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 二つ先の交差点を右に折れると見慣れた街並みが私を迎える。
 車がギリギリすれ違える道にこじんまりとした店が並んでいた。
 いつも激安な肉屋と八百屋。店舗を改装したばかりの魚屋に昔からある洋品店――両脇にある街灯には商店の名前を連ねた看板が添えられている。
 ここは私たちの暮らしを支える商店街だ。
 今は人の数も少ないけど、夕方になれば活気ある姿を見せてくれる。いつもは一本手前の交差点で曲がって裏道を通っている私だけど、最近はちょっとだけ遠回りをしていた。
 私は通いなれた道をまっすぐ進んだ。通りの半分を歩くと右手に「酒のさかや」の看板が見えてくる。店のショーウィンドウから見えるのはビールケースの山。隣りにはペットボトルの焼酎が何種類か置かれていた。ワゴンに乗せられたワインたちが行儀よく並んでいる。
 どれも未成年が口にすることのできない飲み物。それらを取り扱っているこの店は、私の幼馴染の家でもあった。
 私は迷うことなく店の中へ入る。
 店のカウンターで百々お姉さんが笑顔で迎えてくれた。
「いらっしゃい。今日も来たね」
 私はこんにちは、と挨拶をする。
「あの、ウメは……」
「あそこ」
 百々お姉さんは一点を指で示した。私はそれを目で追いかける。酒が沢山置かれた店の隅っこに丸まった背中を見つけた。ハムスターのような仕草。私よりも小柄な体は小学生にも間違えられる位だ。
 同い年の幼馴染は仕入れてきた一升瓶を黙々と並べていた。
「青梅(おうめ)! それ終わったら冷蔵庫の品補充しといて」
 三つ上の姉の声に弟が反応する。一度こちらを向くけどそこに喜怒哀楽の情はない。焦点も合っていなかった。魂が完全に抜けた状態だ。
 ウメがのろのろと動きだす。私たちに目をくれることもなく大型冷蔵庫の中へ引っ込んでいく。
 挨拶もなにもない――きっと私の存在にすら気づいてなかったのだろう。
 弟の腑抜けぶりに百々お姉さんは小さくため息をついた。
「まぁ、一時期に比べたらマシになった方じゃない? 最初はご飯すらまともに食べてなかったし、超ヒッキーだったし」
「そう……ですよね」
「正直、一週間以上続くと心配通り越して怖いわ」
 百々お姉さんは店のカウンターに肘をつく。ちらりと私の方を見てから、  
「ミナちゃん、本当に心当たりないの?」
 と聞いてくる。
「夏祭りの時ウメのそばにいたんでしょう? やっぱり何かあったんじゃないの?」
「別に……なにも」
「怪しいなぁ」
 百々お姉さんの目がきらりと光る。ウメに似た鋭い眼差しに心がうずいた。 
「もしかしてウメに酷い事でも言っちゃった? チビとかバカとか弱虫とか。で、怒ったウメが周りに当たり散らしてたら、逆にボコられたとか? でなかったらウメに告られた? だから『ごめんなさい』だったとか?」
 相変わらず百々お姉さんの想像力はたくましい。でも、どっちも間違いだったりする。
 私がこの店を毎日訪れるのはウメが心配だったからだ。
 私が出しゃばって、そのせいでウメが大切なものを失ってしまったから――
 でもそれを他の人に言うことはできない。言ってしまうと自分だけ逃げたような気がしてならないんだ。万が一言ったとしても相手に余計な想像どころか、自分の頭の中を疑われてしまうんだろう。
 小さな頃は秘密を持つことが特別に感じていた。それを考えるだけでどきどきしていた。なのに今はそれがとても重くて辛い。少しでも気を緩めたら泣いてしまいそうな自分がいる。
 だから――
「私、帰りますね」
 私も逃れるしかなかった。感情に押しつぶされる前に私は百々お姉さんに背中を向ける。
 店を出る。一歩、二歩、次第に歩調が早まる。
 気がつけば私は寺町通りに向かって走り出していた。
 ごめんね。
 ごめんね。
 あの日から私は心の中でウメと「彼」にあやまり続けている。
 本当ならウメと双子で生まれてくるはずだったキョウちゃん。体を失って魂だけ取り残されて、ウメの中でしか生きることができなかったキョウちゃん。
 彼は私たちに優しさを与えてくれた。姿はなくても、心は「そこ」にあると感じることができた。
 いつも一緒にいたのに。言葉は届かなくてもふたりのやりとりで気づけたはずなのに。
 私はキョウちゃんの変化に気づけなかった。苦しみを分かち合えなかった。何もできなかった自分が悔しくて、すごく情けない。
 でもそれはきっとウメも同じ――ううん。もしかしたらそれ以上なのかもしれない。
 夏祭りの夜、初めて聴いた彼の声は私の想像よりもちょっとだけ低かった。
 穏やかな口調で、ウメをなだめるような様子で。でもどこか寂しげだったのは「この時」を覚悟していたからなのかもしれない。
 私もキョウちゃんの言葉で悟った。何か言わなきゃいけないと思った。
 けど実際は何も言えなくて、ただ立ち尽くすばかりで。
『さよなら』
 その一言を思い出すだけで心がずきずき痛む。
 あのあと、ウメは蝉の抜け殻みたいになっていた。誰かが支えてしまったら砕けてしまいそうな――そんな危うさを持っていた。
 なのに私は――
「ごめんなさい……」
 ふいにこぼれた感情がウメの琴線に触れてしまった。あんなにも泣き崩れたウメを見るのは初めてだった。
 私は無力だ。
 どんなに知恵を手に入れても、私はウメを励ますことができない。言葉をかけようと思っても自分へのふがいなさが走ってごめんねとしか言えない。正義はカッコいいと思っていたけど、現実はとても難しくて脆いものだと気づかされてしまった。
 でも、だからと言って何もしないのはとても辛い。
 ウメが辛い思いでいるときに何もできないのが苦しくてたまらない。
 今、私はウメに何をすればいいの――
 私は悶々とした気持ちを抱えこむ。持っていた携帯が鳴ったのは、まさにそんな時だった。
 受話器を取った瞬間、私に緊張が走る。流れてきたのは聞き覚えのある声。
「吹奏楽部の真田だけど――部活のことで話があるんだ。これから会えないかな?」