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俺は芽衣子を背負うと、宴会の席をあとにした。
「この客、俺の知り合いなんで、このまま送ってきます」
そう断りを入れ、タイムカードを他のスタッフにお願いしてから店を出る。
もちろん作務衣のまま、自分の荷物は――後回しだ。仕方ない。
店を出た俺たちは早速タクシーをつかまえる。
芽衣子を中心に挟むような形で後部座席に乗りこんだ。
行き先を伝え、なるべく早く走ってもらうようお願いする。
だが、最後の一言が余計だと気づいたのは車が動いてからだ。
走る車体は交差点を曲がる度に右へ左へと揺れ、ブレーキがかかれば前後にブレる始末。
タクシーの運転はかなり荒く、芽衣子は気持ち悪い、の言葉を連呼していた。
俺たちは芽衣子をなだめつつ、眉間に皺を寄せる運転手に愛想笑いでごまかしつつ、その場をしのぐ。
東吾と芽衣子が住んでいる場所はタクシーで初乗りの区間にあった。
築三〇年はするだろう五階建てのマンション。
俺が通っている大学にほど近い場所だ。
古くて駅からかなり離れていたから、二人で折半して住むことができたのだと東吾は言っている。
でも女性一人抱えて階段を昇るのはかなりの労力だって、奴は気づいているのだろうか?
俺は芽衣子をおんぶすると、三階ぶんを気合いと勢いだけで登りきった。
慌てて部屋の鍵を持った綾さんがふらつく足で追いかけ、錠を解く。
扉を開けたとたん、広がるのはむっとした空気。
僅かに残る煙草の匂いは、東吾が台所で煙草を吸ったからだろう。
芽衣子は東吾の喫煙にあまりいい顔はしていないらしいけど。
まあ、そんなことはどうでもいい。
俺は靴を脱ぎ捨てると、芽衣子をおぶったままユニットバスに直行した。
浴槽をイス代わりにして芽衣子をおろし、綾さんに託す。
俺だけ部屋を出ると、すぐに流水音が走った。
その中にうめき声もあったのだけど、それは聞かないでおくことにしておく。
芽衣子と綾さんが籠っている間、俺は寝床の用意をすることにした。
扇風機をかけ、エアコンのない部屋の気温を少しでも下げようとする。
この家には何度か訪れたことがあった。
部屋を涼しげにしようとしたのだろう、部屋は全てブルーのファブリックで統一されている。
二間続きの洋室は、普段から解放されていた。
角のサイドボードには小さな観葉植物と、ビーチグラスのオブジェ。
小さなテーブルの横は雑貨が無造作に置かれているが、散らかっているほどではない。
そういえば、部屋を広く使いたいからベッドは置いていないと聞いた気がする。
つまり押し入れを開ければ――
「ビンゴ」
俺はひとり笑みをこぼしながら布団を風呂場に近い手前の部屋に敷いた。
やがて、開かずの扉が開く。
出てきたのは顔を青くした綾さんだ。
右手で口元を押さえる姿、反対の手は胸元を押さえている。
「もしかして、もらい酔いした?」
「ちょっとだけ……」
「吐きそう?」
その問いに綾さんはかぶりを振った。
「それは――なんとか。でも、あの場にいられなくて……」
俺は芽衣子がいる部屋をちらりと見やった。
そのあとで、台所へまっすぐ向かう。
冷蔵庫を開ければ、事前に作ったらしき、冷やし中華があった。
俺はその隣にあった五〇〇ミリペットボトルを取って、綾さんに渡す。
「少しでも水分取った方がいい。辛いなら横になって」
「でも」
「無理するなって。少し休んだ方がいい」
そう俺は静かに諭してみるけど、綾さんはそれをやんわりと断った。
「私がしっかりしないと……芽衣子に何かあったら、東吾さんに怒られちゃう」
「そんなこと気にしなくていいって。もともとはあいつの自業自得で」
「でも――私」
「人のことより自分の心配しろよ!」
否定ばかりを繰り返すから、思わず語気が強くなってしまった。
人に尽くそうとする綾さんはとても健気だ。
弱っている芽衣子の為に頑張っているのは分かる。
分かるけど――そのために自分が頑張りすぎるのは何か違うような気がする。
しばらくの沈黙のあと、ごめんなさい、と綾さんの弱々しい声が耳に届いた。
「その――私じゃ不安なんですよね」
「ああ、いや。俺もきつく言っちゃって……ごめん」
「でも、やっぱり私しかできないと思うんです」
「え」
「だって、樋本さんは芽衣子の着替え、できないでしょう?」
困ったような顔で見上げる綾さんに、俺は口をぱくぱくとさせた。
言い返そうと思った言葉が宙に浮く。
ぐるぐる廻るのは綾さんの言葉通りに動いている自分。
そのうち東吾の影がちらついて――滅茶苦茶にボコられる姿。
「悪い、それだけは無理だ」
俺は白旗を上げるしかなかった。
やがて、誰かを呼ぶ声が扉から漏れてくる。
呼んでいるのは他でもない、ここに住んでいる女性だ。
「綾さん」
俺はペットボトルを彼女に託した。
これだけは約束して、と続ける。
「無理だけは絶対しないこと。辛くなったり何かあった時は、すぐに俺を呼んで」
綾さんは大きくうなずくと、水と着替えを持ってお風呂場に戻っていった。
彼女に芽衣子を任せるのに申し訳なさがあったけど、この先、俺は彼女を見守ってあげることしかできない。
俺の後ろで、扇風機が気のない音を立てている。
小さな部屋から流れる水音はまだ止まらない。
東吾も家に帰ってくる気配すらない――
結局、二人がユニットバスから出てきたのは、日付が変わってからのことだった。
出すものを出したせいか、大酔っ払いの方はぐったりとしている。
ただ、そばにいる綾さんの足取りがしっかりとしていたので俺はちょっとだけほっとした。
部屋着に着替えされられた芽衣子が俺の敷いた布団の上に座る。
「お水、少し飲む?」
「んー」
芽衣子がボトルを抱えながら水を喉に流していく。
その隣にはこぼれた数滴を拭く綾さんの姿――ここまでくると介抱というよりは、介護にしか思えない。
「落ち着いた?」
残った水がほとんど吸収された所で、芽衣子はこくりとうなずく。
ペットボトルを綾さんに託して、目をしょぼしょぼとさせた。
「……ねむい」
「そう。じゃあ、ゆっくり眠って」
綾さんの優しい言葉に促されるように芽衣子が横になる。
緩やかな動きでタオルケットの中へもぐりこんでいった。
「あやぁ」
「ん?」
「いっしょにいて」
「……わかった」
向けられた微笑みに安心したのか、芽衣子が一呼吸置いた。
今度こそ、深い眠りに入りそうだ。
「体調はどう?」
ひととおりの作業が落ち着いたところで、俺は綾さんに尋ねた。
「気持ち悪いの、治った?」
「はい。さっきよりかはだいぶ楽になりました」
「そっか……いろいろ大変だったね」
俺が労をねぎらうと綾さんはいいえ、とかぶりをふった。
「あの、すみませんというか……ありがとうございました。何てお礼いったらいいか」
「気にしないで。こういうのはバイトで慣れているからさ」
そう言って俺は綾さんに手を差し伸べた。
「じゃ、俺、これ片付けたら帰るよ」
「え」
「このままいても役に立たなさそうだし」
「そんなことないですよ。私ひとりだったら何もできなかったと思います。それに――」
言いかけ、綾さんは言葉を止めた。
俺とまともに目が合っていたことに気付いたのか、ふっと目を泳がせる。
「その……ありがとうございます」
その慌てたような仕草は可愛らしい。
「東吾には思いっきり文句言ってやれ。俺の分まで言っちゃっていいから」
「はい」
俺の前に綾さんの柔らかい微笑みが広がる。
だが、どういうわけか綾さんは自分の手を差し出してきた。
ぎゅっと手を握られたので、俺は一瞬どきっとする。
「ええと。握手というか、その空ボトルが欲しいんだけど」
「え……あ、すいませんっ」
今度こそ、空のペットボトルが差し出された。
目の前にあるのは顔を真っ赤にした姿の綾さん。
何だか微笑ましくて、受け取った俺は緩んだ顔のまま立ち上がるけど――
「かえらないで!」
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