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「あーっ、やめやめ。音止めて!」
 流れていた音楽がぴたりと止まった。
「早瀬は中盤の音がぐだぐだ。須田はブレスの場所間違えている。ちゃんと楽譜見てる? 二人とも昨日休んだから、倍の努力をしないとみんなに追いつかないよ!」
「はい!」
「それと豊川。高音のブレが直ってない。だいぶましになったけど、まだまだだよ」
「はいっ」
 私はいつも以上に声を張り上げる。部活の時はいつもそうだ。目の前にいるリーダー――真田先輩のせいで、いつも気が抜けない。
「全体的に間延びしてるからもっとリズムとって。あと――」
 ふいに耳障りな音が突き抜けた。黄色い声が広がると真田先輩がぷつりと切れる。 
「そこの一年っ! しゃべる暇があんなら練習しろ!」
 先輩の激に一年生たちがびくりと肩を揺らす。
「そんな薄っぺらい音出されるとこっちの気が散る。外で腹筋やってもらう方がまだましってもんだ!」
「そんな……私たちだって真剣にやってるんですっ」
「どこが真剣だって? 音に力が入ってないじゃないか。基本がなってないんだよ」
「でも」
「でも?」
「その、楽器が古すぎるんです……」
 後輩の反論に真田先輩は不機嫌な声を上げる。椅子から立ち上がると一年のいる塊に近づいていった。
 数秒後、彼女たちのプライドがことごとくつぶされる。
 同じ楽器を使ったのに、先輩の奏でた音が段違いだったからだ。
「楽器のせいにしたいなら、もっと上手くなってからにしな」
 先輩の一言に言葉を飲み込む後輩たち。演奏会のメンバーに選ばれなかったら私もあの中の一人だった。そう思うと先輩にやられた同級生たちが気の毒に思えてならない。
 私が複雑な思いでそれを見ていると――
「真田先輩、ちょー機嫌悪くない?」
 ぽつりと二年の先輩がつぶやいた。
「いつもに増してピリピリしてるっていうか。あれ、かなりヤバいよ」
「まぁ、あの人も引退近いからねぇ……最後のおつとめってやつ?」
 そう便乗してきたのはフルートを担当しているもう一人の先輩だ。
「あとちょっとの辛抱か」
「一年後、私たちもああなっちゃうのかしらねぇ」
 先輩たちは一連の様子をちらりと見たあとで肩をすくめた。
 実は来月の演奏会で三年生は引退することになっている。三年生にとっては有終の美であり最高の見せ場。つまり、ピリピリしているのは真田先輩だけでないのだ。
 とはいえ――真田先輩の場合はちょっと違う気がする。普段からああだから正直フォローのしようがない。
 先輩は思ったことをすぐ口にする。よい事も気にいらないことも。だから先輩の発言にみんなビクビクしてしまうのだ。たまに反論したりする人もいるけれど、だいたいは黙りこんでしまう。あまりにも正論すぎて、どう言葉を返していいのか分からなくて、結局何も言えずに終わってしまうのだ。
 ちなみに私の前にいる二人の先輩は典型的後者。だから見えない所で本音が飛び交う。
「でもホント、もう少し後輩いたわってくれればいいのにねー」
「あの人自分よりも下手だからって、相手をバカにしてんじゃない?」
「ああーそんな感じあるある。確か、あの人のお父さんってどっかの楽団に所属してるんでしょ?」
「そうそう、物心ついた頃からフルート仕込まれてたらしいよー」
「いいよねえ、才能のある人は。根っからのサラブレッドってやつ?」
 先輩たちのやり取りに私は目をそむけた。聞いていてもあまりいい気分にならないからだ。
 それに――
「あら、それは褒め言葉として受け取っていいのかしら?」
 怖い声が頭上に広がる。やばい、と思ったのは私だけじゃない。
「確かに、私のいる環境はすごくよかったわよ――でもね。才能だって努力を怠ったら何の意味もないの。毎日何時間も練習することで技術は磨かれるの。言ってること、分かる?」
 彼女たちの本音を踏まえたのか、先輩の口調は穏やかだ。穏やかすぎて怖い。それは昨日練習をさぼった先輩たちにとって痛すぎる鉄槌だ。
「上手くなりたいならもっと必死になれ! だらだらと同じ曲練習していられないんだからね」
「……はい」
「じゃ、もう一回通しでいくから」
 私たちは再び音符を追いかけた。
 同じメロディを繰り返し、音を体に刻みつける。三〇分後、何度めかの苦言を浴びるた所でようやく解放された。先生から集合の指示がかかったのだ。
 私たちはそれぞれの楽器を抱えて集まる。廊下や他の教室で練習していた部員たちが戻ってくると、音楽室の中が急に狭く感じた。
「よし、全員そろったな」
 先生は部員たちをひととおり見渡したあとでプリントを配り始めた。白い紙に乗せられた五線譜に音符がちりばめられている。
「演奏会でやるラスト一曲はこれでいくからな」
 私は真新しい楽譜をまじまじと見つめた。一枚目の上には「君の瞳に恋している」と書かれていた。 
 先生がCDをセットする。スピーカーから流れたのは私も知っているメロディーだった。
 アップテンポなリズム。歌詞はないけど、確か、恋する気持ちを表した詩がついていたはずだ。
 世界中のアーティストたちに何度もカバーされた曲。今聞いているのは吹奏楽用に――それも、フルートを中心としたバンド演奏に編曲されたものだ。
 途中途中にフルートの旋律が入る。滑らかな調べが私の気持ちを更に盛り上げていく。メロディーが金管と重なると冷静に聞いていても心がうずうずしていくのが分かる。
 演奏会でこれを奏でたらどんなに楽しいだろう――
「っとまぁ、曲はこんな感じだ。舞台ではフルートの四人が前に出てもらうから。覚悟しとけー」
「えー」
 私の隣りで二年の先輩たちが声を上げた。
 彼女たちの顔をこっそり伺ってみるものの、本当に嫌そうな顔をしている人はいない。きっと気持ちは私と同じだ。わざと嫌がるのは嬉しさの裏返しなんだろう。
「今の所ソロは真田中心でいく予定だ。明後日から全体練習に入るから出る奴は譜面に目をとおしておくように。何か質問は?」
「あの、先生」
 真田先輩が口を開く。
「ソロは私中心――で決定なんですか?」
「そのつもりだけど」
「あの、今回のソロパートは、私以外から選んでもらえますか?」
 真田先輩の言葉に私は耳を疑ってしまう。先生も目を丸くしていた。
「どうした真田。ソロは無理か?」
「いいえ。選んでくれたのはとても嬉しいです……けど」 
「けど?」
「その、演奏のメインが三年生ばかりってのもどうかと思ったんです。確かに私たち三年にとっては最後の演奏会で――いい思い出になります。
 でもこの先の吹奏楽部を引っ張っていくのは一、二年生ですよね? だったら早くからこういったチャンスを与えてもいいんじゃないかと……そう思ったんです」
「なるほど」
「もちろん、やるからには相応の実力を持った人にやってもらいたいと思ってます。その方が私も安心して引退できますし。だから演奏会に出るフルート全員の『音』を聞いて選んでもらいたいんです。どうでしょうか?」
「うーん」
 先輩の意見に先生は唸った。苦虫をつぶしたような顔から不穏な空気が漂ってくる。
「おれは真田が演奏するのが一番いいと思っているんだがなぁ」
「……」
「まぁ、真田の言っていることも分からなくはない。努力した者、実力のある者が選ばれることについては先生も賛成だ。だからこそ真田をソロに選んだ甲斐があるというものだ」
「やっぱり、無理なんですか?」
「無理というか――まぁ、今後の可能性を広げるという点においては、個人の演奏を聞いてからでも遅くはないだろうなぁ」
「じゃあ……」
 真田先輩の顔がぱっと明るくなる。普段見ることのない表情なだけに私もどきっとしてしまった。
「フルートに関しては一度テストをしようじゃないか」
「ありがとうございます」
「そのかわり真田にもテストを受けてもらう。みんなの前で演奏してもらって、その結果で改めて選ぶということでどうだ? これでもしおまえがまた選ばれても文句は言わない。これでどうだ?」
「――わかりました」
 先輩がこくりとうなずく。先輩と先生の言葉のやりとりに、部員たちがざわめきだした。特に私の――フルートを持っている人の辺りが妙にそわそわしている。誰かが、もしかしたら、と小さくつぶやく声が聞こえた。
「よし、今日の部活はこれで終わりにするぞ」
 先生の声を合図に周りが一度引き締まる。部長が全員に挨拶を促すと、ありがとうございました、の声が教室に響いた。解散の言葉を受けて部員たちが散り散りになっていく。振り返ると二年の先輩たちがこそこそ話をしていた。
 もしかしたら、この後教室に残って練習を始めるのかな?
 私はぼんやりと思う。またとないチャンスに先輩たちはやる気満々のようだ。
 普段の私だったら、同じように居残っていたかもしれない。先輩たちにライバル心を燃やしながら、万が一、もしかしたら、と希望を描いていたのかもしれない。  
 でも今はそんな気分じゃない。
 練習よりも――もっと気になることがあるからだ。
 私は楽器の手入れを済ませ、ケースにしまう。真っ先に音楽室を出た。
 制服の上に羽織ったのは黒い長袖。膝ほどの長さのブーツに足を沈める。外に出た所で日傘を差す。これは無意識の習慣だ。
 灼熱の日差しの中、私は何かに追われるように進んだ。