合う。だが、それにブーツと手袋が加わると、防護スーツに見えてしまうから不思議だ。
「遅ぇよ」
 俺は自分より少しだけ背の高いミナを見上げた。実際に待っていたのは五分にも満たない。それでも俺は暑さに対する恨みをぶつける。
「どうしたの?」
「おまえの家で頼んだものだ。お代はツケでいいから。ありがたく受け取れ」
 俺が台車を差し出す。すぐに阿呆か、と返された。
「いったい何考えてるの?」
「この方が早いかと思ってさ。面倒なの省けるし」
「面倒ならなおさらでしょ。ちゃんと家まで持ってってよ。そういうのって店の信用問題じゃないの?」
「だーかーらー。そのへんはミナの広い心で……」
「お姉さんにチクるよ」
 そう言ってミナはポケットから携帯電話を出した。ちゃちい子ども携帯とはいえ、俺を黙らせるには十分だ。ミナの携帯にはどういうわけか店の電話番号が入っている。今店番をしているのは朱姉ぇで……つまり。
 俺に身震いが走った。言うまでもない。チクられたら朱姉ぇは絶対に俺を投げ飛ばす。本気でやられたらマジで死ぬ。
「わかったよ」
 俺はしぶしぶ諦めた。降参の意を示すと、ミナがにやりと笑う。
「さすがのウメもお姉さんには叶わないんだよね。扱いやすくていいわぁ」
「……悪かったな。扱いやすくて」
「でも、ま。これ家まで運んでくれるなら、途中でアイスおごってあげてもいいよ」
「え、マジで?」
 俺はミナの誘惑にあっさり落ちた。
 悔しいが、俺は食べ物を引き合いに出されるとめっぽう弱い。どんなに嫌な奴でも、おごるなんて言われれば心はぐらぐら揺れるのだ。
 寄り道が決定すると、ミナは手に持っていた日傘を開いた。
「相変わらず重装備だよな」
「しょうがないでしょ。今年も祭りで舞うんだから」
 仕事上、日焼けした肌を見せるわけにはいかないのだとミナは言う。
 酒屋に生まれた俺が店の手伝いをさせられるように、神社の娘であるミナもまた、巫女という仕事を親から与えられていた。
 祈祷の依頼がある時や正月、年一度の夏祭りにミナは巫女に変身する。巫女は神に仕える者だから清く美しくなければならないというのがミナの家の信条だという。おかげで夏は黒づくめ生活だとミナは毎年嘆いていた。
 でも今年はちょっとだけ違う。吹奏楽部に所属するミナは来月行われる定期演奏会のメンバーに選ばれたのだ。しかも一年生はミナだけだという。
 普段から朝練を欠かさずにやっていたミナは、夏休みに入ってからも学校に毎日通っていた。部活があろうがなかろうが、お盆になっても、だ。納得のいく音が出るまで、ミナは絶対に妥協しない。今日も一定の音が続くよう、腹式呼吸のトレーニングをしていたのだという。
「吹いていて、高い音が上手く出るときと、そうじゃない時があるんだよね。響きもまだ浅いし」
 もっとがんばらないと、とミナは自分に言い聞かせるように言う。
 予想していた方向の反対に向かって歩き始めたので、俺はえ、と言葉を漏らした。
「コンビニでアイス買うんじゃないのかよ?」
「あたしの好きなラムネバー、コンビニで売ってないんだもん」
 なんだよそれ。
 俺はコンビニで涼めないことにがっかりした。コンビニ以外であとアイスを売っているような場所はというと、ここから五分ほど歩いた所にある駄菓子屋だけだ。
「怠けた体を鍛えるにはちょうどいいでしょ」
 ミナはビールケースの上に、自分の荷物を乗せた。フルートのケースやら、楽譜の入ったカバンやら……それらを積みこんだおかげで、タイヤの底がつぶれていく。
 うだる暑さの中、俺は台車をめいっぱいの力で転がした。
 はるか遠くを臨むと、歪んだ路面の先に水があった。あの水たまりに頭突っこむか、なんてぼんやりと思っていると『あれは逃げ水だよ』とキョウにたしなめられる。
「逃げ水?」
『蜃気楼の一種。この間理科の授業でやったじゃん』
 そんなの忘れた。だいたい、理科なんて何が面白いのか分からない。
 この世に生まれて十三年。同じものを見て、同じもの学んでいるはずなのに、キョウと俺の頭のできは天と地ほど広がっている。どうしてこんなにも差が出るんだろう。
 勉強に関してキョウは意地悪だ。今ではテスト問題の答えをせがんでも拒否される。
 まったく、最近気がきかねえよなぁ、なんて思っていると、
『勉強は自分のためにするんだよ』
 と、キョウがさらりと言った。俺の意識がそっちに流れ込んだらしい。
『だいたいウメは集中力すぐ切れるし、飽きっぽいんだよ。授業中も居眠りばっかだし、卓球部だってすぐやめちゃうし』
「ったく、ガミガミうるせぇなぁ」
「なーに? またキョウちゃんとケンカ?」
 俺がひとり毒づいていると、ミナが興味深そうに聞いてくる。
「最近兄弟ケンカ増えてない?」
「キョウが頑固なんだよ」
『ウメが生意気なんだ』
「誰が生意気だって? あーもうっ。キョウってば超うぜえ」
 俺が頭を抱えて叫ぶ。他の人から見たら危ない人間の独り芝居にしか見えないだろう。ミナは、あはは、と笑っていた。
「やっぱり双子でも性格は違うんだね」
「当ったり前だろ」
 俺はひとりごちた。俺の中には生まれた時から自分とは別の精神が居座っている。時々俺にツッコミを入れる声の正体――キョウは俺の双子の兄だ。
 俺たちはもともと二卵生双生児で生まれてくるはずだった。でも母親の中にいた片方が流産しその体はもう片方――つまりは俺に吸収された。医学用語でそれはバニなんとかって呼ばれていているらしい。他のやつらと違うのは、俺が兄の魂を持って生れてきたということだ。
 最初はよかった。一つの体に魂が二つあることが当たり前だと思っていたし、俺にとってキョウは家族で、大切な友達だったから。実際母親からも、兄や姉に比べてひとり遊びが得意だったと聞いている。特にままごとが得意だったとか何だとか。
 でも俺の成長とともにそれは違う方向へ動き出した。やはり右も左も分からない子どもが実体のない人間を証明するのは困難だったのだ。
 そのうちよく遊んでいた友達にキョウのことを話すと嘘つき呼ばわりされ、ひとりごとの多い俺に家族は妄想が強いんじゃないかとか霊がみえるんじゃないかとか――果ては多重人格の疑いもかけられた。俺がキョウのことを周りに話さなくなったのは、キョウがそれを望んだからだ。
 自分のせいで母親が悲しむ姿を見たくない――
 そう、キョウは言っていた。それ以来キョウの件に関しては俺も黙りこむことにしたのだけど、幼馴染のミナだけはキョウのことを今も話題に出してくる。今、キョウの存在を知って(というより信じて)いるのはミナだけだ。
 ついでに「キョウ」という名前をつけたのもミナだったりする。
 キョウは杏子の杏。梅と杏子は俺が生まれた六月の果物らしい。女の子みたいな名前だなぁと俺は思ったが、キョウは名前をもらえたことを素直に喜んでいた。
 ミナは日傘をくるくると回している。
 黒い日傘に麦わら帽子。長袖のワンピースに手袋。ミナの全身から紫外線撃退オーラが溢れている。
 一方の俺はというと、日焼け対策などもちろんしていない。全くの無防備だ。足は重くて左右に動かすのがやっと。首筋からはとめどなく汗が流れ落ちてNBAのランニングシャツが湿っている。このままじゃ熱射病を超えて頭が焼けそうだ。
 俺がうう、と唸っていると、頭に何かが乗った。ミナがかぶっていた麦わら帽子だ。
 おお、気が効くじゃん――と思ったのもつかの間のこと。
「ウメがへばったら、これ誰が持ってくっての? ビールケースなんて運ばないからね」
 ミナはしれっとした顔で言う。
 はいはい、どうせ俺はアイスでつられた下僕ですよ。客は神さまですよ。
 俺は口をとがらせながらミナのあとをついていくしかなかった。
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