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 その日、陸上競技大会の会場ではちょっとした騒ぎが起こっていた。
 陸上競技場のトラックに軽トラックが乱入――
 洒落ともいえぬ事態に競技場は騒然とする。
 車は四百メートルをゆっくり走ると、ぽすぽすと音を立てながらコースを離脱した。姿が見えなくなると、どこからともなく笑いが起こる。
 この件に関しては、競技自体に支障はなかったものの、いくつかの作業が一時中断された。
 女子ハードルの点呼(コール)もその一つだ。
 混乱の中、競技場の少し前で車を降りた葉月は選手たちの中に紛れこんでいた。
 何事もなかったかのようにコールを済ませてから、一度外に出、会場の側にある診療所に向かう。その十分後には競技場にユニフォーム姿で立っていた。
 スタート直前に見せた顧問の間抜け顔はこの先も絶対忘れることはないだろう。
 ――こうして葉月は無事に予選を終え、決勝に出場できるほどの成績をおさめることができたのである。
 結局、連帯責任ということで久保たちにも雷は落ちたが、葉月のねばりと部員全員の懇願が効いたのか、葉月が決勝レースに出ることだけは先生も了解してくれた。
 長い説教から解放されると、今度は共犯者である久保から迷惑をかけた分のデコピンをくらう。葉月の家まで行った彼方には安堵され呆れられ、電車で追いかけてきた亜由美はというと、待ちくたびれた様子だった。
 葉月はそれぞれにかけた迷惑を詫びると、約束通り自分の身に起きたことを打ち明けた。
 偽のメールで呼び出され、倉庫に閉じ込められたこと。身に覚えのない罪をいつの間にか着せられたこと。そしてその全てが理恵の仕業であったこと――
 その後、葉月は亜由美とともに携帯会社を当たった。
 その帰り、診療所に寄って痛み止めを新たに処置してもらう。部員たちの応援の合間に昼食を取り、足にテーピングを施し、そのままアップに出るつもりだったが、慌ただしい時間はそこで止まった。顧問の先生にむやみに動くなと言われたのだ。最初に暴走した手前、今度は大人しくしてなければならない。
 そして今、葉月は百メートルのスタート付近にいた。
 会場から借りてきた折り畳み椅子に座りその時を待つ。
 両足で空を漕いでいると、前髪、切ったんだな、と隣にいた彼方に言われた。
「佐藤が前髪伸ばしたのって、あいつの顔を見ないようにするためなんだろ?」
 彼方の指摘に葉月は声を詰まらせた。頬が染まるまでそう時間もかからない。
「佐藤って本当、わかりやすいのな」
 穏やかな微笑みが葉月の前に浮かぶ。彼方の大人びた姿に余計に恥ずかしくなってしまった。
 会話にもう一人いればその場の空気も変わるのだろう。だがそれにふさわしい人物――亜由美はいない。急用ができたからと帰ってしまったのだ。
 どうしたものか、と葉月は思う。
 別に彼方と喋ることに抵抗があるわけではない。ふとした瞬間に心が痛むだけだ。それが罪悪感だというのも分かっている。

 ――少し前、葉月は彼方の想いを断った。
 突然の告白に驚いたが、彼方が真剣だったのは葉月にも分かった。気持ちがぐらついたのも確かだ。
 側にいればひとつの形、として育っていったのかもしれない。
 でも葉月はそれを受け入れることができなかった。
 逃げるために誰かに甘え、すがることはできない。無理矢理心を歪めて相手と向き合ったとしても相手を傷つけるだけになってしまう。そんな気がしてならなかったのだ。
 ありのままの気持ちを告げても、彼方は普通に接してくれた。今までどおりでいいよと言ってくれた。今思えば、自分が苦しむのを分かっていたかのような態度だった。
 もしかしたら、穏やかな瞳の持ち主は葉月の本心を見抜いていたのだろうか――

 その彼方はというと、今行われている短距離走に注目していた。
 何組かのレースが終わったあとで、やっぱり陸上は苦手だ、とぼやいている。
「走ってる人間に『がんばれ』って言うのに抵抗があるんだろうな」
「そう?」
「こっちががんばってるわけじゃないから、気安く相手に伝えられないっていうか。それに、見てるだけで何もできないのも辛いっていうか」
「こっちは応援もらえるだけで気分が上がるけどな。苦しい時とか、辛い時とかは救われる」
「佐藤もそう思う時ってあるのか?」
「あるよ」
 葉月は漕ぐ足を見つめ、目を細めた。
 スタートの前はいつだって孤独だった。
 どんなに仕上がりが良くても、緊張や不安であふれてしまう。十分な練習ができなかった時は逃げだしたいとさえ思った。体の震えが止まらなかった時もある。
「今だって本当はそんなに余裕ない。アップもろくにできてないし……すごく怖いよ。だけど――」
 葉月は言葉を翻す。顔を上げ、彼方を見上げた。
「『ここ』を選んだことをあたしは後悔してない」
「……そっか」
 彼方に柔らかな微笑みが浮かぶ。つられて、葉月の顔もほころんだ。
 やがてお互いの視線が一点に集中する。審判員がゼッケンナンバーを呼び始めたのだ。
 自分の番号を告げられ、葉月はゆっくりと立ち上がる。羽織っていた上着を取り、持っていた青の粒子を振りかけた。彼方にそれらを託すと、審判に指示されたトラックのコースへ入っていく。 
「位置について」
 スターティングブロックにスパイクを添わせ、その時を待つ。用意、の声に腰を上げた。
 世界が一瞬だけ鎮まる。
 聞こえるのは自分の心の音。信じるのは今まで積み上げた日々のこと。
 閃光が走った。
 その瞬間を誰よりも先に捕らえようと、八人が一斉に飛び出す。不揃いな足並み。スタートから少し遅れた歓声が火薬の匂いとともに流れていく。
 葉月は競技場に広がったあらゆる音の中から自分のものを必死で探した。
 ピンを背負った足裏がタータントラックにぴったりとかみ合う。瞬間、葉月の体はそれを確実に捕らえた。
 ゴムをはじく感触、予選の時とは違い足に重たさがあるが――
 まだ大丈夫だ。いける。
 葉月は小さく頷くと一歩を踏みきり、障害をひとつ乗り越えた。前傾姿勢を保ち着地する。体が次の足を運ぶ作業に移ると、頭の中で独特のリズムが広がった。
 ハードルを踏みきる時の歩幅はもう体に染みついている。大地をはじくようにふたつ、みっつと超えると、周りの歓声が突き抜ける。
 自由に羽ばたけるこの空間がとても好きだった。
 たった十数秒の世界はとても奥深くて魅力のある時間だった。終わってしまうのが物惜しくて、勿体ない。このまま留まっていられたらと思う。
 だがいつかは旅立たなければならないのだ。時が廻れば新しい世界を切り開かなければならない。
 だったら今、自分からその一歩を踏み出そう。
 ハードルをまたひとつ乗り越える。
 残りひとつ。その先には未来へと続く扉が待っている。今のところ前にも横にも人の気配はない。
 このまま白線へ飛びこめば、もう一度跳ぶチャンスが与えられる――そんな思いがよぎった。期待が心を急かす。
 だが、背後の影はそれを見逃さなかった。
 跳ぶ直前、鋭い視線が葉月と並ぶ。その気迫が葉月に一瞬の隙を作った。踏み切りのタイミングがわずかにずれピンがハードルに接触する。
 あっ、と声を上げたときにはバランスを崩し倒れていた。摩擦で膝に熱いものを感じる。
 それは怪我をした日以来の転倒だった。
 すぐに立たなければならないと思った。
 立って、再びゴールを目指さなければ――
 だが、既視感に恐怖を覚えたのか、剥きだしの足は動けないままだ。痛み止めはまだ効いているはずなのに、大地を踏むことを拒んでいる。
 葉月は焦った。ゴールまであと少しだというのに。座りこんだこの場所が底なし沼のように思えてならない。
 後を追いかけていた選手たちはそんな葉月を超えて、白線の向こうへ消えていった。審判と思える人たちがこちらを見ては相談している。気の毒そうな表情に葉月は怖くなった。
 嫌だ。愛おしい時間を、意思を、こんな形で終わりたくない。
 せっかく智己との約束を、誓いをここで壊したくない。
 だが、葉月の意思とは反対に人は動き始めていた。葉月のもとへ大人の影が近づく。その体が絶望に呑みこまれようとしていた――
 その時だ。
「佐藤っ!」 
 背後からの衝撃に葉月は思わず振り返った。瞳がさまよいその姿を探す。二度目の呼びかけに今度こそ焦点が一つに定まった。
 スタンド席の前方――智己が柵に身を乗り出している。
「最後まで走るって、俺と向き合うって決めたんだろっ。だったら諦めるな!」
 切なる願いが葉月の胸を突き抜ける。
「俺は逃げない。迷わないって決めたんだ。今度は俺がおまえの気持ち全部受けとめる。おまえが大切にしたいものを何が何でも守ってみせる。だから」
 まっすぐ走れ。
 智己の後押しが、体にのしかかっていた重りを消した。
 そのうちゴール側からもがんばれ、と別の声が届く。智己の声援に彼方が呼応したのだ。
 一緒に過ごした陸上部員たちも奮い立つ。自分に向けられた応援の声が競技場に広がる。
 葉月は膝を曲げた。審判員がトラックに踏みこむ前にゆっくりと立ちあがる。あふれる感情を受けとめ、苦しみとともに背負い、食いしばった。
 スタンドには葉月と平行して進む智己の姿。わずか十メートルの距離だったが、その先にお互いが目標としていた場所がある。
 声援に囲まれる中、葉月は最後の白線を踏んだ。
 湧き上がる歓声。そばにあった大きなデジタル計がようやく時を止める。たった百メートルの障害競走に一分を超える記録を出したのは自分くらいだろう。
 トラックを駆けめぐる風を吸いこむと、葉月はゆっくりと振り返った。今まで一緒に過ごしたハードルたちに感謝と敬意をこめて頭を下げる。拍手がぽつぽつと広がると胸に熱いものが広がった。それは醜態をみせたからという恥ずかしさからくるものとは明らかに違う。
 顔を上げ、再びスタンドに目を向けた。ぐるりと見渡し、その姿を探すが――いない。
 小さく智己の名をつぶやく。不安がため息とともにこぼれそうになると、待ち焦がれた声が耳に届いた。
「佐藤」
 振り返ると、小さな海が葉月の鼻先にとまった。本能で一度目を閉じたあと、再び瞼を上げる。
 目の前には彼方に預けたはずのワキシューがあった。海の色と匂いを閉じ込めたスプレー缶。
 でも今、それを持っているのは智己だ。
「泣きそうな顔してやんの」
「るさいな」
 少年の笑顔に葉月は口を尖らせた。毒づくことでこぼれそうな想いを必死にこらえる。
 なのに、智己は意地悪だ。
「それに汗くさい」
「だったら近づくな」
「やだ」
 子供じみた答えと同時に一回り大きい手が伸びてきた。
 葉月の頭ごと智己の中にくるまれる。温かさに触れると、汗にまみれていたのはお互い様だったことに気づかされる。
「よく、がんばったな」
 ひとまわり大きい手が葉月の頭に触れる。最高の誉め言葉に涙がこぼれた。留めていた感情のたがが外れてしまう。
 緊張と恐怖から解放され、安堵に包まれた今――この手に触れたことがただ嬉しい。
「ごめんな。この間すげえひどいこと言って、今日も辛い目にあわせて――本当に悪かった」
 頭を傾ける智己に、葉月は小さくかぶりを振った。
 懺悔なんて欲しくない。智己が来てくれた。自分がここまでたどり着けただけでも心は十分満たされているというのに。
「そんな言葉、欲しくない」
 自分の素直さが少しだけ恨めしかった。それでも智己を掴んだこの手は離さない――決して離したりはしない。
 寄り添うふたりの間を時は滞りなく流れていく。
 戦いが終わり、使われたハードルが手際よく片されると、次の競技を知らせるアナウンスが広がった。葉月が着地した白線は今度、起点となって選手たちを迎えようとしている。
 やがて始まりの合図が轟いた。
 選手が一斉に走り出す。新たな風とともに、活気に満ちた声が競技場に広がっていった。

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