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4章 8月23日 -星の導き-



 どろりとしたものが頭にはりつく。
 気がつけば右の視界を奪われ、ふわりと宙に浮いていた。
 岩肌に頭を打ちつけるとあとは下に転がるたけだった。
 滑落のスピードが速すぎてもはや頭が回らない。
 ここから逃げ出す術が見つからない。
 ああ、俺、死ぬかも――
 ふとよぎる思い。全身を覆うのは言われようもない恐怖。
 と、次の瞬間細長いものが視界をよぎった。
 命が惜しい俺は握っていたコンパスを棄て、それにしがみついた。
 必死にしがみついて、命をつなぐが――
『!』


 俺ははっとする。
 それは恐ろしいほど冷たく――固かった。
 見覚えのある靴にそれが何なのか、俺は瞬時に悟る。
 それは人の右足だった。
『私の足はどこにいった?』
 冷たい言葉が俺を刺す。
 見上げれば崖の上に親父がいた。
『私の右足をどこへ持っていく?』
 それは――と言いかけ、俺は唇を震わせる。
 既に冷たくなったものの行き先を知っているからこそ、俺は答えに戸惑った。
『何故そうなった』
 そんなの、分かっている。
 俺が判断をあやまったから。
 俺が余計なことをしたから。
『許さない』
 地を這うような声に俺は瞼を閉じる。
 いっそのことひと思いに殺してほしかった。
 そうすればどれだけ心が軽くなったことか。
 でも、現実は――


 小さなコンパスが奈落の底へ落ちていく。
 掴んだ足がどろり、と溶けていく。
 親父の細胞は俺の腕をとりこんで、新たな生命体へと変化を遂げる。
『この苦しみをおまえも味わうがいい――』


「タケル!」


 自分の名前を呼ばれ、はっとする。
 張り付いていた瞼がいっきに上がると、まっ白な世界が飛びこんだ。
 ぼんやりと浮かび上がる二つの影。
「タケル!」
 あどけない少年の声が、俺を呼ぶ。
 こめかみに冷たいものが伝うと、俺の意識はゆっくりと現実に引き上げられる――
「タケル 大丈夫か?」
 最初に声をかけてきたのは左隣りに座っていたやんちゃ坊主だ。
 大地はひとまわり小さな手を沿わせて、ぐらぐらと俺の体を揺らしてくる。
「生きてるか?」
 ああ、なんとか生かされているみたいだ――
 俺はそう言いかけ――すぐに口をつむぐ。
 髪を二つに結わえた女性が俺の顔を心配そうにのぞきこんでいたからだ。
「何かうなされていたみたいですけど……大丈夫ですか?」
「ああ大丈夫。気にしないで」
 そう、俺はいつもの強がりで言葉を返すけど。
 額にびっしりとついた汗はなかなか消えず、逆に綾さんの不安を大きくさせてしまう。
 迷惑をかけないよう発した言葉は、結局空回りして喧騒の中へ消えてしまった。
 残ったのは酒の香りとなんとも気まずい空気だけ――


 補助席に座っていた綾さんはおもむろに席を立つ。
「あっちで飲み物もらってきますね」
 そう言ってバスの進行方向を人差し指で示すと、そちらに向かって歩き始めた。
 大地も俺が大したことないと分かると、あっさり窓の景色へと吸い込まれていく。
 俺はいつもの腕時計で時刻を確認した。
 出発してからすでに二時間以上が経過していた。
 バスはまだ高速の上を走っているらしい。
 外の景色は灰色が連なる建物の壁から緑豊かな山々へと変わっている。
 これといった渋滞もなさそうで、順調に目的地へ向かっているようだ。
 綾さんが所属するサークルのボランティアキャンプは今日から一泊二日の予定で行われる。
 この企画はなかなかの人気だったようで、バスの席はほとんど埋まっていた。
 時々聞こえるのは大学生たちの黄色い声。後ろの席では仲の良い親子がカードゲームで遊んでいる。
 斜め前には快適なエアコンの中でうたた寝をする男性の姿があった。
 平和を切り取ったような光景。
 ゆるゆるとした空間の中で俺はもう一度深いため息をつく。
 幻想で掴んだものの生々しさは未だに離れられずにいた。
 あんな夢を見たのは、昨日ホラーのDVDを見てたからだろう。
 早く眠りにつこうと酒をかっくらったのもよくなかった。
 昨日緊張してなかなか眠れなかったなんて――本当、小学生の遠足じゃあるまいし。
 おかげで大地には酒臭いと言われ、途中まで付添った親父には渋い顔をされ、本当最悪な朝を迎えてしまった。
 ああ、やっぱり来るんじゃなかった。
 ちょっとした後悔が俺を蝕むが、すでに時は巡り始めている。
 ここから逃げ出すことはもうできないのだ。


 しばらくして綾さんが俺たちの側へ戻ってきた。
 腕に抱えているのはペットボトルの水とジュース、後ろには何故かひとりの男がついていた。
「具合悪いって聞いたんですけど――大丈夫ですか?」
 男性は大学のロゴが入ったつなぎを着ていて――どうやら綾さんのサークル仲間、のようだ。
 清潔そうな髪型に炭酸水を割ったような笑顔。
 綾さんと並んでいる姿を見ればそれなりのカップルに見えないこともない。
「今回のイベントを企画した興水です。このたびは参加ありがとうございました」
「いえ……こちらこそ大学も違うのに飛び込みで申し込んでしまって、お手数かけました」
「話は芳田さんから聞いてます。この企画の参加者に縛りはありませんし、サークルに入ってる人の家族やその友達とかの集まりなのでそんなに気を使わなくて大丈夫ですよ」
 にこやかな顔で興水は言う。
「それに、芳田さんが男の人誘ったって、ちょっとした話題になってたんですよね」
「そうなんですか?」
「ええ。彼女、浮いた話題が出てこなかったからみんな興味津津で――その野次馬の一人がまぁ、僕だったりするんですけど」
「だから――そういった関係じゃないんですって」
 興水の茶化しに綾さんは困ったような顔をした。
「樋本さんとは赤の他人なんですから」
 その口調があまりにも頑なすぎて、俺は思わず苦笑してしまう。
「綾さん。そこまで力こめて他人って言われるのもちょっと悲しいんだけど……」
 せめて知り合いとかって言ってもらったほうがまだ救われるんだけどなぁ。
 俺はちょっとした皮肉をぼやきそうになるけれど。
 綾さんは最初から俺の言葉を真に受けそうだからあえて言わないでおこう。


「え、あ。ごめんなさいっ」
 予想通り、綾さんは俺に平謝りしてきた。
「その、樋本さんのことはまだよく知らないというかその、変な意味じゃなくて」
 確かに。電話で話はしたけど面と向かって会うのは今日で二度目だ。
 お互い知らないうちは他人行儀になっても仕方ないけど、もうちょっと柔軟性があるといいのにな、と思う。
「別にいいって。この間初めて会ったわけだし」
 俺がにこやかに返すと、興水が興味ありげに口を挟んできた。
「ふたりはどこで知り合ったの?」
「ああ、この間綾さんが俺のバイト先の居酒屋に飲みに来たんですよ」
「この間って久々に友達に会った、ってやつ?」
「はい。友達が樋本さんと知り合いで――」
「ふうん」
 興水は俺と綾さんを交互に見ると、
「じゃあ、まだ知り合ったばかり、なんだ」
 と念を押してくる。
 気がつけば、綾さんを見る興水の視線はどこか熱っぽい。
 こいつ、綾さんに気でもあるのだろうか?


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