グランドに戻った智己は、何もなかったように後輩たちの輪に入った。
「加山先輩、さっきまで鬼のようにキャプテン捜してて――もう大変だったんですよお」
そう言ったのは一年のマネージャーだ。
普段は真面目で穏やかさの目立つ理恵が今日だけは智己にぴったりと寄り添うものだから周りもそれなりに気になっていたらしい。朝、理恵の頬についていたものは犬も食わない話として扱われていた。
智己は昨日のことをさりげなく聞いてみる。何も知らないせいか、後輩の反応はとても朗らかだ。
その後、智己は審判役を一試合だけこなした。
二十分間の試合が終わり、すぐさま携帯を確認する。亜由美からメールが届いていた。
内容は電話で話した件についての報告だったが、その他に昨日のことについて新たな証言も加えられていた。
情報を提供したのが葉月を想う男――青柳彼方だったことに智己は驚く。葉月がひどい目にあって、彼方も心穏やかにいられなかったのだろう。
そしてメールに添付された画像は亜由美の執念ともいえるものだった。
智己は一度空を仰いだ。
夏を待つ空はとても澄んでいる。突き抜ける青色は目に余るほど美しい。
これと同じような気持ちでいられたらどんなに幸せだろう。まっさらな心のまま、全てを許せたら。
だがそれは無理なのだと智己は感じ始めていた――
卒業生にあてがわれた休憩室の前に、捜していた人物はいた。
廊下の壁に設置されたダストシュートにゴミを押しこんでいる。ふたを閉じた所できき手を腹筋に当てる姿があった。反対の手は肩に下げていた貴重品袋を持ち直している。
心なしか顔色がよくない。きっと朝早くからの準備で疲れがたまっているのだろう。
それでも視線がこちらに移ると、憂いを帯びた瞳に光が宿った。
「智己」
制服に戻ったのにも関わらず、理恵は愛らしい笑顔で迎えてくれた。
「どこに行ってたの? ずっと探してたんだから」
「悪い」
智己が一度頭を下げると肩にかけていたスポーツバッグが床に落ちた。気のない音が耳に広がる。
「制服着てるけど……何かあったの?」
理恵の問いかけに智己は一瞬うろたえる。どの言葉を選ぼうかで悩むが、
「今まで佐藤と電話で話してた」
とうそぶいた。安原に会ったことはあえて伏せておく。
「佐藤のやつ、朝学校にいたのは俺がメールで呼び出したからだって、そしたら理恵があの倉庫に閉じこめたんだって言ってた」
「何、それ」
「もちろん、俺はそんなことをしてない。理恵は?」
「私だってそんなことしてない……するわけないじゃない」
理恵の腹の前で組んだ指たちが更に絡まっていく。
「なんでそんなこと言われなきゃいけないの? 先輩の方こそ嘘ついているんじゃないの?」
「理恵、それは」
「だって! 今日だって立夏会を壊そうとしてたんじゃないの?」
感情的な訴えを智己は冷静に受けとめる。同調してはみたものの、本当は返ってくる言葉さえ信じられなくなっていた。
思えば、積み上げられた誤解のはじまりは理恵の憶測から始まっていた気がする。
「ひどいよ。いくら何だって許せない……私たちを苦しめて何になるっていうの?」
「今朝あんなことあったから理恵がそう思うのも、怒る気持ちもわかる」
「智己……」
「でも、佐藤の言ってることは間違っていなかったんだ」
智己は自分の携帯電話を開くと、画面を理恵に向けた。
ディスプレイに映されているのは亜由美が取り寄せた情報――メールの送受信履歴だ。
無実を訴えていた理恵に緊張が走る。
「佐藤が使ってる携帯の会社に問い合わせたら記録が残っていた。受信時間は昨日の午後四時八分――俺はその時、携帯をマネージャーに預けていたからメールは送れない。でも佐藤にメールが送られて、その十分後には俺の携帯にメールを送信しているんだ……ありえないよな。俺の知らない間にメールのやりとりがされてて。なのに履歴がないなんて」
だからその時間に何があったのか、調べたのだ。
「貴重品の当番だった一年はその少し前、理恵に仕事を引き継いだって言っている。差し入れを持ってきた青柳は理恵が黒い携帯電話を握っていたのを見たと言っていた」
「……」
「つまり――あの時間俺の携帯を使えたのは理恵だけなんだ」
もっともな可能性を口にすると、智己を見ていた瞳はついと逸らされた。理恵の唇が固く閉ざされる。
「本当のことを教えてほしい。もし、違うというのならその理由をちゃんと聞かせてくれ」
それが智己にとって最大の譲歩だった。
しばらくして、理恵の口元にあった強ばりが緩む。
そう、と低い声が響く。
「わざわざ携帯会社に問い合わせするなんて。あの人、見た目ほど頭悪くなかったんだ」
「俺の携帯を使ったこと……認めるんだな」
「ええ」
「そして佐藤を学校に呼び出して倉庫に閉じ込めた」
「違うな」
降ってわいた別の声に智己ははっとした。振り返れば安原が二人から数歩離れた所に立っている。
「正確にはそうなるように仕向けた、だろ? 俺にも嘘吹きこんで、あの姉ちゃんわざと襲わせるように仕向けて。えげつないよな」
告げられた真相に理恵は動揺する様子もなかった。凍りついたのは智己の方だ。
「おまえは部室荒らしの罪を着せるだけじゃ物足りなかったわけだ」
そんな。もし全てが理恵の思い通りになっていたら、先ほど見た光景が広がっていたというのだろうか。
智己の脳裏には追い詰められた少年が残っている。腹にできた痣も健在だ。
もし安原の判断が遅かったら。捜すのが少しでも遅かったら。
「何でそんなことをっ!」
気がつくと智己は理恵を怒鳴っていた。身体の熱が一気に上がる――が。
「智己があんな時間に来なければよかったのよ」
声を荒げた智己を待っていたのは冷静な切り返しだった。
「そうしたらあの人にまた罪着せることができたのに――試合出られなくなったら完璧だったのに」
「どうして……」
「そうすれば智己、あの人に一生近づくことができなくなるでしょう?」
艶を含んだ微笑みに迎えられ智己は困惑した。
感情をあらわにしたことで動揺するかと思ったのに――理恵は自信に満ちた表情を浮かべているではないか。
「智己はあの人のことになると感情的になるのよね」
ゆっくりと理恵が近づいた。
「私や他の人のことは何言われても上手くかわすくせに」
華奢な手が腕にするりとからみつく。
「ねえ、私とあの人で何が違うっていうの? 教えてよ。どっちが本当の智己なの?」
理恵の問いかけに智己は言葉を詰まらせた。
彼氏として一年近く付き合ってきたが、理恵を大切にしようと思っていた気持ちに偽りはない。一緒にいて愛しいと思ったことも事実だ。どちらも本当の自分だった。
だが今の理恵はそんなぬるい答えを求めていない。欲しいのはれっきとした差。
理恵をここまで追い詰めてしまったのは他ならぬ自分だ。
だったら、かける言葉は一つしかない。
「別れよう」
ずっと心に留めていた言葉を理恵に伝えた。
「今の理恵を信じることができない……これ以上付き合い続けるのは無理だ」
「……あの人の所へ行くのね」
「ああ」
「恨まれてるかもしれないのに」
「それで構わない」
智己は断言する。
「俺にとってあいつはかけがえのない存在だ」
瞬間、理恵の目に鋭い光が宿った。
からみついていた両手がいつの間にか離れ、今度は床に置かれたスポーツバッグを掴む。反対の手はすでに壁にある取手にあった。
入り口が再び開かれると、智己を含む部員たち全員の貴重品が巾着ごと闇に呑みこまれてしまう。
「今度は、バック捨てるわよ」
理恵の口元が再びほころぶ。勝利を確信した微笑みは美しくも恐ろしいものだった。
設置されたダストシュートは外にあるゴミ置き場に繋がっていた。探すことはできるが、ここ二、三日でたまったゴミ山を崩すにはかなりの時間がかかるだろう。
更にバックの中には定期券が詰め込まれたままだった。
「智己、前に言ったわよね。『俺には理恵がいるから、それでいい』って」
「理恵……」
「私も同じよ……智己がいれば他はいらない、何もいらないの。だから――」
突然、理恵の表情が苦痛に満ちたものに変わった。
理恵の膝が折れる。前のめりに揺らいだ体に思わず駆け寄りそうになった。
よぎったのは人間としての本能、心配という情。
だが。
「嫌よっ!」
殺気立った悲鳴に、動きが止まる。
理恵の利き手は強く腹を押さえていた。青ざめた顔。額ににじむ汗は本物だ。
そういえば理恵の手はずっと腹に触れていた気がする。事実を問いただすことに集中して流してしまったが――
まさか。最初から腹の痛みに耐えていたというのだろうか。
「私が心配なら――行かないでよ。あの人の所に行かないで……お願い」
理恵に懇願され、智己の心が揺れる。潤んだ瞳に胸が痛んだ。
本当ならここで優しさを選ぶべきなのかもしれない。理恵を救うのが人間として正しい行動なのかもしれない。
でも、そこに流されてはいけないと思った。
今少しでも心を揺らしたら今度こそ自分は本当に大事なものを失ってしまう。「それ」を与えてしまったらこの先何も変わらない。だから。
「それはできない」
理恵の泣き顔を前に、きっぱりと言い放った。
振り返り、後ろで傍聴していた人物に声をかける。
「あとを頼む」
突然の放棄と抜擢に安原が面くらったのは言うまでもない。
「こいつのこと見捨てる気か?」
「ああ」
「修羅場人に押しつけるなんて最低野郎だな……つうか、俺なんかに託していいわけ?」
「少なくとも俺はおまえを信用している」
「は」
「おまえは絶対理恵を見捨てない――だから頼むんだ」
智己の判断に安原は言葉を失っていた。
無理もない。自分は理恵にとって天敵である男を信用すると断言したのだ。安原にとっては青天の霹靂。信用を失った理恵にとっては屈辱ともいえる行為だろう。
「嫌よ……」
案の定、目の前にある長い髪が左右に揺れた。
「何で? 何で私よりこんな奴のことっ……どうして……何でっ」
重なる質問に智己は答えない。優しさと同情を切り捨てた先には無関心しかなかった。
意思を悟ったのか、理恵の瞳に絶望の色が深く浮き出る。腹痛とともに迎えた終焉は予想以上に重く、あっけないものだった。
智己は安原の背中を超えた。
葉月が次に走る時間まであと二時間強。手元の時計はあと数分で正午を示そうとしている。
財布はいずこへ棄てられてしまった。定期の入ったスポーツバッグは理恵が抱えている。
今の自分は笑ってしまえるほどの絶体絶命といえるだろう。
でも――諦めるにはまだ早すぎる。
智己は廊下を歩き続けた。次第に歩調が早くなる。体が前に揺らぐと腕を振り走り出していた。
向かったのは外――学校のグランドだ。
智己の目には屋外テントの中にある「もの」しか見えてなかった。
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