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 湿った暗闇の中で葉月は奮闘していた。
 最初は扉をこじ開けることだけを考えていたが、目が暗さに慣れてくると今度は倉庫にあるものを片っぱしから壁に叩きつけるようになる。球技のボールやそれを入れてあった籠、野球のバット――しまいには得点板もぶつけた。
 おかげで倉庫の中はぐちゃぐちゃだ。壁はへこんだようだが、人が訪れる気配がない。せめて窓があれば割って逃げだせたのだろうが、使い古した道具を入れるだけの箱に光は必要なかったらしい。
 何度目かの集中力が切れると、葉月は手元の時計に触れた。照明ボタンを押すと、デジタル表示が今の時刻を無情に伝えてくれる。
 八時十七分。競技に間に合うギリギリの時間まで残り三分もない。
 リミットが近づくたび、葉月の中で苛立ちと焦りが増えていく。心を再び奮い立たせ、重い引き戸に立ち向かうが、全ては同じことの繰り返しだった。
 やがて時が満ちる。
 錠を解かれ、倉庫にひとすじの光が差しこんだのは、葉月の望みがついえてから五分後のことだった。
 目の前に現れた影は葉月の姿を確認すると、何かを投げつけた。
 着地したのは見覚えのあるスポーツバッグ。葉月はそれを手にとって自分のものかを確認する。試合で使うユニフォームにスパイクシューズ、財布も一度奪われたはずの携帯電話もある。全て無傷だ。 
 影は扉を開けたまま立ち去った。
 葉月は慌てて立ち上がる。怪我をしている足に引っかからないよう、障害を乗り越え、扉の向こう側へ飛び出す。
「待ちなさいよ!」
 外に出て、長い髪を従える背中に怒鳴った。
「こんなことして、あたしに何の恨みがあるってわけ?」
「……」
「何でこんなことっ、どうしてっ」
「――私たちの邪魔をするからよ」
 理恵は振り返り葉月を一瞥した。脇腹を抱える右手が少しだけ震えている。
「先輩が怪我をしてから智己がおかしくなった。それまではずっとうまくいってたのに……全部先輩のせいよ」
「……あたしのこと、そんなに嫌いなんだ」
「嫌いよ。すごい迷惑」
「ずいぶんはっきりと言ってくれるじゃん」
「でも本当のことだもの」
 理恵は微笑んだ。その視線が一度遠く見つめると、柔らかな髪がふわりと揺れる。
「まだ誰にも知られてないけど――この間うちの部室が何者かに荒らされたの。ガラスは割られてたし、ゴミも散らかされて片付けは散々。でもね、智己はその犯人が先輩だって思ってる」
 突然の言いがかりに葉月は目を丸くした。
「……どういうこと?」
「さあ? どういうことかしら?」
 理恵は首を横にかしげた。単純に見れば可愛らしい仕草なのだろうが今朝は違う。言葉の中にどろどろとしたものがある。
 葉月は口元に拳をあてた。自分の感じたものを言葉に変換しようと努力する。
 そして、全てを遮断してから浮かんだのは――
「騙した……の?」
 再び目があうと理恵の中にある悪意が確かに読み取れた。今朝起きた全てのこともその言葉一つでくくったものだと気づかされる。
 激情が走った。
 てのひらが弧を描き頬をすくう。肩に引っかけたバッグからワキシューがこぼれ地をはねた。耳障りな高音のあとに残ったのは怒り。
 それでも理恵の唇は右上がりのままだ。
 むかつく。何がおかしいというのだろう。
「……そんなことしたって何の意味もないって、何度も言っているじゃないですか」
 言葉に含みを持たせながら、理恵は続ける。
「もちろん、このことは黙っています。先輩が『また』智己を困らせようとしてたなんて言いませんから」
 葉月は眉をひそめた。言っていることが理解できない。いきなり何を言い出すのだろう。
 その理由はすぐに明かされた。突然、理恵が振り返ったからだ。
 大きな瞳が行きつく先を追いかけようとして――葉月は凍りつく。
 憎き人物の向こうに、智己がいた。
 理恵がゆっくりと智己に歩み寄る。憎しみをこめて残した跡は事実だけを伝えていた。彼氏に寄り添い甘える姿は親に叱られた子どもと同じだ。
 無言の――無知だからこその攻撃に葉月は愕然とする。絶望にも近い気持ちがいっきに注ぎ込まれた。
 そしてこれが、理恵の狙いだということに気づかされる。
「行けよ」
 しばしの沈黙の後、智己が口を開いた。
 厳しい声に葉月の体が揺らぐ。
「早く行け!」
 智己の手はすでに葉月の背中を押し出していた。
 強い言葉の意味は読み取れない。その後ろにはまだ嘲笑うような視線も残っていた。ぴんと張り詰めた空気。騙されているのだと説明したくても、強い意志にはじかれる。
 自分は沈黙とも険悪とも言えぬ空間から追い出されたのだ。
 悔しさを残したまま、歩くしかなかった。
 葉月は足をひきずりながらもときた道をたどる。
 ついてきたのは絶望と悲しみ。これからどうすればいいのかという戸惑い。感情の行き場を失い、葉月は途方にくれていた。
 そして、部室棟までたどりついて――やっと心を許せる存在に遭遇する。
「葉月っ」
 亜由美の姿を見つけ、葉月の顔が緩みそうになる。
「こんな所で何やってるのよ! ただでさえ迷惑かけっぱなしなのに逃げるなんて」
「あたしだって好きでこんな所にいたわけじゃないっ!」
 売り言葉に買い言葉。葉月は思わず声を荒げてしまった。
「いきなり倉庫に閉じ込められてっ……すっごい怖かったんだから。ムカついて殴ってやったのに、田辺には誤解されるし、騙されるし――こっちがわけわかんないっての!」
 事の経緯を伝えるだけなのに、気持ちばかりが先走ってしまう。憎むべきは理恵のはずなのに智己への文句しか出てこない。これは完全な八つ当たりではないか。
「もう最悪っ。超信じられないっ。何なのよあのバカっ」
「で? これからどうするわけ?」
 もっともな質問が葉月を現実に引き戻す。葉月はかぶりを振った。一歩引いて事実を受け入れてはみたものの、あふれてくるのは絶望ばかりだ。
「諦めるの?」
「だってっ! どんなにがんばっても無理じゃないか。どうやって九時までに行けって――」
「この阿呆!」
 怒鳴り声が葉月の耳をつんざく。
「どうして揃いも揃ってバカなわけ? もっと頭使いなさいよ!」
 葉月はうつむいた顔を戻した。見上げた先に亜由美の不敵ともいえる微笑み。
「せっかくの休日に、私がここまで歩いて来るとでも思った?」
 すぐに地響きとも思える音が広がった。
 校庭を走るのは小さなトラックだ。ゆっくりこちらへ向かって来る。運転するのは葉月よりもずっと年上の青年――亜由美の彼氏だ。
「ここから競技場までの距離は約二十キロ。道が空いている休日なら、高速乗って何分で着く?」
 亜由美のもったいぶった問いかけに、葉月は間抜けな声を上げた。諦めかけていた心に希望という滴が溜まっていく。
 そして――
「佐藤っ」
 振り返り、目を疑う。
 智己が猛ダッシュで走っていた。まっすぐこちらに向かっている。腕にからみついていた理恵は――いない。
 追いつくなり、智己は手に持っていたワキシューを葉月に渡した。
「こんな大事なもんを忘れてどうする」
「え……」
「早く行け」
 数分前と同じ台詞が葉月の耳に届いた。
 さっきよりも穏やかな口調。奥に潜む意思は変わらないが――
「今から行けばギリで走れるんだろう?」
 その補足された言葉に葉月ははっとする。
 智己があんな突き放し方をしたのは、憎まれているからだと思っていた。悪意に振り回され、このまま誤解され続けるのかと。
 でもそれは違ったのだ。
 ワキシューを持つ手が震えた。嬉しくて苦しい。切なくて泣きそうになったが、今はそんな場合じゃない。
 葉月はその全てを笑顔に変える。確かな信頼を手にしてから大きく頷いた。
「急いで!」
 亜由美の声を合図に、時が回りはじめる。
 葉月は自分のスポーツバッグを掴むと、トラックの助手席に乗りこんだ。
「私は電車で追うから葉月は試合だけに集中して――慎、競技場までお願い」
 亜由美の呼びかけに運転手は短く返事をした。葉月もお願いします、と言葉をかける。エンジンが唸りをあげると、見送りの二人が車から一歩離れた。
 出発の直前になって智己と目が合った。
 葉月の心音が跳ね上がる。
 今まで文句を連ねてばっかりいたことを恥じもした。たった一言の優しさに舞い上がった自分がすごく単純だと思った。
 だめだ。もう耐えられない。
 気持ちがあふれて止まらない。
 葉月は窓から身を乗り出した。
「あたしっ――田辺とこのままでいるのは嫌だ!」
 突然の告白に智己は目を丸くしていた。
「呆れられても構わない。もう逃げないって決めたんだ。あたし、田辺とちゃんと向き合いたい! だから、大会終わったら――あたしっ」
 田辺に伝えたいことがある――
 葉月がそう叫んだのと同時に車が加速した。
 体が前に押し出され、シートベルトがぴんと張りつめる。中に溜まっていたもやもやの全てが吐き出されると、窓の外へ消えてしまった。ほんのりと頬が赤らんでしまう。
 最後の方は言い逃げに近かった。もしかしたら肝心の言葉は智己に届いていなかったのかもしれない。
 でも最悪な状況の中で言いたいことは言ったのだ。自分の気持ちに偽りはないし後悔もない。
「ま、いっか」
 楽天的に考えると張り詰めていた緊張の糸が少しだけほどけた。
 葉月のぼやきが、隣にいた運転手の表情を緩ませたことに気づいたのはそれからしばらくたってからのことだ。
 車は通学路を左折すると、高速の入口へと吸い込まれていく。料金所を超え、エンジンが最大音量を奏でると、トラックは右上がりの比例線を描き始めた。

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