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 真田先輩の家は商店街から更に二つ外れた通りにあった。
 築二十年は経っているだろう木造アパートの一階。
 私は日傘を閉じ、楽器を持っている方の腕に引っかける。言われたとおりの部屋をたどっていくと女の人がひとり、開きかけの扉の前に立っていた。
 あの人――先輩の家のお客かな? それとも……
「あの、真田さんの家ってここですか?」
 私は女の人に声をかけてみた。すると、
「あ、豊川。来てくれたんだー」
 と家の中から声がした。制服姿の先輩がひょっこりと顔をのぞかせる。
「ごめんねー。いきなり呼び出しちゃって」
「いえ」
 それは大丈夫なんですけど、と私は心の中でつぶやく。そして隣りの女の人をちらりと見た。
 細身で、私よりちょっとだけ背が高い。勝気そうな目元とぽってりした唇が先輩に似てるのだけど――
「この人、ウチの母親」
 やっぱり。
 先輩から改めて紹介されたので、私は深々とお辞儀をする。
「この子、部活の後輩なんだ」
「部活の……」
 先輩のお母さんはオウム返しして――言葉を止めた。顔を上げた私はあれ、と思う。
 今、私を見て頬をひきつらせたような……
 何だろう。今、一瞬だけ困った顔をされた? 私、変な格好だったかな?
「あの」
 私が首をかしげていると、先輩のお母さんははっとしたような顔をする。すぐに先輩の方を見上げた。
「じゃ、お母さん仕事行ってくるから。晩ごはんは――」
「冷蔵庫の中身で適当にやるからいい。チャーハンくらいは作れるし」
「いつも悪いわね」
「私みたいな若いヤツは苦労するのがちょうどいいの。ほら、早くいかないと電車乗り遅れるよ」
 先輩は相変わらず口が減らない。激に押されて、先輩のお母さんは嬉しそうな笑みをこぼした。
「何もないけど、ゆっくりしてってね」
 軽く会釈をされたので私もおじきで返す。先輩のお母さんは早足で駅に向かって行った。
 遠ざかる細い背中を見送りながら私は先輩に問いかける。
「先輩のお母さん、これから仕事なんですか?」
「ウチの母親、看護師してるから――って、相変わらずすごい格好だねぇ」
 先輩は私の上からつま先をまじまじと見ながらぼやく。この手の感想は聞きなれた。私も右から左に流すつもりだったのだけど――
 先輩は思ったよりも目ざとかった。
「ああ、でも今日はいつもの麦わら帽子してないんだ。外が曇ってきたから?」
「まぁ……」
「そっか。豊川の髪がおさげなせいかな? あれ、すごく似合ってたよ」
 それは私にとって思いがけない褒め言葉だった。けど、今の私は微笑むこともできずにいる。
 麦わら帽子はあの日以来かぶっていない。部屋の壁にかけたままだ。
 大切な人から受け取ったそれは、あまりにも恐れ多くて、触れることすらできない。
「まぁ、上がってよ」
 先輩の誘いに私は小さくうなずいた。おじゃまします、とひと声かけてから先輩のプライベートへ踏み込んでいく。
 奥の部屋に通され、すすめられた座布団の上に座った。待っている間も部屋をぐるりと見渡してみる。 
 二畳ほどの台所と六畳の和室が一間。1K――っていうのかな? お世辞にも広いと言えない部屋だけど、家具や家電がほとんどないせいかとてもすっきりしている。
 それは綺麗、というよりは殺風景といった感じだ。
「それにしても豊川がケータイ持っててよかったよ」
 麦茶の入ったグラスを運びながら先輩は言う。
「最近の豊川、部活終わったらすぐ帰っちゃうんだもん。声掛けようにもかけられなかったし、自宅電話したらまだ帰ってないっていうから――」
「……すみません」
「お盆前までは居残り魔だったよね? 何かあったの」
「別に――なにもないですよ」
 無意識のうちに私は語気を強めていた。
「ああ、麦茶、いただきますね」
 私は喉が渇いていたんだとばかりにグラスに口をつけた。カラカラの体に冷たさがすっと染み込んでいく。美味しいですね、なんて言って話をちょっとだけそらしてみる。
 これ以上踏み込んでほしくない――そう意志表示したつもり。
 なのに先輩は意地悪だ。ふーんそうなんだ、と一度納得したそぶりをして、
「彼氏できたとか?」
 なんてフェイントかけるから、私は手に持っていたグラスを落としそうになる。体温が急激に上がった。
「最近男の家に入り浸ってるって噂聞いたよー。そこの酒屋だって? 確か同級生の男子がいたよね」
「なっ、そんなんじゃないですって!」
「じゃあなんで、毎日通ってるの?」
「それは――」
 理由を言いかけ、私は口をつぐむ。興味津津でいる先輩がウメのお姉さんと重なったからだ。
 本当、どうしてそういう方向に走っちゃうのかな?
「だから、そんなんじゃないですって」
 私は静かに否定する。もう一度グラスを口につけて防衛する。つれない返事に先輩は不満そうだ。
 これ以上話がこじれると厄介かも。
 そう思った私は話の方向を修正することにする。
「で? 先輩は私に何の用ですか?」
「ああ、それなんだけど」
 先輩は自分の分のグラスを置いた。しばらくの静けさが訪れたあとで、先輩の顔がぐっと近づく。あまりの近さに私は息をのんだ。
「あの……」
「私――ずっと前から豊川のことが好きだったんだ」
 一瞬、頭が真っ白になった。
 言葉の意味を理解してから私は五〇センチほど後ずさる。すぐに甲高い笑いが耳を突き抜けた。
「冗談にきまってるじゃん」
 騙せたのが相当面白かったらしい。真田先輩は腹を抱えて笑っている。私の体温が一気に上昇した。
「先輩ひどい。からかうために私を呼んだんですかっ!」
「ごめんごめん」
 先輩は目じりに涙を浮かべながら必死に笑いを噛みしめている。それがちょっとだけムカついて私は口をとがらせた。
 冗談にしてもきつすぎる。
 とはいえ、しどろもどろな顔はなかなか元に戻らない。
 それを見られたくなくて私は先輩から目をそらした。跳ね上がった心拍数はなかなか下がらなくて、先輩のどアップな顔が頭から離れない。
 すると、私が拗ねてしまったのだとと思ったらしい。先輩はホントごめん、と謝ってきた。
「今度はホント、真面目な話だから」
 私はちらりと先輩を盗み見る。反省の色を見せる先輩を見て、ようやく元の姿勢にもどることができた。
 正座を直し、改めて問いかける。
「で? 私に何の用ですか?」
「今度こそ真面目な話――というかお願いなんだけど」
「はい」
「豊川には今回のソロパートを勝ち取って欲しい」
「は」
 私は思わず間抜けな声を上げてしまった。再び頭が真っ白になる。一拍遅れたあとで、ええええっ! と天井をぶち破る位の大声を上げてしまう。さっきよりも更に五〇センチ後ずさって壁に頭をぶつけてしまった。
「本当は私の代わりにあの曲のソロをやってもらいたかったんだ。でも二年の手前もあるし、ああ言うしかなくて……」
「無理です、絶対無理っ」
「いや、豊川なら大丈夫」
「いや、絶対無理ですって」
 私はめいっぱい否定する。
 これは謙遜じゃない。現実として私より上手い人がいるからだ。
 二年の早瀬先輩や須田先輩や……なのに何で私? というか。
「あの曲、どっちみち先輩がソロをやるんでしょう?」
 私は結果予想を先輩にぶつける。すると先輩は肩をすくめてこう言ったんだ。
「私、夏休みが終わったら転校するんだ」
「え……」
「両親の離婚が決まってさ。母親についてくことになってね」
 そう言って先輩は自分の麦茶を飲みこんだ。まるで、自分の言葉を飲みこんだみたいに。
 話によると、先輩の両親は二年前から上手くいってなくて、ずっと別居状態だったらしい。今はお母さんと一緒に住んでいて、お父さんとはほとんど会ってないのだという。
「この間まで私をどうするかでもめてたんだけど、ようやく決着がついてさ。今日離婚届が受理されたんだ。で、このアパートの契約もちょうど切れるから引越そうって。母親の実家に越すことになったんだ」
「実家って、どこですか」
「熊本」
 私の頭がくらりとした。
 隣県程度だったら、またどこかで会えますよ、なんて言えたのかもしれない。でも先輩が告げた場所は二つどころか天と地ほど離れてて――あまりにも遠すぎて、気の効いた言葉すら浮かんでこない。
 というか。
「え? それって……」
 ――来月の半ばにある演奏会は、出られない? 
「そういうこと」
 私が質問をするより先に先輩は答えを出してくれる。笑顔だけど、頬が微妙にひきつっていた。
 私は自分自身がとても恥ずかしくなる。
 先輩は私の変化を読み取って気にかけてくれた。なのに私は自分のことでいっぱいいっぱいで、先輩の変化に気づけなかかったなんて――
 なんて情けないんだろう。どうして自分はいつも独りよがりになってしまうんだろう。
 私は唇をきゅっと結ぶ。
 突然の告白にショックは大きかったけど、先輩がソロをテストで決めようと言い出したことやこの部屋が殺風景だった理由は分かった。
 分かったけど――
「でも何で私なんですか? 他にもふさわしい人がいるんじゃ……」
「……豊川ってたまに巫女さんしてるよね?」
「はい」
「一年に聞いたけど、巫女やってるから紫外線避けてるんだって?」
「それは――」
 昔から親に口うるさく言われてるからだ。
 私は時々、神主である父親の仕事を手伝っている。巫女さんになって、神に祈りをささげるのだ。
 巫女は神の使いとなるのだから、いつも清楚でいなさい。身なりを整え神の使いにふさわしい姿でいなさい、と。
 おかげで舞いをする夏は大変だ。外に出る時は黒づくめの長袖をまとい、蒸れやすいブーツを履く。日傘を差して帽子をかぶって……ひどい時はサングラスとマスクまで。
 本当、どこの変質者だって感じだけど、仕事をする以上は仕方ない。
 それでも部活の行き帰りの時は、みんなの視線が痛かったりする。
「でもそれって常にプロ意識を持っているってことだよね」
「いや、その」
 私は言葉を濁す。
 そういう風に切り返されてしまうと、反論する言葉すら見つからない。
「私は豊川のそういう所を買っているんだ。それってすごく大事なことだよ。技術はまだまだだけど、豊川は納得するまで練習も努力も惜しまないし、楽器の手入れも怠らないでしょ? 他の人よりもずっと立派だよ」
 先輩はとて饒舌だった。思いがけない言葉の数々に私はただ圧倒される。
「ああごめん。ひとりだけ盛り上がっちゃってたらイタイよね」
「いえ、そんな……」
「私はただ、今回のソロ選抜は全力で頑張ってほしいって、伝えたかっただけなんだ。先輩のお節介ってやつ?」
 先輩の気持ちは十分すぎるほど伝わっていた。期待に応えられるほどの自信はないけど、その気持ちは大切にもらっておこうと思う。
 私はがんばってみます、と応える。そのあとで、
「でも……残念です」
 私は思わず本音をこぼしてしまった。
「先輩にとっては中学最後の演奏会だったのに」
 一緒に演奏できる、最初で最後の演奏会だったのに。
「まぁ、しょうがないよね。こればっかりは」 
 先輩は肩をすくめた。さらりと言ってるけど、そこにいつもの覇気はない。
 きっと先輩は演奏会に出られないことが辛いのかもしれない。
 中学で最後のチャンスだったのに。本当は自分がソロをやりたかったのに。それができなくて悔しいに違いない。
 でも、先輩ほどの技術を持っている人なら他の場所でも活躍できるはずだ。
「先輩――高校でも吹奏楽やるんですよね?」
 私の問いかけに先輩の笑顔が消えた。ちょっとだけ困ったような顔をしたあとで、たぶん無理、と答えた。
 なんでも行きたい大学があるんだそうだ。
「でも私の頭じゃかなり勉強しなきゃいけないレベルだからさ。高校は部活どころじゃないと思う」
「そう……なんですか?」
「これでも私、司法書士目指してるんだ。早めに勉強すれば夢にもっと近づくし」 
 まだ中学生だというのに、将来をそこまで考えているなんて――
 私は先輩に尊敬の目を向ける。すごいと素直に思った。でもそれは一瞬で崩れてしまう。
 とても立派な夢を持っているのに――先輩は何で寂しそうな表情をしたのだろう?
 何だか気まずくなってきたので、私は話題を変えることにした。
「転校すること……部活のみんなが聞いたらショック受けますね」
「どうだろう? うるさい邪魔者がいなくなってせいせいするんじゃないのかな?」
「そんな」
「フォローしなくていいよ。私も結構きついこと言ってたし、周りの雰囲気でなんとなく分かってたし」
「けど」
「私、誰にも言わないで引っ越すつもりだから」
「ええっ!」
「部活のみんなには夏休みが終わるまで黙っててくれる?」
「どうして……」
「だってカッコ悪いじゃん。両親が離婚しました、だから転校します――って。最後の最後で変に同情されるの、嫌なんだ」
 これ、口止め料だから。
 そう言って先輩は茶色いトランクを私に押しつけた。角のつぶれた箱の隅っこには「真田」の文字。すぐとなりにウサギのキャラクターのシールがある。中を開けるとつい一時間前まで先輩が使っていた楽器がおさめられていた。
「今豊川が使ってるのって借り物でしょ? 自分の楽器揃えるとなるとお金結構かかるし。だったら私の使って。買うまでの『つなぎ』でもいいから」
「そんなっ。困ります」
 私は本気で慌てた。
 確かに今使っているのは歴代の部員が使った、いわば使い古しだ。キィのネジはすぐ緩むし変色もある。
 そりゃ先輩のフルートの方が新しくて綺麗だけど……こんなの貰っても嬉しくもなんともない。
「やっぱり受け取れません。これ、先輩にとって大事な物じゃないですか」
「でもこの先使わないんだよ。使わなければ持ってても意味ないでしょ?」
 これ、結構いい値段するんだよ、と先輩は言う。
「楽器だって、このまま埃かぶるより、音楽が好きな人に使ってもらう方が喜ぶと思わない? 私だってその方が嬉しいし」
 突然の押し付けに私は困ってしまった。
 確かにフルートは好きだ。
 でも私は先輩が思っているほどできた人間じゃないし、まっすぐな人間でもない。
 先輩は知らないのだ。
 私が何故吹奏楽部に入ろうかと思ったのか――何故フルートだったのかを。