黒い携帯電話を開くと、クラスメイトの久保から伝言が入っていた。
「足立亜由美の携帯ナンバー教えてくれ」
その一言に田辺智己はぽかんとする。三日ほど前に仲たがいした男が「恥をしのんでの頼み」と続けるから、最初は告白でもするのかと思ってしまった。
だが次に放たれた佐藤が行方不明、の言葉が世界を変える。久保の声には珍しく焦りが含まれていた。
「集合時間になっても来ないし病院にも試合会場にもいない。連絡ぐらいあってもいいのに、携帯の電源も切ってやがる。家に電話したら一時間以上前に家を出たっつうし……今、青柳に佐藤の家方面を当たってもらっている。俺らもアップの合間に周辺を捜す。あとの頼りはおまえらだけなんだ。まずいんだよ。あと一時間、最悪九時までに佐藤が来ないと――」
突然警告音が鳴る。久保の声はそこで途切れてしまった。改めて携帯のディスプレイを確認するが、そのあとに続く伝言は記録されていない。
着信時間は朝の七時四十五分。どうやら遅めの朝食をとっている間に電話をかけてきたらしい。
静けさのあと、感情の波がいっきに押し寄せた。
幾つもの疑問を投げかけてみるが、当然ながら答えは返ってこない。苛立ちとともにぐるりと部屋を駆け巡るだけだ。
智己は自分の拳を額の上に叩きつけた。全ての感情を切り離し、頭の中を整理する。
残されたメッセージの中から大事な言葉だけをかいつまむ。
久保は亜由美と連絡を取りたがっていた。葉月が親友の元にいるのだという可能性を考えたのだ。
だったら、久保の要求をのむより自分が伝書鳩になって折り返し電話する方が早いのかもしれない。
智己は携帯を開いた。電話帳から亜由美の情報を引き出し発信ボタンを押す――
同時にしまったと思った。
亜由美の人間関係は敵と味方、傍観者のいずれかだ。敵とみなされた相手の電話は取らないかもしれない。
背中にざらっとしたものが張りついた。心音とともに大きくなるのは不安。
だが呼び出し音が消えたことで智己のそれは杞憂で終わる。とはいえ、亜由美の第一声はふてぶてしいものだった。
「何よ」
敵意むき出しの出迎えに智己はむっとするが、ここは気持ちをぐっと抑えた。今は久保の言葉を伝えることに専念する。
「佐藤がいなくなった」
「は?」
「家を出たまま行方不明らしい。試合会場にも来ていない。俺か足立の所に来ていないかって、さっき久保に聞かれた」
「こっちには来てないわ」
状況を察したのか、声に刺々しさが抜けた。真剣な口調に智己は少しだけ安堵する。
「久保の奴、九時までに佐藤を見つけないと相当やばいみたいなことを言ってた……あいつ、何か頼まれてたのか?」
「……」
「足立?」
「たぶん、その時間に競技がスタートするか参加受付のリミット、なんだと思う」
「参加、って」
予想もしなかった単語に息をのんだ。
三日前、確かに葉月は物惜しそうな目で大会プログラムを見ていた。
だが――走るなんて話は聞いていない。
「冗談だろ。あの足で走ったら相当やばいんじゃないのか」
「でしょうね」
「誰も止めないのかよ! どうして」
「阿呆! そんなこともわからないの?」
亜由美の一喝に体が震える。
「葉月が今日の大会出られなかったらあんた、自分を責めるでしょ? それが嫌だから葉月は走るって言ったの! あんたにサッカー辞めてほしくないから、負い目を感じさせたくないから、って。本当は医者から止められていたのよ。無理言って痛み止めまで打って……なのにあんたが葉月の気持ちを踏みにじるから!」
亜由美の怒りはすでに受話器を突き抜けていた。
「頭ごなしに否定して葉月の気持ち無視して……まさか自分だけカッコつけるつもりだったっていうの? 葉月の言うとおり、責任とって辞めることが自分にふさわしい罰だと思っていたわけ?」
見透かされたような言葉に智己はぎくりとする。
というのも今、机の上には先週から用意していた退部届があるからだ。今日、立夏会が終わったら提出するつもりだった。
直接の原因でなかったとしても、葉月に怪我を負わせたことが許せなかった。サッカー部を取りまとめる者としてそれなりの責任を取るつもりでいた。
それは誰にも相談せずに決めたこと。なのに、葉月は最初から気づいていたなんて――
智己は携帯を強く握りしめた。声は耳から届いているはずなのに、胸が痛い。
「佐藤は……俺のために大会に出ようとしてたんだな」
「そうよ。それが自分のためでもあるって信じてた」
葉月が隠していたのは「走ること」であり、「壊す」ことではなかった。先日起きた部室荒らしとは最初から関係なかったのだ。
誤解だったとはいえ葉月にあらぬ疑いをかけたことを智己は悔やむ。自分の勘違いを亜由美に話すべきかで迷った。
だが訴えたとしても言い訳にしかならない。結果として葉月の想いを否定した事実は変わらないのだ。
「悪かった」
智己は全てを呑みこんだ。無意識に頭が垂れる。
「別に……私には謝らなくていいわよ」
「そうだな」
少しだけ和らいだ口調に智己は苦笑する。謝る相手が違うと分かっていても言わずにいられなかったのだ。
「足立、佐藤が行きそうな場所に心当たりはないか?」
「心当たりっていっても……こんな朝早くに行ける場所なんて何処があるっていうの」
今、葉月の家の周辺は彼方が当たっている。競技場に久保や陸上部がいる。
あと考えられる場所は――
「学校はどうだ?」
智己はひとつの可能性を呟いた。口にしてその思いが確実なものになる。
そう、葉月の足はいつだってグランドに向いていた。
その日が楽しくても、辛いことがあっても――いない時は何かあったのか、こっちが不安になったほどだ。
きっと葉月にとって「走る」ということは生活の一部となっていたに違いない。
智己の考えに、受話器の向こう側にいた亜由美も納得したような声をあげた。
「手あたり次第当たるよりは確実かも」
「俺、行ってみる」
「私も行く」
「え?」
「せっかくの休日を邪魔されたのよ。あのバカに一発怒鳴ってやらなきゃ割が合わない」
それが亜由美なりの心配だということは十分に伝わっていた。
三十分後に会うことを約束すると一度電話を切る。今度は久保に電話をかけた。こちらでも探す旨だけ伝え電話を切り上げる。
すぐさま制服に着替えた。上着をはおり、青いジャージの入ったバッグを掴む。全てが整った所で机に向かう。
そこで改めて、白い封筒と向き合った。
結局、葉月は責任を取ることを求めなかった。
悔しさも悲しみもあったはずなのに、全てを受け止めて前へ進もうとしていたのだ。
その覚悟を思えば、責任を紙きれで済ませようとした自分が浅はかに思えてならない。
智己は退部届を掴むと、迷うことなくゴミ箱へ突っ込んだ。
休日のせいか、電車はいつもよりも空いていた。
智己は車両内を移動して乗客を観察するが、葉月らしき女性の姿はない。
仕方なく智己は学校の最寄りで下車をした。いつものように定期券をかざして改札を抜けると、やわらかな風が迎えてくれる。
亜由美は駅を出た先にあるロータリーにいた。
淡い色のアンサンブル。組み合わせたデニムパンツがスレンダーな体形に似合っている。与えられた時間は三十分なのに髪は綺麗に結いあげられ、薄く化粧もしていた。丁寧なことに小さなトラックと年上の運転手までついている。
「狭いけど後ろ乗って」
智己が勧められたのは軽トラックの荷台だ。そこには智己以外の「先客」がいる。今日の目玉賞品なのだと亜由美は説明した。
「慎が学校行くついでに置いていくって。いいわよね?」
「それは構わないけど」
智己は品物を再び見上げた。自分より先に乗りこんだ「それ」はまだ新しい。大きさと価値を考えたら一時でもそれなりの場所へ保管しておいた方がいいだろう。
こんな状況で電話をかけるのは気が引けるのだが、仕方ない。
智己は荷物の傍らに座ると、携帯電話を取り出した。車が一定の速度を保ち始めたところで部室の鍵を保管している人物に連絡を取り始める。
今日三回目の発信――理恵の声はすぐ届いた。
「おはよ。朝に電話くれるなんて珍しいね」
「ああ。ちょっと聞きたい事があって……」
「何?」
「昨日帰るとき、部室の鍵はどこに隠した?」
「え」
「今日使う荷物を預かったんだ。大事なものだから鍵付きの場所に置こうかと思って。今、荷物と一緒に学校へ向かってる」
風の音に煽られ、こっちの声が大きくなってしまう。理恵がしゃっくりにも近い声を上げたのはそのあとだ。
「私……今学校にいるの」
理恵の言葉に今度は智己が驚いた。
最初に思ったのは葉月の存在。
「今理恵以外に誰かいるか? 学校で誰か会わなかったか?」
「ううん。私、七時前からいたけど――まだ誰も来ていないよ」
会話が終わり、電話を切る。
葉月の行方は以前掴めないままだ。
一体何があったのだろう。まさか、事故にでも遭ったとでも――
智己はぶるり、と首を振った。押し迫る不安を落ちつけようと、周りの景色を見やる。
自然と対向車線の向こう側を歩く人間に目がいった。
自分が持っている部活ジャージと似たような青。バンダナがわりに巻いた白いタオルが、頼りない歩道に浮かんでいる。
最初は近所に住む人間か、な程度にしか考えてなかったが……
「え……」
男の手が頭に触れた次の瞬間、智己は目を見張る。
解かれた白い布からのぞかせた炎。燃えるような赤を持つ顔は記憶の中にある人物と同じものだ。
どうして。何故――謹慎中の人間がこんな場所に?
ふっと湧いた智己の疑問は対向車の騒音にはじかれた。とっさに叫んだ安原、の声も届かない。
何もなかったかのようにトラックは速度を上げる。安原の足は側にあったコンビニに吸い寄せられ、智己の視界から消えた。風とともに景色がさらりと流される。
一体どういうことなのだろう。
安原の家はこの付近でない。それなのに安原はトラックの進行方向とは逆――つまり、学校側から歩いてきた。
理恵は学校には誰もいないと言っていた。
自分の見たものは他人のそら似、だったのだろうか。
突然現れた赤い影に智己は疑問と否定を繰り返す。そうこうしているうちに車は学校の校門を通り過ぎてしまった。
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