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 どのくらい芽衣子と喋っていたのかはわからない。
 気がつけば、向かいの席に座っていたサラリーマンがいなくなっていた。
 いつの間に? と思いつつ私はやっとたどりついたカシスオレンジをちびちびと飲む。
 樋本さんの答えと一致したそれはちょっと甘かったけど、初心者の私にはちょうど良い口当たりだ。
 さっきから体がぽかぽかしてきている。
 自分の声がいつもよりも大きめに頭に響くのは、やはり酔っ払っているのだろうか。
 だとしたら、少しだけ嬉しくて、くすぐったい。
 芽衣子はというと、我が道を貫くかのごとく、ビールを頼んでは体の中にとりこんでいる。
 それでも、飲みのペースははじめの頃よりだいぶ落ちていた。

 
「本当、綾は綺麗になったよねー」
 もう何度その言葉を聞いただろう。
 話の合間に埋められるのは私への賛辞。
 可愛くなった、と言っては芽衣子が私の髪をくしゃりする。
 なでられている私は、愛でられた犬か猫な気分だ。
「もうねー、お持ち帰りしたいくらいなの。今日は家に泊って。語りつくそーよっ」
 私は口元を歪ませた。
 そこまで連呼されてしまうと嬉しいより恥ずかしいというか……ちょっとだけ疑ってしまいそうだ。
 芽衣子が人をここまで褒めたおすのもなかなかない。
 ついでにいうなら、今までならどんなに飲んでも、理性を崩すことはなかった。
 私のいないうちにお酒の飲み方でも変ったのだろうか?
 とりあえず、私は連呼する芽衣子を落ち着けてみる。
「気持ちはわかったから。もう褒めなくていいってば」
「だーって、本当のことだもん」
 ジョッキの側面をほおに滑らせながら、芽衣子は目を細める。
「今話していてても違うし。前はどこかおどおどしてたけど、今は落ち着いているっていうか――心の余裕みたいなのを感じるんだあ……」
「余裕なんて全然ないって」
 芽衣子が今そう思うのは、お酒のせいじゃないのだろうか。
 久々に会ったから、三割増しくらいに良くみえているだけだ。
 二杯目のカシスオレンジを口に含み、ぼおっとした頭で私は思うけど――
「好きな人でもできた?」
 ふいの問いかけに私はカシスを吹きそうになった。
 酔いが急に醒めてくる。
「な、何を急に」
「なんとなーく。今の綾ならそういう話が出てきてもおかしくないかなーって」
 そう、うっとりとした目で芽衣子はぼやくけど。
 私は言葉に詰まってしまった。
 心臓がどくん、と波打つ。
 新しい環境にとびこんで初めての夏。
 積極的でもない私だけど、それなりの協調性をもって接してきた。
 正直、そういった話がなかったわけじゃない。
 でも――


「好きな人なんていないよ」
 グラスを両手で抱えながら、私は否定した。
「その……今は勉強追いつくのでいっぱいいっぱいだし。恋愛とか、そういうの考えることができないな」
 私は言葉をたどたどしく紡いでいく。
 不自然にならないよう、言葉を選んで。
 ついさっき飲み物を口にしたばかりなのに、すぐに喉が乾いてくる。
 私は芽衣子がこれ以上つっこんでこないことをひたすら願った。
 その手の話を今は――したくない。


 私の願いが届いたのだろうか。
 しばらくの沈黙のあとで、芽衣子はそっか、とつぶやいた。
 今度はテーブルにほおを寄せながら。
「まぁ、そういう時期ってあるよねー。私ら恋愛だけに人生捧げてるわけじゃないし……うん、夢中になるものがあるのはいいことだ」
「そう、だよね」
「でも好きな人ができたら教えてね。メイさんはいつでも相談にのるし協力するよ」
 にっこりと笑う芽衣子に私は愛想笑いで返した。
 グラスに口をつけると、舌に甘さが広がる。
 喉に詰まったものが液体ごと流れていく。
 でも、体に残る違和感は抜けそうにない。
「化粧室いってくるね」
 ちょうど話が途切れたので私は席を立った。
 小さな刺を胸に抱えたまま、部屋を抜けて、通路を歩く。
 化粧室で汗ばんだ手を丁寧に洗った。
 シンクの中へため息がひとつこぼれていく。
 向かい側にいるのは鏡に映されたもう一人の自分だ。
『向こうで好きな人でもできた?』
 芽衣子が投げかけた質問をもう一度自分に問いかけてみる。
 私は心の中で答えた。
 ううん、好きな人はいない。
 きっと――


 私は芽衣子に嘘をついている。
 学部変更をしたのは自分の興味がそっちに移ったからじゃない。
 あれは芽衣子から逃げるためについた嘘。
 私が芽衣子の彼氏を――東吾さんを好きになってしまったから。
 私は自分の想いを断ち切るために、二人から離れたのだ。


 きっかけは去年の今頃。
 東吾さんが私の相談に乗ってくれたことがはじまりだった。
 あの頃の私は自分に自信がなくて、将来にも希望が持てなくて、途方に暮れていた。
 そんな私の不安を全て受け止めて、一緒に考えてくれたのが東吾さんだ。
 もちろん、私も友達の彼氏を好きになることは絶対ないと思っていた。
 男の人とつき合ったことがないから、そういったことに免疫がないだけ。
 過剰に気にしてしまうのは自分が引っ込み思案だから。
 そう自分に言い聞かせていたのに――
 東吾さんの優しさが嬉しくて、いつの間にか愛おしい気持ちが膨らんでいた。
 恋心と同時に芽衣子を恨む心も大きくなっていった。
 止まらない想い、妬みと罪悪感、そして自己嫌悪。
 私の心はすでに壊れかけていた。
 今思えば、私は全てを吐き出して楽になりたかっただけなのかもしれない。


 その年のクリスマス、私は東吾さんが好みそうな服をまとい、彼のバイトが終わるのを待っていた。
 コートのポケットに小さなプレゼントをしのばせて。
 東吾さんが現れるまで、私は告白する自分と彼の驚く顔を脳裏に描き続けていた。
 計画通り、偶然を装って会うことができたのに――
 東吾さんは芽衣子へのクリスマスプレゼントを用意していたのだ。
『前に、メイがいいなって言ってたモノなんだ。でもなかなか見つからなくて……店、何件もハシゴしちゃったよ。男一人で恥ずかしいったら』
 あの時芽衣子と同じリングをつけてはにかむ彼は、今までで一番幸せな顔をしていた。
 それは大切な彼女を思う表情。
 結局、私は東吾さんに気持ちを伝えることができなかった。
 迷って、やっと決めたプレゼントすら渡すことができなかった。
 直前に見せつけられた二人の絆に打ちのめされた私。
 弱くて、壊す勇気も出せなかった私。
 でも、これで良かったのだと思う。
 最後の一歩を踏み出さなかったことで、今も芽衣子の前で笑うことができるのだから。
 今、芽衣子から東吾さんのことを聞いても普通でいられた。
 二人の仲を応援するような言葉も自然に出てきた。
 まだ後ろめたい気持ちは残っているけど、それも時が解決してくれるのだろう。
 もう過去を引きずることはしない。
 昔の想いをわざわざ伝える必要はない――


「もう大丈夫」
 私は向かい側の自分へそっと言い聞かせた。


 化粧室の扉を抜けると、頬のほてりが戻ってくる。
 それは酒ゆえなのか店の雰囲気のせいなのか。
 一瞬くらりとしたけれど、私は踵でかろうじて堪えた。
 時間差で瞼が重くなる。
 耳を澄ませば客の騒ぐ声がいくぶん和らいできた気がした。
 今何時だろう。
 私は手元の時計を確認して――うわ、と声をあげてしまった。
 時計の針はあと少しで十一時をさそうとしている。
 まだ三十分くらいだと思っていたのに。
 積もる話というのはこんなにも時間を潰すものなのだろうか。
 私はこっそり苦笑してしまった。
 今は夏休み。収穫がひと段落したから学校に行く用はない。
 けど、できれば日が高くならないうちに畑の様子を見ておきたかった。
 それにボランティアで使う資料も探さなければならない。
 楽しい時間を終わらせるのは惜しいけど、そろそろお開きにしなければ。
 私は文字盤にそっと触れる。
 意味なく腕時計を回したあとで、そういえばと思う。
 去年のクリスマス、あの日渡せなかったプレゼント。
 持っているのが辛くて、クリスマスツリーの下に置いてきてしまった。
 東吾さんのために買った腕時計はあれからどうなったのだろう――


 ふと湧いた疑問でぼんやりとしていると、人の気配を感じた。
 陶器がこすれ合う音、空いた皿を抱えた店員がこちらに向かってくる。
 樋本さんだった。
 お互いの目があうと樋本さんが立ち止まる。
 忙しいはずなのに、その顔が自然とほころんでいた。
「先にどうぞ」
 私たちのいる廊下は二人並んで歩いても通れる幅だ。
 それでも樋本さんは端に寄って私に道をゆずってくれる。
 これは店のマニュアルにあることなのかもしれない。
 それでも樋本さんの気づかいは私の心をあったかくさせてくれた。
 穏やかな瞳は先ほどのような緊張を感じさせない。
 ふわふわとしていて、何だか心地よい。
「ありがとうございます」
 私は樋本さんの好意を笑顔で返すと、芽衣子の所へ戻っていった。

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