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居酒屋の厨房は戦場と化していた。
カウンターの一角では、端末から送られたオーダーが次々に印字されていく。
壁伝いにつたわるのは、呼び出しのコール。
飲み物が来るのがちょっとでも遅くても催促がやってくる。
客の酒が回れば無理な注文や笑えないジョークの相手もしなくてはならない。
ホールスタッフはそれをうまくやりとりしながら注文と配膳を繰り返していくのだ。
この店では基本、ホールスタッフが飲み物を作ることになっている。
俺は、ビールサーバーで中生を注いでいた。
泡を作るタイミングを計りながら、それにしても、と思う。
芽衣子の人脈の広さには毎回驚いているが、今日は俺が合コンで紹介されるような女友達とはちょっと違った。
彼女――綾さんはとても大人しそうな感じだ。
美人とまではいかないけれど、素朴で、笑った顔は可愛いかもしれない。
彼女の温かさにいつも癒されているのか、芽衣子は綾は大事な友達、とまで言っていた。
それだけに、自分のした失態が悔やまれる。
初対面の人間をガン見してしまったなんて。
ホント、変な奴だと思われなければいいのだけど。
俺はこっそりため息をつく。
さっきも通路で彼女とすれ違った。
あの時は、自分のしたことが恥ずかしくなって、思わず笑ってごまかしてしまったけど。
でも――あの時、彼女から目が離せなかったのは仕方ないのだ。
人の話を聞くときのひたむきさ、メニューを選ぶ時の眼差し。
言動ひとつひとつが、俺の想像を膨らませる。
彼女をじっと見つめてしまったのは、真剣に悩んでいる姿が俺の聞いた持ち主の人物像と重なったからだ。
もしかしたら「これ」を買ったのはきっと、彼女のような女性だったのかも――と。
俺は前掛けのポケットに手を突っ込んだ。
隠していた時計を取り出し、時刻を確認する。
時刻は十一時少し前。
シルバーの腕時計には傷ひとつついていない。
つけないよう――大切に使っている。
去年のクリスマス、俺はこれを拾った。
クリスマスツリーの下に置いてあったプレゼントの数々。
その中でひときわ目をひいた箱の存在は、俺が拾ってくれるのを待っているかのように見えた。
最初はサンタからの贈り物か、なんて子供じみたことを考えてみたけど、箱の中から出てきたのは男物の腕時計だ。
シンプルで品の良さをうかがわせる雰囲気、どうみても特定の人間へのプレゼントとしか思えない。
なので、時計も一度は警察に届けられたのだが、結局持ち主が見つからなくて、俺の元へ返されたのである。
その時、俺は時計の保証書から購入店を当たっていた。
当時接客していた店員の話によると、この時計を買ったのは二十歳前後の若い女性だったという。
ショーケースにはりついて、かなり長い時間をかけて時計を選んでいたらしい。
持ち主は恋人のために買ったのだと言ったそうだ。
でも、本来そこに渡るべきはずだった時計は、どういうわけか俺の手元。
それがどういう意味なのか――俺も一度は考えてみたけど、あまりいい話じゃないような気がして、深く追求することはなかった。
もちろん、俺も最初はこれを使うつもりはなかった。
もともと他の男の為に買ったもの、確率はかなり低いが――持ち主が現れるのではないかという可能性も考えていた。
でも俺の就職活動が始まって、最初の面接の日。
使っていた腕時計が止まってしまい、やむなく拾った時計を使うことになってしまった。
そしたらどうだ。
時計のベルトは俺の腕にしっくりと収まって違和感もないし、文字盤も見やすいではないか。
はっきり言えばかなり気に入っていて――俺の敗北は決定的なものになってしまった。
それ以降俺はずるずるとこれを使い続けてしまっている。
「樋本ぉ。それ持っていったら上がっていいから」
「了解でーす」
チーフのお許しが出た所で、俺は準備した酒を席に運んだ。
人生論を語りだしたサラリーマンの席にビールを置き、追加注文を端末に入れて、そそくさと戻っていく。
途中、スタッフを呼ぶコールが流れるが、この場合はチーフの指示が優先。
客への対応は他の奴に任せることにする――はずだったのだけど。
通りがかった客席の様子が目に入る。
綾さんがあまりにも真っ青な顔をしていたものだから、俺はうっかり立ち止まってしまった。
格子戸を開け、声をかける。
「どうかしましたか?」
仕事用の口調でそれとなく聞いてみると、綾さんの体が揺れた。
俺の顔を見たことで、カチカチだった肩が少しだけ下がっていく。
「あの、芽衣子が動かなくなっちゃって……」
俺は綾さんの視線を追いかけ、首を九十度横に傾ける。
すると、掘りこたつに足をつっこんだまま、横になっている芽衣子の姿があった。
「返事はするんですけど、それだけで――」
「ちょっといい?」
俺は芽衣子の軽く肩をゆすってみた。
「おい、大丈夫か?」
「めーさん……よっぱ、ちゃいましたー」
俺の言葉に芽衣子がろれつの回らない声を返してくる。
ななめに挙げた手は三秒ももたないうちにぱたりと倒れてしまう。
確かに、返事はするが動く気配はない。
とはいえ、俺はさほど驚かず、むしろ興味深く覗いてしまった。
芽衣子が潰れること自体が珍しかったからだ。
俺の知る限り、芽衣子は酒に強いはずなのだが――
「げ」
何気にオーダーを確認した俺は思わず声をあげた。
いつもは大人数で来ていたから酒の数をあまり気にしてなかったけど、中生ジョッキの注文がゆうに二桁を超えている。
来店してから三時間強、ひとりでこのビールの量は多すぎるだろ。
どんだけ飲んでいるんだ、この人は。
「ええと、綾さん、でしたよね」
俺は綾さんに向き直った。
「東吾に連絡取ってもらえる?」
「え?」
「彼女、このままだとやばいでしょ? 彼氏に迎えに来てもらうから」
「……あ、ああ、そうですね」
少し間をおいてからの返事がちょっと頼りなかったけど、綾さんはすぐに行動に移った。
手持ちの籠バックから自分の携帯を取り出す。
だが、その手が一旦止まった。
出したばかりの携帯をしまうと、部屋の隅に置いてあったもう一つのバッグに手を伸ばす。
「芽衣子、携帯借りるよ」
電話をかけている間、俺は芽衣子の様子に変化がないか見守っていた。
今のところ本人に酔っている自覚もある、体温も急激に下がっている様子はない。
急性アルコール中毒の可能性は薄いようだ。
ただ、不思議だった。
芽衣子がここまで酔うような理由は何だろう。
まあ、俺の中で思うところはいくつかあったが、それは今口にすべきことではない。
それは、あとで東吾に聞けばいいこと――
「えっ」
ふと、俺の頭上を声が突き抜けた。
見上げれば、綾さんが携帯電話を持ったまま固まっている。
「どうした?」
「その、電話が繋がらなくて」
「話し中?」
「それが……」
うろたえる綾さんに俺は首をかしげた。
差し出された携帯を耳にあてる。
すると――
――おかけになった電話番号は現在使われておりません。おかけになった電話番号は……
「おいおいおい」
俺は声をあげてしまった。
「冗談だろ? 何で電話つながらないんだよ」
もしかしたら番号を間違えてるのか?
俺は発信の履歴をたどってみるが、電話番号は自分が覚えている数字と一致した。
もう一度リダイヤルしてみるが、事務的な声しか返ってこない。
「おいメイさん。こりゃどういうことだ? 東吾の奴、番号変えたのか?」
「しらなーい。とーごにきいれー」
「だから東吾はここにいないんだって」
「じゃあわかんなー」
そう言って芽衣子は綾さんに寄りかかってしまった。
「めーさんにおむかえはないのー。だからあやといっしょにかえるのー」
「芽衣子……」
こりゃだめだ。
俺が、はあ、とため息をつく。
すると、ごめんなさい、と綾さんがあやまってきた。
「仕事中なのに引きとめてしまって……あの、もう大丈夫です。落ち着いたら、私が芽衣子を家まで送りますから」
「マンションの場所、分かる?」
「まだ行ったことがないけど……大丈夫。住所は知ってるし、タクシーで行けば……はい、大丈夫です」
そう言って綾さんは無理やり笑顔を作っていた。
だが、俺は彼女の顔の火照りがさっきから気になって仕方ない。
おそらく芽衣子ほど飲んでいないのだろう。
けど――
「綾さん」
「はい?」
「先に会計済ませてもらっていい? その間にタクシー呼んでおくから」
「あ、分かりました」
俺のお願いに、綾さんがバッグを持って立ち上がった。
歩きだすも、体が必要以上に左右に揺れている。
一歩が心もとないのは承知の上。
すると、個室と通路の境目、小さな段差の手前で綾さんの右ひざがかくりと折れた。
俺は彼女の腕をとっさに掴む。
膝が床につく前に腰に手を回し、すくいあげるように抱きとめる。
「あ、ありがとうございます……」
「どういたしまして」
俺は表面上だけの笑顔を浮かべた。
このバイトを始めて分かったことがある。
酔っ払い方は人それぞれだが、同じ言葉を連呼するようになると、人間の行動は普段より遅くなったり注意力散漫になったりする。
きょう初めて酒を口にした彼女だって、いつ落ちてもおかしくない。
俺はポケットに隠していた腕時計を確認した。
時刻は十一時をすでに超えている。
チーフからは上がってもいいとの指示もある。
「俺も一緒にいくよ」
「え」
「仕事これで上がりなんだ。この人の部屋三階だし。あのマンションにエレベータないし――つうか、酔っ払いを酔っ払いが運ぶってこと自体無理」
二人とも階段から足をふみはずした、なんて話になったら本当、洒落にならない。
綾さんにしてみればいいもらい事故だし、芽衣子に至っては東吾にぶちのめされそうだ。
目の届く所にいて何もできなかったなんて――そんな後悔、二度としたくない。
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