キリストの誕生の際、賢者と聖母マリアをかの馬小屋へと導いた星がある。
ベツヘレムの星――
西の空に輝くそれは、クリスマスの星とも呼ばれている。
その正体は彗星だとかシリウス超新星だとか、色々な説があるけれど、私はそれを一番星と呼んでいた。
物心つく前のことだから何故なのか覚えてないけれど、きっと金星や北極星と混同していたのだろう。
星の名残は今もクリスマスツリーのてっぺんに残っていた。
幼かった頃の私は、毎年その星を飾るのをとても楽しみにしていた。
そしてそれは今も、大切に持っている――
3章 8月7日 -そして運命は回り始める-
1
――夜にひときわ輝く星がひとつあった。
それは身動きの取れない旅人たちを導く光。
その途中に何があるのかは分からない。
道の果てに誰が待っているのかも分からない。
それでも旅人は未来を信じて歩いていく――
「次は――。――です。お降りの方は……」
車内に響くアナウンスに、私は本を読む手を止めた。
八月最初の金曜日。
時刻は午後八時を回ったばかり。
この時間、都心行きの電車に乗る人はまばらだ。
席は埋まっているけど特に会話が聞こえてくるわけでもなく、耳元に広がるのは冷房の回る音と、イヤホンから漏れるメロディだけ。
向かいに座っているサラリーマンは腕を組んだまま、船をこぎはじめていた。
私は文庫本をバッグの中におさめると、携帯電話を取り出す。
先ほど届いたメールで、これから行く店を確認した。
とくとく騒ぐ胸に手をあて、静かに深呼吸する。
大丈夫、と心の中で唱えながら――
今日、大学の友達からメールが届いた。
(久々に会わない?)
私が彼女のメールに気がついたのは内容が送られてから二時間後のことだ。
バイトが終わった私はサークルの仲間と映画館にいて、まさに携帯の電源を切る直前だった。
(今夜大学の近くで飲んでるから。気が向いたらメールちょうだい)
思う所があった私は速攻でメールを返した。
(少し遅くなるけど必ず行く。駅ついたら連絡するね)
メールの相手――芽衣子は私が上京後、はじめてできた友達だ。
さばさばしていて、大らかで、些細なことは気にしない。
みんなからも頼りにされ、慕われる芽衣子は私が思い描く憧れの女性だった。
一時期は彼女と自分を比べて嫌悪に落ちたこともある。
今はそれぞれの理由で距離をおいているけど、芽衣子が私にとって親友であることに変わりはない。
それでも、半年ぶりの再会は緊張を呼んでいた。
今も私の心拍数は極端に波打つばかり。
もともと人見知りする性格も理由のひとつなのかもしれないけど――
正直、見た映画の内容は覚えていない。
電車に乗っている今も、芽衣子にかける最初の言葉をずっと探している。
気晴らしに図書館で借りた本を開いてみたけど、あまり効果はなかったようだ。
たった半年、されど半年。
彼女の前でちゃんと、普通でいられるだろうか。
笑っていられるだろうか。
小さな不安は今も私の中でぐるぐる渦巻いている。
私の心をよそに、電車は目的の駅に到着してしまった。
映画館を出てからすでに一時間。
冷房の利いた箱庭を抜けるとじめっとした風が通り抜ける。
生温かいものが腕にはりつき、服が肌に吸いつく。
汗ばむほどではない暑さだけれど、この湿気はうっとおしい。
私は肩についた髪を一度後ろへ流してから改札を抜けた。
来週にお盆を控えたせいか、人の流れはいつもよりまばらだ。
夜の街が広がる。
最初に目に入ったのはちぐはぐな高さのビルだ。
学生街ということもあってか、それらの一階には個人が経営する飲食店やカラオケ、ゲーセンといったものが詰め込まれている。
店の看板たちも、店そのものもさほど変わってない。
やっぱり半年やそこらじゃすぐに変わらないか。
私は肩をすくめた。
大通りをまっすぐに歩けば、緩やかな坂の上に私が一年間通った大学がある。
駅前からも建物の一部は見えるものの、夏休み期間中の今はその灯りも消えている。
私は信号を待っている間、空を見上げていた。
藍色の空にスモッグをまとった三日月が浮かんでいる。
視界の隅には七色の電飾。あまりの明るさに星はかすんで見えない。
何だか道しるべを見失ってしまった気分になって、私は少しだけ残念に思った。
芽衣子が指定した居酒屋は私も何度か足を運んだことがある。
どこの駅にもあるチェーン店、今までは大人数で店の中に入るのが当たり前だった。
だけど今日は違う。
待ち合わせとはいえ、居酒屋に一人で入るのはまた趣が違って見える。
私は店の前で一呼吸おいてから扉を開けた。
「いらっしゃいませ。おひとり様ですか?」
言葉の響きにどきどきしつつ、私は待ち合わせである旨と芽衣子の苗字を店員の女性に伝えた。
「矢野さまですね。伺っております。こちらへどうぞ」
うねる通路を抜け、奥の席へと通される。
古民家を意識した内装は落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
全の席が壁で仕切られているので、人の目を気にせずに飲めるのも良い。
しばらくして、先を歩いていた店員の足が止まった。
格子戸の先に見えるのは長い髪をクリップでまとめた頭。
襟ぐりの大きいボーダーのニットに七分丈のパンツの組み合わせは細みの体型に良く似合っている。
携帯を見つめる眼差しは心なしか憂いを帯びていた。
「芽衣子」
声をかけると、私の緊張が最高潮に達する。
芽衣子が私の存在に気づいた。
その表情がすぐに明るいものへと変わる。
「綾だーっ。ひさしぶりい」
「ひさしぶり……ごめんね。遅くなっちゃって」
「ぜーんぜん大丈夫っ」
先ほどの憂いを吹き飛ばすかのごとく、芽衣子は満面の笑みで答えた。
その頬がほんのり染まっていると気づいたのは私が向かいの席についてからだ。
テーブルの上には食べかけのおつまみ皿と空のジョッキがひとつずつ残っている。
どうやら私が来る前に一杯飲んでいたらしい。
いつもの一割増しな陽気さに私の口元が自然とゆるんだ。
私自身、芽衣子に会うのはまだ早かったんじゃないかと思っていたけど――それは杞憂だったらしい。
強張っていた体が徐々に解けていく。
「飲み物の注文よろしいでしょうか?」
店員さんの言葉に芽衣子は自分の分のビールを頼んだ。
あ、と言葉を落とし私の方を見る。
「もう大丈夫なんだよね?」
「うん」
私がうなずくと、芽衣子は店員さんにVサインをして個数を伝える。
「この時をずっと待ってたんだ」
芽衣子から発せられた声に裏はない。
本当に嬉しそうな芽衣子に申し訳ない気持ちが走ったけど、それは次に押し寄せた喜びがそれをすぐにかき消してくれた。
「今日の綾は可愛いなぁ……しばらく会わないうちに服の趣味変わった?」
私は小さく首を横にかしげる。
そりゃ、向こうに行って髪は染めたけど、服の趣味は変わってない気がする。
今日着ているのは淡い色のキャミワンピだ。
胸の部分に切り返しがついていて、そこから下がふわりと広がるような作りになっている。
その上に羽織るのは薄手の前開きチュニック。
足元は太めのベルトがついたサンダルで合わせていた。
私は掘りごたつに埋まったふくらはぎをちらりとのぞいてみる。
ここ連日の暑さに負けてつい生足をさらしてしまったけど――やっぱりレギンスでカバーしておけばよかったかな?
そんなことを思いながら私がスカートのひだを直していると、頼んでいた飲み物が届いた。
大ぶりのジョッキには黄金色の液体が詰められている。
ふんわりと乗せられているのはきめ細かい気泡。
私にとって人生で初めてのお酒だ。
「では半年ぶりの再会と綾の二十歳一か月に乾杯っ」
ガラスが奏でる音を聞いてから、私はジョッキのふちにくちづけた。
初めて飲むお酒の味。
泡自体に味は感じられない。
その先を探ろうと、私は更にジョッキを傾けた。
液体が口の中に入った瞬間、炭酸独得のぴりり感が伝わる。
そのあとで舌に残るのは――むせかえりそうなほどの苦み。
飲んで最初に思ったのは疑問だった。
こんな苦いものを大人たちは何故美味しいと感じるのだろう?
言葉には出さなかったものの、私の率直な感想は顔に出てしまったらしい。
「それがだんだん美味しくなるんだなあ」
学年は一緒だけど、私よりもひとつ年上の芽衣子はにやにやと笑っている。
私はビールと同時に届いたお通しに箸をつけた。
舌に残る苦みをおひたしの味で上書きしていると、で?、と芽衣子が話を振ってくる。
「そっちの生活はどう?」
「遅れた単位を取り戻すの大変だけど、楽しいよ」
今、私は生物生産について勉強している。
生物生産とは人が生きるために必要な食糧の生産と、生産現場に生じる課題の研究。
簡単に言えば、農業だ。
野菜や植物を育てる技術を取得すべく、私は毎日大学に通っている。
実習のある日は野良着を着て畑や田んぼに入るのが日常茶飯事。
講義のない土日は近所のスーパーでアルバイトをしている。
更に、今年の春からは大学のボランティアサークルにも参加していた。
日々の暮らしは忙しくて目が回りそうで――けど、とても充実している。
「それにしても、綾が農学部に移るとは思わなかったなぁ」
「そう?」
「まさに畑違いだし。そっちの方にいっちゃって大丈夫かなって。東吾も心配してた」
「まぁ……興味持ったのもここ最近だったから、ね……」
芽衣子のおしゃべりに私は静かに笑みを浮かべた。
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