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13

「その人」は無言で佇んでいた。
 広げた新聞紙がダイニングテーブルに垂直に立っている。
 気になる記事を見つけたのだろう、老眼鏡を指であげて、熱心に記事を呼んでいた。
「じじー、タケルが来た」 
 大地の声にこの家の主――俺の親父は新聞紙を傾けた。 
 一瞬だけ目が合う。増えた皺と白髪にまた、時の流れを感じてしまう。
「おじゃま、してます……」
 自分の家なのに、どうしてかよそよそしい挨拶になってしまう俺。
 一瞬床に目を落とし、なんとも言えない気持ちをのみこむ。
 この家の主は俺をあからさまに無視すると、低い声で大地に言った。
「じじが新聞読んでいるから、遊ぶなら奥の部屋にしなさい」
「はーい」
 厳格な祖父の前で、大地は礼儀正しい子になっている。
 大地もこういったのは雰囲気で悟っているのかもしれない。
 親父は俺には一瞥もくれず、再び新聞の続きを読み始めた。
 空気が重い。
 きっとこの場には威厳といった言葉がぴったりなのだろう。
 そんな親父の姿を見ていると、まだ昔堅気の人間は絶滅してないのだな、と思ってしまう。
 思いっきり時代遅れだけど。
 そんなことをぼんやりと思っていると、
「ちょっとー、自分で持ってきたなら台所まで持ってきなさいよぉ」
 と、おふくろが壊れかけの段ボールを抱えてきた。
 文句を言っても結局持って来るあたりがおふくろらしいというか何と言うか。
 俺は大地の手を離すと、壊れた段ボールを受け取った。
「床に置いちゃっていいのか?」
 一度確認してから俺は台所の床に段ボールを置く。 
 床に振動が伝わると、大地が地震だぁ、とおどけた。
 親父の反応はない。遠くで新聞紙がこすれる音が聞こえるだけだ。
 どうやら俺は親父にとって「あってないもの」と認定されているらしい……


「そういえばあんた、就職はどうなったの?」
 頬をひきつらせる俺をよそにしておふくろが近況を聞いてくる。
 こちらのおしゃべりは相変わらずだ。俺の肩が上下に跳ねた。
「その……まだ」
「しっかりしなさいよ。角に住んでる杉村さんの娘さん――あんたより一つ下の子は旅行会社に決まったって」
「俺だって必死にやってるって。けど時代が時代なんだよ」
「だからってひとっつも引っかからないってのはどういうことかしら?」
 痛いところを突かれ、俺は言葉を失った。
「『あの』お父さんだって新しい仕事見つけたのよ。駅の駐輪場整備だけど。まったく、どうしてそういう所は似ないのかしらねぇ」
 容赦ないおふくろの愚痴に俺の体が更に縮こまってしまう。
 ここに来る時、ある程度の文句は覚悟していた。
 だが、親父を引き合いに出されてしまったらどうしようもない。
 おふくろは更にコネの提案までしてきた。こうなったら良平さんの所で雇ってもらえば、と。
 良平さんというのは、大地の父――姉の旦那のことだ。
 ここから一駅離れたところで精密機械の部品を作っている。
 かつては親父も社員として働いていた町工場。
「あそこなら親族経営で気心知れてるし、そしたらこの家からも通えるでしょう?」
「ダメだ」


 すぐに別の方向から、厳しい声が飛んでくる。
 おふくろの暴走止めたのは親父だった。
 新聞を眺めている老眼鏡がきらりと光る。
「あの会社は社長たちが得意先何十件も回って、頭を下げて仕事もらっているんだ。経費と人を削って休みなしで働いて、それでようやく食べていける状態だ」
「でも、ひとりくらいは……ねぇ。一応親戚なんだし」
「嫁に出すならともかく、こんな中途半端な人間が入ったらあちらも迷惑だろう」
 親父は新聞を丁寧に折ると、俺をじろりと見る。
「働き口は自分で探させろ。何のための就職活動だ」
 意気揚々と俺をしかり飛ばすさま、言ってることはごもっともかもしれないが、人を見下したような口調ははっきり言って気に食わない。
 親父の癇癪は日を追うごとにひどさを増している。
 昔から職人肌なのは分かっていた。だが、俺に対する風当たりは相当なものだ。
 今日だって――
「用が済んだならとっとと帰れ。他にすることがあるだろうが」
 と、こんな調子。
 だから、実家に帰る時はあまり期待していない。
 俺が大学受験に失敗し一浪が決まった時は、金は出すからどこか適当な所を捜して住めとまで言う位。
 息子の将来より自分の生活を優先したいのだろう。
 本当、昔はこんな風じゃなかったのに。


 俺はなんとも言えない表情を浮かべた。
 そして今日も、この家のどこに居たらいいものか、ちょっとだけ悩む。
 すると椅子がガタリと音を立てた。
 親父はテーブルに引っかかっていた杖を取り、ゆっくり腰を浮かせている。
 すぐにおふくろが声をかけた。
「あら、どちらへ?」
「便所だ」
 親父の行き先を聞いたとたん、俺の体が反射的に動く。
 自然とそちらに手を伸ばしていた。
 だが、杖を持った親父と向かい合わせになって――俺はぎくりとする。
 目の前に移るのはシンプルな色のシャツに半ズボンというラフないでたち。
 だが、ズボンの右膝から下にあるべき足がない。あるべき場所にない、のだ。
 親父の足が欠けたのは他でもない。
 俺の――


「何だ?」
 久しぶりの光景にすくんでいると、親父に鋭い目でにらまれた。
 邪魔だ、と言わんばかりの主張。
 俺は差しのべようとした手を引っ込める。
 それを確認してから親父が杖を立た。体重の一部をそちらに傾ける。
 床がきしむ音とともに左足が一歩、前へ進む。前のめりに歩く姿。
 ぎこちない動きが心もとなくて、いらついて、こっちの背中がむずむずして仕方ない。
 でも、無理矢理でも父親を支えようとしない自分が一番もどかしい。
 六年前――初めてリードを任された登山で俺と親父は落石事故の現場に出くわした。
 親父は二次災害に遭った俺をかばい右足を失った。
 俺の判断ミスが最悪な結果を招いたのだ。
 あれ以来山には登っていない。今も事故のことを思い出すと、頭がくらりとする。
 消えてしまった部分から流れる血の色が、鉄の匂いが記憶から離れない。
 あの事件があってから俺も親父も変わった。
 親父にあの目をされる度に、この世の恨みを受けた気になって、図体だけが大きいこの体も固まってしまうのだ。
 不幸の記憶は今も俺と親父の間に大きな溝を生んでしまっている。


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