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エピローグ

 部員たちの声が駆け抜ける。
 しなやかに伸びる体躯は大地を自由に駆けていた。空に浮かぶのは白と黒のコントラスト。それがゴールに飛びこむと士気が更に舞いあがる。
 彼らの生き生きとした姿を見つめながら、智己は安堵のため息をついた。その一方でそこに加わることができない自分をこっそり呪ってみたりする。
 でも、全ては因果応報、自業自得なのだろう。
 今日からサッカー部はグランドでの活動を再開した。
 そして隅に追いやられた智己はというと――黙々と草取りだ。
 一人生い茂った細い葉を掴む。力任せに抜くと、根っことともに土の匂いが広がった。平らな地面が掘り返されると、ミミズやらダンゴ虫やらが顔をのぞかせる。
 整備を忘れた隅っこは意外にも栄養が行き届いているようだ。
 太陽の光はさんさんと照りつける。じっとりと浮き出た汗はこれから吹く夏の風を待ちわびていた。
 やがて、智己の前に影が差す。見上げると、奥二重の瞳をもった男が立っていた。いつもは目を合わせるたびに声を詰まらせるばかりだったが、今日だけは挨拶が簡単にすべる。
「よう」
 智己の返事に青柳彼方は目を細めた。
「ずいぶん端に追いやられてるのな」
「昨日の報いだ」
「そっか」
 彼方は智己の隣に陣取ると腰を下ろした。で? と智己に問いかける。
「自転車で四十キロ走破した感想はどうよ?」
「すっげえ疲れた」
 以前嵐の中を走ったこともあったが、今回はその倍だ。今日も膝が笑っている。もっと言えばしゃがむだけで尻の奥が痛みを訴えているのだが――それは秘密にしておく。
「間にあったと思ったらとんぼ返りだもんな……こっちも悪かったよ」
 謝罪する彼方に智己はかぶりを振った。そんなことはない、と続ける。
 葉月が無事ゴールしたあと、寄り添った二人は彼方の一言で引き裂かれた。
(自転車返せ、だって)
 彼方の携帯には立夏会側から送られた「戻って来い」という命令があった。葉月もまた、すりむいた膝の処置に追われるべく救護室、痛み止めを打った診療所へと運びこまれる。
 この日智己が葉月と一緒にいた時間は十分にも満たなかったのではないだろうか。
 ――結局、勝手に持ち出した自転車は智己が引き取ることになった。
 当然ながら弁償だ。通常価格なら軽く一万円を超えるらしいが、立夏会幹事――目の前にいる彼方の姉、遙のおかげで多少値段をまけてもらった。
 とはいえ、高校生である智己にこの出費は痛い。
 そして、どさくさにまぎれて消えた貴重品たちは安原によって回収されたものの、何故か智己の財布だけ出てこなかったのである。もちろん家路までは自転車だ。
「昨日はいろいろ疲れたよ。本当に……」
 疲労が抜けないまま作業を続けていると、ホイッスルが鳴り響く。音の元をたどれば、グランドの一角で陸上部の面々が整列を始めていた。
 彼らが注目しているのは今日部活を引退する三年生だ。代表で挨拶をするのは一年間部長を務めた久保。そのふたつ隣には高校生最後の試合を終えた葉月が制服姿で立っている。膝には白いサポータがちょこんと乗っていた。
「――陸上部?」
 智己の指がそちらを示すと、彼方がうなずいた。
「打ち上げに誘われたんだ」
 そういえば久保が言っていた。引き継ぎを済ませたら、三年生だけで駅前のカラオケボックスに行くのだと。昨日自己ベスト記録を出したという男はとても満足げな顔をしていた。
 智己は隣にいる彼方をちらりと見やる。
「そういえば――悪かったな」
「何が?」
「昨日の試合……ゴールで佐藤を迎える役を奪っちまった」
「別に気にしてない。あれは田辺に譲ったわけだし」
「でも、彼氏としてはいい気分じゃなかっただろ?」
 ぽっかりと口を開けた彼方を見て、智己は肩をすくめる。
 そう、彼方にしてみれば自分の彼女に他の男が駆け寄って、更に抱きしめられたなんて――見たくもなかったに違いない。
「本当、悪かった。二人の邪魔をするつもりはなかったんだ。こっちの気が緩んだっていうか、無事に終わって安心したっていうか――」
「ああー」
 彼方は間延びした声をあげる。口元に手をあてたあとで、何かを呑みこむ仕草。だがそれは、悪い、という言葉とともに吐き出された。
 智己の頭に疑問符が浮かぶ。
「自転車の謝罪なら最初に聞いたけど」
「いや。それとはまた別の話というか……」
「へ?」
「まあ、謝っておくよ。俺としては田辺が正直者で助かったけど」
 微笑む彼方に、智己は首をかしげた。
 陸上部は引き継ぎの佳境を迎えている。後輩から感謝の言葉が送られると人の塊がばらけた。彼方が立ちあがる。智己に別れを告げ葉月の元へまっすぐ向かう。
 それを複雑な思いで見届けていると、
「勝手に手ぇ止めてるんじゃねえ」
 と、嫌みったらしい声が脳天に落ちた。智己は彼方と入れ違いにやってきた後輩にうるせえ、と毒づく。
「そっちこそ練習サボってるんじゃねえよ」
「あれ、ヤニ残ってるうちはコートに入るな、って言ったのはどこのどいつだったっけ?」
 安原は物おじもしないどころか、悪事を自ら申告する。智己の目元が引きつったのは言うまでもない。
「ま、こっちはあんたのせいでひどい目に遭ったんだ。このくらいの仕打ちは当たり前だよな」
 智己は腹にすえかねた想いを必死にこらえた。昨日全てを任せてしまった手前、文句を言えないのが悔しい。
 気分を変えようと、智己は視線を再びグランドに向けた。
 部員たちは練習メニューを順調にこなしている。狭いサッカーコートの中はパスワークを中心としたフォーメーションに移っていた。
 息をもつかせぬ攻防戦を繰り広げる部員たち。その周りにはマネージャーたちがあぶれたボールを回収している。幸か不幸か、その中に理恵の姿はなかった。
 別れ話を持ちかけた上、倒れた恋人を放置。自転車を奪って逃走――
 昨日、安原の口から語り継がれたそれは自分から見ても最悪だったと思う。
 部員たちの態度は様々だ。置いていかれた理恵を可哀そうだと批難する者、付き合っていた二人の別れ話にやっぱりとうなずく者もいれば無関心な者もいる。智己を擁護する者もいたが、どのパターンからも出てきたのは人としての配慮が欠けている、というお叱りだ。
 今は自分を見る視線が痛すぎる。日和見な顧問からは草取りの指示しか受けていない。
 もしかしたらキャプテンの交代劇は思ったより早く訪れるのではないのだろうか。
 智己が自分に返ってきたものにこっそり嘆いていると、
「今度は刺されるかもな」
 と、歯に衣を着せぬ勢いで安原が茶化す。
「あいつ、キレたら何するか分かんねえし」
 確かに理恵の行動には鬼気迫るものがあった。次に会った時は本当に何が起こるか予想もつかない。
 しかし智己は覚悟を決めていた。
 同情や罪悪感はあっても、優しさは与えない。毅然とした態度で向き合うつもりだ。
 今、自分にできるのは理恵の絶望と怒りが未来へ昇華されるのを願うこと。自分勝手で冷たいかもしれないが、それが別れを告げた者の誠意だと信じたい。
「俺は逃げねえよ……それだけのことをしたんだ」
「うわ。その『殴られても当然』って開き直り。あんたがやるとすげえムカつく」
「俺はそう言うおまえがすげえムカつくな」
「……前より言うようになったじゃねえか」
 安原がにやりと笑った。 
「ま、あんたがいなくても、世の中回ってるわけだし。勝手に生きてるからな。どうにでもなるだろ」
「おまえがいてくれて本当によかったよ」
 新しい植物の茎に手をかけた所で智己は本音をこぼす。すると、安原の顔に苦々しいものが走った。
「あんたってほんっとおめでたいな」
 くるりと踵を返されたので智己は立ち上がる。
「安原」
「何?」
「貴重品。どうして俺の財布だけなかったんだ?」
「ああ、あれ?」
 振り返った安原が鼻で笑う。その含み具合に智己ははっとした。
「まさか……俺のだけ抜き取ったとかねえよな?」
「勘づくの早いじゃん」
「冗談じゃない! 俺の全財産、どこに隠した!」
「さあね。金が惜しいなら自分で探せ」
「てっめえ」 
 智己は拳を握りしめる。のうのうと歩く後ろ姿に恨みをこめた。
 一度でいい、天罰でもくらいやがれ。
 物騒なことを思った――その時だ。
 何かが風を斬る。目の前を突き抜けたのは鈍い音と衝撃波。
 気づけば、視界から安原が消えていた。

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