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突如俺たちの前に伸びるふたつの手。
手首を掴まれた俺と綾さんは思わず顔を見合わせてしまった。
掴んだのは他でもない、芽衣子だ。
「あやだけじゃイヤ! ひもとっちもいっしょにいるの。あやとひもとっち、ふたりいっしょじゃないとイヤなの!」
「嫌、って」
だだをこねる芽衣子に俺たちは困惑する。
「そんな……子どもじゃないんだからさ」
俺は愚痴にも近い言葉をこぼすと、芽衣子に掴まれた手を先に払う。
「そういうわがままは東吾にだけ言えって。じゃ、俺は帰るから」
「イヤっ!」
芽衣子が俺の右足首を抱えこんだ。
そのまま自分の胸元に引き寄せようとする。
俺はペットボトルを持ったまま芽衣子に背中を向けていて、丁度左足を宙に浮かせていた所で――
支えとなる足をすくわれたこっちは、たまったもんじゃない。
俺の体が前に傾くと、ごん、とにぶい音が広がる。
両手がふさがっていたせいで、顔面をフローリングに思いっきり打ちつけてしまった。
脳内に輝く星たち。手放した空のペットボトルが木目を転がっていく……
「ってえっー。あんた、なんっつーひどいことすんだよ!」
俺は思わず怒鳴ってしまう。
でも、振り返った先にいるのはうつぶせになった女性がひとり。
一方の手は俺の作務衣を掴んだまま、もう一方の手は綾さんのワンピースの裾を握ったまま。
うふふふうう、なんて、変な笑いまで飛ばしている。
だめだ。この女、完全に落ちてやがる……
床に這いつくばった俺はゆっくりと起き上がった。
にじみ出た涙を指で払い、支えとなる壁なりテーブルを手探りで当てる。
その途中、つるつるした丸いものにたどりついた。
触れた瞬間、かちりという音が耳をかすめるが――今は痛みの方がひどくて、それどころじゃない。
「あの、大丈夫ですか?」
目的をようやく果たすと、同じように捕らわれた綾さんが俺を心配そうに見つめていた。
「何だか顔、すごい赤くなってるんですけど」
はっきり言って、かなり痛いです。
思わず言いたくなるけれど、こういう時の男はどうしてか強がりになってしまうらしい。
「血ぃ出てないし、とりあえず大丈夫」
「本当に?」
「本当ホント。それよりも綾さんは、泊ってくの?」
「私は――」
綾さんは間延びした声をあげる。
掴まれた自分の服と、芽衣子を交互に見つめた後で、諦めたような微笑みを浮かべだ。
「終電もなくなっちゃったんで、明日、芽衣子が起きたら帰ります。樋本さんは?」
「俺のアパートは歩いていける距離だから。この足が自由になったら帰るよ」
果たして日が昇るまで帰れるかどうかが問題だけど。
俺は赤くなった鼻をそっとさすった。
「今日はメイさんにつきあって疲れたでしょう? もし何だったら休んでて。俺も適当に休んでるから」
やがて、静けさが襲う。
六畳ばかりの部屋にはわがまま姫のせいでここに足止めをくらった俺と綾さんがいた。
会話は俺が一歩引いたことで途切れている。
ただ、綾さんに警戒心を与えるのも何だったので、蛍光灯の灯りはそのままにしておいた。
芽衣子にかけた布団を直したあとで、俺は自分の服を引っ張ってみるが――なかなかほどけそうにない。
一方、綾さんは自分に一番近い壁に寄りかかっていた。
天井に向かってあくびをしたあとで、首をかしげている。
ぼんやりと遠くをみつめる瞳はまどろみの世界に入る一歩手前。
思えば、今日がはじめての酒だったわけだし、芽衣子の件で今の今まで気を張り詰めていたのだ。
そろそろ疲れがでてきてもおかしくない。
俺は俺で、仕事の疲れがどっと押し寄せていた。
加えて起きた災難。
顔全体に広がっていた痛みだったが、今は中心の深い所をつついている。
嗚呼、鼻血とか出なければいいな――
俺はそう思いながらひとつため息をついた。
湿度が充満した空間で、扇風機の羽根が左右に旋回している。
生ぬるい風にあたり、少しだけ冷静になった所で、自分の行動をふと思い出した。
そういえば、さっき変な所のスイッチ押したような……
ああ、これか。
俺はテーブルの横にあった卵型の機械に手を伸ばした。
手探りであてたスイッチを切ろうとするが――
「待って!」
鬼気迫る勢いに俺の動きが止まった。
あさっての方向を向いていた綾さんが突然叫んだのだ。
綾さんが芽衣子の手をくっつけたまま立ち上がる。
天井にぶら下がっている照明のスイッチを切ってしまった。
意味不明な行動に慌てたのは俺の方だ。
いきなり照明を落とすって――まさか。
一瞬、俺の脳裏によからぬ思いもよぎってしまったけど、それは次の瞬間破られる。
暗転後に部屋を横切る白い帯。
小さな機械から離れたのは幾億もの光の粒だった。
それらは、あっという間に俺たちを超える。
天井に広がるのは星の調べ。
本物の空と違うのは星自体が小さいこと、星どうしを結ぶ線が入っていることだ。
これ――プラネタリウムか?
「やっぱり」
綾さんは納得したような声を上げる。
「この間、おもちゃ屋で似たようなのを見たんです」
「へえ……こういう家庭用のってあるんだ」
「お風呂に浮かべるタイプもありましたよ」
ぼんやりとした光の中で、綾さんは静かに微笑む。
俺たちはしばしの間、天井に浮かぶ星を眺めていた。
景色に乗じて口数も自然と少なくなっていくのだが――
「私、ボランティアで、クリーン活動しているんですけど」
ぽつり、綾さんが言う。
「今度、山そうじすることになって、そこで子ども向けの星空観賞会をすることになったんです」
「そうなんだ」
「それで、私が星座の説明担当になったんですけど……私が覚えているのって、オリオン座と北斗七星くらいなんですよね。あとはほとんど忘れちゃっていて――勉強しなおさなきゃいけないんです」
「なるほど。だから『待って』だったのか」
「はい」
恥ずかしそうな口ぶりの綾さんに俺は目を細める。
「すみません。急に大きな声だしちゃって」
「すっげえびっくりした。いきなり電気消したから、てっきり――」
「てっきり?」
「ああ、いや……」
俺が襲われるのかと思いました――とはさすがに言えない。
たぶん、そういう冗談は彼女に効かないのだろう。
彼女の澄んだ目を見ていたらそんな気がしたので、俺はこの先の言葉を闇に葬ることにした。
とにもかくも。
俺にとっては痛い災難だったけど、綾さんにとっては思ってもいないチャンスだったらしい。
これこそ転んでもただでは起きない、ってことだろうか?
せっかくなので、俺は体を仰向けにして、天井を見上げることにした。
芽衣子の腕をひねらないよう、注意しながら横になる。
やがて、綾さんも俺と同じように寝転がった。
芽衣子を挟んで、川の字に並んだ所で、小さな観賞会が始まる。
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