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「いや、あのタイミングで転んだのは奇跡だな……ほんっと、佐藤さまさまだ」
 いつもの道をゆったりと歩いていると、車道側を歩いていた智己が言った。
 細く伸びた影が今にも飛び跳ねそうだ。上機嫌なのは昨日からなくなったという財布が見つかったからだろう。
 ころころと笑う智己を見るのは悪くない。だが、ここまで崇められてもあまり嬉しくない。もともと復讐心があってやったことなのだから。
 帰り道の途中で葉月はそっと息をついた。
 あの時葉月が投げたボールは、狙いどおり安原の後頭部に命中した。風雲児を転がすクリーンヒット。そのおまけといわんばかりに財布は転がった。
 当然、向こうの怒りも買ったわけだが、相手が葉月だと知った途端、そそくさと逃げてしまったのである。
 確かに倉庫に閉じ込められた件に関しては未だくすぶっているものがあった。あの状況なら安原も被害者だったといえる。それでも球を叩きつけたのは、一人の人間として裏切られた感が残っていたからだ。
 見逃すことが犯罪と認められないなら、見舞いの一発ぐらいかましたくもなる。
「あんなやつ、サッカー部に野放しにしていいわけ?」 
「安原は佐藤が思うほど嫌な奴じゃないって」
「本当ぉ?」
「ああ」
 智己はうなずいた。葉月に合わせ、歩調を緩める。
「昨日あいつが学校にいなかったら――理恵にちゃんとした別れを切り出せなかったわけだし」
 俺、理恵と別れたんだ、と続ける智己に葉月は言葉を詰まらせた。
 智己の口調は穏やかだが、言葉にはかなりの重みがある。ことがことだけに、聞かずにいられない。
「それって――昨日のことが絡んでる?」
「え?」
「あたしが拉致られたことでもめた、とか?」
「まぁ。もめたのは確かだけどな」
 智己にばつの悪そうな顔が浮かぶ。
「でもそれより前から別れた方がいいって思ってたから……俺としては納得してる」
 智己の話を聞いて葉月は複雑な思いに駆られた。最近、二人の様子がおかしいと思っていたが、そこまで話がこじれていたとは思いもしなかったのだ。
 今理恵のことを口にするなら気の毒、という言葉が合っているのだろう。ずっと前から智己の心変わりを悟っていたとしたなら、理恵も相当苦しかったのかもしれない。
 それでも同情することはできなかった。
 どんな理由があれ自分を陥れたことに対する憤りは抜けない。智己を欺いたことも許せない。一度持ってしまった不信感は早々に消えることはないのかもしれない。
 こんなことを思ってしまう自分は心の狭い人間、なのだろうか――
 葉月が悶々としていると、智己が言葉を差し出す。
「俺のことで佐藤巻きこんで――本当悪かったな」
「え」
「もう、そんなことさせないから。ほんと、俺のこととか……気にしなくていいからさ」
 智己はそう言って視線を遠くに向けた。さらりと流れた言葉が胸に響くのは瞳に強い決意が現れていたからだろう。背筋をぴんと伸ばした姿に迷いは感じられない。
 うっかり見とれてしまった葉月は小さな反抗をのみこんだ。
 しばらくして、智己から別の話題を振ってくる。
「そういえば、打ち上げ出なくてよかったのか?」
「え?」
「みんなでカラオケ行くって話。久保が言ってたけど」
 ああ、と葉月はつぶやく。引き継ぎを終えた後は皆でカラオケに行こうという話になっていた。申し訳ないと思ったが、葉月は直前になってそれを遠慮したのである。
「青柳放っておいていいのか?」
「え、何で?」
 葉月は目を丸くした。
 そこに彼方が出てくる理由が分からない。確かに感謝の意味をこめて誘ったのはこちらだが――
 もしかしたら、畑違いの場に飛びこんで居心地が悪いとでも思ったのだろうか。
「大丈夫。青柳、無愛想だけど人見知りするってわけでもなさそうだし。昨日も久保と仲よさげだったよ」
「いやいや。そういう問題じゃなくてさ」
「は?」
「まあ……いいや」
 結局、智己の心配ごとは流れてしまった。
 会話の間に小さな穴が開く。その隙を埋めようと、葉月は言葉を続けた。 
「それに、あたしは田辺に話があったわけだし……」
「え」
「ほら、その……」
「ああ。大会終わったら、ってたやつか」
 智己は納得したように手をぽんと叩く。 
「で、何?」
 直球な質問に葉月はどきりとした。まっすぐ見つめる瞳に、うろたえてしまう。
 もちろん、最初からそういった流れに持って行くつもりだったし、覚悟もあった。
 でもいざ話題を目の前にしたらどこから話せばいいのかが分からない。声が詰まってうまく出てこないのだ。
 言うとしたら、大会の余韻が残っている今のうちがいいというのに――
 どうしようか考えあぐねているうちに駅までの距離はどんどん縮まっていく。見慣れた商店街のアーチをくぐった。葉月たちの周りを車や大人たちが颯爽と流れていく。
 やがて葉月の足はある場所で止まった。去年、智己にジュースをおごったことのある自販機だ。
 葉月の中で当時の記憶がよみがえる。
「昔――田辺がここで言ったこと、覚えてる?」
「そりゃあ……まあ」
 智己は口をもごもごとさせた。ぼりぼりと後頭部をかくさまは、過去をはにかんでいるようにも、この場をどうしたらいいのか戸惑っているようにも見える。
「実は……あの話、ほとんど聞いてなかったというか。告白だって気づいてなかった」
「――は?」
「あとで亜由美から聞いてすごくヘコんだというか何というか……申し訳ありませんでしたっ」
 葉月は両手を合わせて許しを請う。上目づかいで様子を伺うと、智己の体がくらりと傾いていた。葉月より一歩先を踏むことでそれを堪える。
「つまり、佐藤は俺の話を聞いてなかったってことか?」
「そういうことになる……かな?」
「何だよそれっ!」
「だからごめんって言ってるじゃん」
「まさか――ちゃんと聞いてたらつきあっていたとか?」
「ごめん。ばっさりふってた」
 救いのないオチに智己はぐはっ、と妙な声を漏らす。
「うわ。どっちにしてもふられてたってことかよ」
「そう、だね」
 葉月は困ったように微笑んだ。
「どっちにしても、あたしは田辺を傷つけて――あとですごく後悔していたんだ」
 葉月の声が途切れた。変わらない過去がお互いの笑顔を消す。
 よぎるのは、誰にも気づかれないよう泣いた日のこと。胸にくすぶるのは熱く、切ない感情。
「あたし、田辺が好きだ」
 葉月はせき止めていた気持ちをぶつけた。
「ずっと友達だと思ってたから意識なんてしてなくて。でも田辺に彼女ができて、田辺が本当はしっかりしてるとか面倒見がいいとか……とにかくいい奴なんだって気づいちゃって。その、そういう気持ちになっちゃったの!」
 葉月はそこまで言いきると智己の反応を伺った。案の定、間抜けな顔が現れている。無理もない。一度ふった男に今度は自分が告白しているのだ。これは爆弾といってもいいだろう。
「こんな状況に言っちゃうのは空気読んでないっていうか――ずるいって思うけど。でも、付き合ってとかそういうことじゃなくて……ただ、言っておきたかったというか。このまま卒業しちゃうのは嫌だったって、そういうことで――」
「ちょ、ちょっと待った」
 いっきに伝えようとする葉月の前にてのひらが立ちふさがった。ストップのリアクションをする智己が本気で慌てている。
「驚いた?」
「そりゃそうだけど」
「やっぱすごく迷惑だった?」
「そうじゃなくてっ」
 智己は一度言葉を止めた。
 たっぷりと時間をおいたあとで、葉月に問い返す。
「おまえさ、青柳とつきあってなかった?」
「は?」
「だってあいつ、おまえのこと――」
「確かに青柳には告られたけど、断ったし」
「なっ」
 智己の目が見開いた。信じられないと言ったような表情が葉月の目に映る。すぐにああっ、と張りのある声が耳に突き刺さった。
「『謝っておく』って……そういうことかよっ」
 智己は頭を抱えしゃがみ込んでしまった。あまりにも大きな声に、葉月の不安が更に広がる。
 普通に告白しているつもりだったが、どうも智己の反応がおかしい。困ったような顔をしたと思ったら、急にうろたえたり。かと思えば怒って――はっきり言って変だ。
 もしかしたら、自分はとんでもないことをしてしまったのだろうか?
 それが聞きたくて、葉月は小さくなった体に声をかけようとする。無防備になった後ろ襟をつつき自己主張しようとするが――
「俺……好きな人がいるんだ」
 その一言に葉月の手がとまった。
「ふられるの分かっていたから伝えなくてもいいって思っていた。一年の時からずっと近くにいたから。今までの関係がぶっ壊れるくらいなら遠くで見守ろうって、そう思っていた。だから他の誰かに告られても、想われても。そいつがいる限り、俺はその気持ちに応えるつもりはない」
 まっすぐな気持ちに心臓がどく、と波打つ。はっきりとした想いに返す言葉が震えそうになる。
「そんなに……好きなんだ」
「ああ」
 智己は頷いた。小さく収まった世界からゆっくりと立ち上がる。
「そいつの前じゃカッコつけることもできなくて、情けないとこしか見せられなくて……でも、そいつと一緒にいるだけで元気になるし、幸せな気持ちになる。できることならずっと側にいたい。何を犠牲にしても守ってあげたいって思う」
 智己の瞳に優しくてあったかいものが広がった。慈しむ瞳、その奥にある強い意思。ずっとそばで見ていられたらどんなに幸せだろう。
「告っちゃいなよ」
 葉月は壊れそうな心を必死で守っていた。
「今の田辺なら、その気持ち、きちんと伝わると思う……その、あたしのことなんか気にしないでいいからさ。あたしは自分の気持ち伝えられればそれでよかったわけ、なんだし」
 笑顔を見せたのはほんの一瞬だ。葉月は不自然にならないよう目をそらす。
「あたし……先、行く」
 葉月は智己を追い越した。駅へと急ぐ。胸の苦しさは走ってしまえば混ざって消えてしまうのかもしれない。
 智己の本音を知った今、葉月は一本でも早い電車に乗ることばかりを考えていた。
 それなのに――
「佐藤」
 葉月は三歩も進まないうちに追いつかれてしまう。智己と再び目があった瞬間、やっぱり、の声が耳に届いた。ふいに掴まれた腕が熱い。
「今、俺にふられたって思ってないか?」
 真をつかれ、葉月はうろたえた。張り詰めた表情がいっきに壊される。
「だって……そうなんでしょう?」
 好きな人がいる、そう言われた時点で失恋決定ではないのか。
 葉月はそう抗議するが逆にに阿呆、と返される。
「どうしてそっちに走るんだよ?」
「へ」
「おまえは何で空気を読まない? また俺の話をスルーするのか」
「え?」
「俺、とっくに告ってるんですけど」
「……は?」
「ああっ、もう」
 智己の両手が葉月の頭にとまった。抱えるように触れたあとで髪をぐしゃぐしゃにされてしまう。
 昔はすぐに直った髪も今は丁寧に伸ばさないと戻らない。葉月は何するんだ、と声を荒げるが――
 見上げた瞬間、息を封じられた。触れてきた柔らかさに葉月は驚きを隠せない。
「おまえってほんと、まっすぐで天然なのな」
 ごく至近距離で智己が呆れていた。
「目の前で告ってるのに、気づかないってどういうことだ?」
「な、な……」
「俺が好きなのは昔も今も――結局おまえなんだよ」
 すっと伸びたひとさし指が葉月の鼻先にこつんとぶつかった。(了)