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「芳田さん」
コンビニの前でふいに、苗字を呼ばれる。
振り返らなくても誰なのか、声で分かった。
心臓のうずきとともに暗雲が広がっていく。それでも私は不自然にならないよう、ゆっくりそちらに向き直る。
「こんにちは」
私に挨拶してきたのは、ふたつ年の離れた先輩だった。
人のよさそうな顔。
短く刈り込んだ髪型に大学のロゴの入ったつなぎが違和感なく収まっている。
満面の笑みには私に対する好意があふれていた。
彼の存在は私の心を揺らす。
いつの間にか私は曖昧な笑顔を作って自分の気持ちをごまかしていた。
こんにちは、とそつのない挨拶を返し、自分の感情に壁を立てる。
「これから荷物送るの?」
「はい」
「じゃあ手伝うよ」
そう言って彼――興水(おきみず)さんは、段ボールを簡単に持ち上げる。私の返事を聞く間もなく、店の中へと入ってしまった。
手ぶらになった私は仕方なく、店の中へと入っていく。
興水さんは大学の先輩で、私の所属するボランティアサークルの発起人だ。
農学部に移って間もない頃、サークルに参加している同級生たちと飲みにいったことがある。
そこでお酒も飲めず、酔っ払いの会話について行けなかった私に気さくに話しかけてきたのが、興水さんだ。
それ以来、興水さんは学校で私を見つけるたびに声をかけてくれている。
「はい、伝票」
荷物をカウンターに乗せた興水さんは、店員から受け取った伝票を私に差し出した。
「早くしないと集荷の人が来ちゃうんだってさ」
「あ、はい」
「急げ急げ〜」
心なしか、興水さんは楽しそうだ。
勢いにのまれた私はあたふたと携帯を開き、住所を書き写す。
焦りのせいか、いつもより字がのたうち回ってしまった。
樋本さんの「健」を「建」と書いてしまい、私は愕然としてしまう。
わわ、何やってるんだか。
私は狭い隙間に「にんべん」をつけて訂正する。必要事項を書き終えると、興水さんが伝票をするりと抜き取った。
宛先が荷物に張り付けられ、宅配便の送料が伝えられる。都内なのでそこそこの値段に収まった。
私は代金を払った所で、そっとため息をついた。
唇を結んだままでいる興水さんをそっと見上げ、一応手伝ってくれたお礼を述べる。
「今日はレポートの提出か何かですか?」
「何が?」
「その、休み中なのに大学に来てたので」
「ああ……キャンプに使うテント干してたんだ。当日まで日があるけど、今のうちに干しておいた方がいいかなって思って。で、ひと段落ついて涼みにきたら芳田さんみつけた」
「そうですか」
なるほど、と私は納得する。
私たちのサークルは大学内でのゴミ拾い活動がほとんどだけど、年に一、二回、一般の人たちを交えてボランティアキャンプを行っている。
これは参加者に山歩きをしながら自然について学んでもらい、キャンプ場の清掃を手伝う事でエコに興味を持ってもらおうというものだ。
この企画は去年から始まったものだけど、一般の人たちとの交流はかなり盛り上がったらしい。
主催者側としてはかなり気合いの入るイベントなのだろう。
その企画の発起人はというと、私をまじまじと見ていた。
「芳田さんは今、帰りみたいだね」
「え?」
「着ている服が昨日と同じだから。そういや久々に友達と会ったんだよね?」
さりげない指摘に私の血の気がひく。
そういえば、昨日もこの人と顔を合わせていたんだっけ。
映画を一緒に見たあと、本当は食事に誘われていたのだけど、芽衣子を盾に断っていた。
今思えば、あの断り方は唐突で不自然すぎたかもしれない。
「普段、なかなか会えない友達だって聞いたけど。楽しかった?」
「えっと……あの、せっかくのお誘い断ってしまって――すみません」
「こっちこそ色々気を使わせちゃったみたいでごめんね。あいつら、俺が芳田さんにふられたこと知らなくてさ。勝手に盛り上がっちゃったみたいなんだよねぇ」
そう言って興水さんは肩を上下させる。
興水さんの言うあいつら、というのは同じサークルの同級生や先輩たちのことだ。
彼らは昨日、私を映画に誘ったにも関わらず、急用が入っただ何だと理由をつけて予定をすっぽかさしたのである。
古典的な罠だと知ったのは、興水さんが映画館に現れた時だ。
チケットは事前に買っておいての指示があったのは、どう見ても策略としか思えない。
「まぁ、俺は芳田さんと映画見れて嬉しかったけどさ」
さらりと流れた言葉は、私にとって重すぎるものだった。
含みのない本心は彼の願望だったのかもしれない。
「まぁ、アレだ。芳田さんが気にすることないって。勝手に好きになったのは俺のほうなわけだし」
あいつらの誤解も解いておくから、と興水さんが続けたので、たまらず私は口を開いた。
「あの。そのこと、なんですけど……」
「ん?」
「その……興水さんがそこまで説明する必要、ないかと思います」
こういった類は噂の真偽に構わず、騒ぎたてられるのがオチだ。
興水さんが矢面に立たされるとなると、こっちの気分も良くない。
そう、興水さんは何も悪くない。彼は私に好意を持ってくれただけ。
言及すべきは告白した本人ではなく、その想いを無駄にした私の方だろう。
今は誰ともつきあう気がない。その意志を崩すつもりもない。
言ったのは他ならぬ自分だ。
でも――
「やさしいね、芳田さんは。惚れ直しちゃうよ」
そういった開き直りとも、冗談ともとれる言葉が私の心にヒビを入れているのも事実だ。
私に罪悪感がのしかかる。想いに応えられないのは明らかなのに、彼を無下にできない自分が恨めしい。
きっとどちらかが一線を引くか、離れるかしないと何も変わらないのだろう。
でも、それを解決する術が――勇気が今の私にはない。
このままコンビニに引き止められるのかと思ったが、それは杞憂だった。
興水さんはコピー機を使う用があるらしい。また来週ね、とだけ言うと手をひらひらとさせた。
私は改めて荷物のお礼を述べて、コンビニをあとにする。
外に出ると、生温かい風が私の髪をいたずらに揺らした。
自然と重いため息が広がる。
それは緊張から抜けたことへの安堵ともいえた。
農学部に移ってから半年。
自分の知らない世界を学ぶのは楽しい。サークルの活動もやりがいがある。
大学の仲間も、サークルの人たちも良くしてくれて、私はとても恵まれた環境にいるのだと思う。
その優しさは時に私を苦しめていた。
特別な「想い」は私の心に暗い影を落としていく。相手から伝わる期待にどう答えたらいいのか分からない。
いっそのこと棄てられたら、どんなに楽だろう。
「想い」に優劣がなかったら、どんなに幸せだったことだろう。
好きな人から逃げた私、親友と距離を置いた私。
それを選んだことに後悔はしていない。
ただひとつ言えるのは――今度本心を打ち明けたら、私は今ある場所を完全に失うということだ。
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