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「あんた、介護とかの資格取る気はない?」
リビングに親父の姿がなくなると、おふくろがぽつりと聞いてきた。
「このままだとお母さん、お父さんとの老後が心配だわ」
「……あんまり期待しない方がいいかもしれない」
「何で」
「あの親父が俺のいうこと素直にきくと思うか?」
俺の問い返しにおふくろはああ、と納得したような顔をした。
それもそうね、と言葉を足してため息をつく。
俺自身、資格を取ることに抵抗はない。だが、取った所であの親父が受け入れてくれるかどうか……
「あの頭の血管、一度ぶち切れればいいのに」
おふくろの口調は呑気なものだ。たぶん冗談なのだろうけど、言ってる事はかなりおぞましい。
俺もまた気のないため息をつくしかなかった。
――就職活動が始まった時、俺は介護系の企業を集中的に訪問したことがある。
だが、受けた会社はどこも俺を採用してくれなかった。
どうして受け入れてもらえないのだろう。
俺がそんな思いで活動を続けていたある日、ある会社の面接官がこう言ったのだ。
『君の仕事に対する意気込みは立派だが、それは会社や万人に向けられたものではない。
君のやりたいと言っていたことは夢でも目標でもない。
一個人に向けられた償いだ』と。
その次の日から、俺は介護に携わる企業を候補から外すことにした。
容赦ない言葉に傷ついたわけじゃない。
面接官の言葉は的を得ていた。
確かに俺は介護に携わる仕事をすることで、許しを請いたかっただけなのかもしれない。
俺は親父に負い目がある。
きっと親父は俺を憎んでいる。
今もそんな思いばかりが巡って、親父に強く言い返せない自分がいた。
自分の進むべき道が何なのか分からず、同じ場所を行ったり来たり、迷ったままだ。
本当、どうしようもない――
「タケルー」
過去と今を往来する俺に割り込む声。
小さな主張にはっとする。
気がつくと大地が俺の腕にからみついていた。
何で遊ぶか決まったのだろうか、大地は一枚の紙を持ってきた。
「おう、これで遊ぶのか?」
差し出された紙を手に取る俺。
カラー印字された紙には『あなたも参加しませんか?』の題字があった。
本文の下には『一緒に楽しみませんか? お待ちしております』とボールペンで書かれたメッセージが残されている。
「何だこれ」
「野菜入ってた箱の中にあった」
「ふうん」
確かに箱の中には広告チラシが入っていた。緩衝材程度にしか思っていなかったけど……
山のクリーン作戦、か。
一度大地を見た後で、俺は再びそれに目を通す。
それは大学のサークルが主催しているものだが、これは一般の方の参加を広く募集しているものだった。
メインの活動は登山の休憩所にあてがわれている山小屋の掃除、清掃後は山の中腹にあるキャンプ場でバーベキューをするらしい。
その他にオリエンテーリングや星座観賞会のことも書かれていた。
一泊二日で行われるイベントの申し込み締切日は今日までとなっている。
……これは綾さんが言ってた例のやつなのだろうか。
「タケル、『クリーンさくせん』って何?」
「ハイキングしながらゴミ拾いして、夜はキャンプをするんだ」
「キャンプ?」
言葉の響きに大地の目がきらりと光った。
「ばぁば、これ行きたい。連れてって」
「えー。それって山登りするんでしょう? ばあばすぐ疲れるから無理だよー」
「じいじは?」
「じいじも……たぶん無理かな?」
ちょっと困ったような表情のおふくろを見た瞬間、俺の胸にくすぶりが広がる。
苦い思い出の欠片がまだ俺の視界にちらついていた。
おふくろに断られた大地は頬をぷうと膨らませ、じゃタケルでいい、と言う。
何だよ。その明らかに代用って感じ。
大地のお手軽さに俺はうっかり本音を吐いてしまった。
「ずいぶん簡単に言うのな」
「だって、じじとばばが駄目ならタケルしかいないじゃんか」
「俺も忙しいんだよ。いい加減仕事決めないと……」
「いやだっ、タケルも一緒に行くんだよ!」
大地の駄々こねに俺はうんざりとした。
ただでさえ山という言葉は俺を動揺させると言うのに――
「いきたいいきたいいきたいーっ。おれを山に連れてけーっ!」
無知で、まっすぐな主張がうざい。虫の居所が悪くなった俺は思わず口走る。
「だったらひとりで行け! でなかったら姉ちゃんたちに連れてってもらえばいいだろ!」
「健!」
おふくろの厳しい声が耳に届く。
大地の表情はすでに曇りはじめていた。俺も言ってすぐにしまった、と思った。
今、大地がこの家にいるのは、姉夫婦が仕事で忙しいからだ。
親父のいうように、向こうの家は家族全員が休みなしで働いている。
夜遅くまで働くことで自分たちの生活を支え、大地を養っているのだ。
だから大地は小学校に上がる前から、休日をこの家で過ごしている。
母はパートで昼間はいない。親父も今年の春から働き始めた。
こうなるとやんちゃな孫の相手もできないし、しょっちゅう遠くまで連れていくわけにはいかないだろう。
もしかしたら大地は今年の夏休みはどこにも連れて行ってもらってないのかもしれない。
子ども相手に大人げなさすぎた――
俺が自分の失言をどうフォローしようか考えあぐねていると、
「おまえが連れていけばいいだろう」
いつの間にいたのだろう、背後に父親の姿があった。
「職探しもしないで家に来るくらいだ。どうせ暇なんだろ?」
バカにしたような物言いは余計だが、親父の言う事がこの場の空気を変える最善の方法だというのは俺にも分かる。
正直、山に行くことにはまだ抵抗があった。
でも――
俺は親父からそっと視線を外す。
ほんの少しうつむけば、大地が不安そうな目で俺を見上げている。
そんな顔をさせたのは他ならぬ俺だ。
本当なら、まだ親に甘えていたい年頃だろう。
でも、それを必死に隠して明るくふるまって――
けなげな子どもにひとつぐらいご褒美を与えてもバチは当たらないかもしれない。
そう、俺がほんの少し我慢すればいいだけのこと――
「わかったよ」
俺は大地の頭にぽんと手を乗せた。
「きついこといって悪かった。参加できるかどうか分からないけど、とりあえず聞いてみるから」
「ぃやったーっ!」
家を突き抜けるような声をあげたのは他でもない大地だ。
さっきまで覆っていた曇りが消え、満面の笑みが広がっている。
こういうのを泣いたカラスが――とか、効果てきめん、っていうんだよなぁ。
喜ぶ甥っ子の横で苦笑しつつ、俺は携帯を開く。
リダイヤルボタンを押し、つい最近かけた相手へ折り返しの連絡を入れてみる。
すぐに出てくれるといいけど、どうだろうか。
さっきよりも長く呼び出し音が響く。まだ留守電に切り替わらない。
俺のそばでは大地が餌を待つ犬のごとく待っていた。
「まだ? まだ?」
「ちょ、引っ張るなって。これから聞くから静かにしてろ」
「ぜぇーーったい連れてけよ! よくても駄目でもぜったいだ!」
「わかった、わーかったから」
迫られ根負けした俺の耳元にもしもし、と彼女の柔らかい声が耳に届く。
「あ、樋本です。度々ごめんね。実は……」
俺は送ってくれた荷物の中にボランティア活動の案内が入っていたことを伝えた。
「チラシ……ですか?」
「その、甥っ子がこれ見て行きたいって騒いじゃってさ。これってこの間言ってた星座観賞会のことだよね? もう締め切っちゃった?」
「それは――確認してみないと分からないですけど」
少し待って下さい。
そう言われてからしばらくの間沈黙が入る。
沈黙が破られたのはそれから一分後のこと。
「あ、大丈夫ですか?」
綾さんから伝えられた答えに俺は思わず言葉を漏らす。
その瞬間、大地を震源に大きな地震が起きたのは言うまでもない。
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