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7 立夏
  
 開けた窓から心地よい風がすり抜ける。  
 いつもは停滞ぎみなバスであったが、日曜日の今日はスムーズに進んでいた。 
 高速のインターに向かう車も分岐点へ颯爽と流れていく。 
 誰もいない車内で葉月はゆっくりと首を回した。反対側のガラスに映し出されるのは強ばった顔。 
 でも心地よい緊張だ。 
 今日こそ、ちゃんと気持ちを伝えられるだろうか。 
 佐藤葉月は制服のポケットに手をしのばせた。携帯を取り出し、昨日届いたばかりのメールに再び目を通す。
  
 <<この間はごめん。 
 心配でどうしようもなかったんだ。 
 無茶をするんじゃないかって 
 気が気じゃなくて…… 
 本当に、ごめん。  
 図々しいのは分かっている。 
 けどもし許してくれるなら 
 明日二人きりで会えないだろうか。 
 聞いてもらいたいことがある。 
 とても大切な話なんだ。 
 朝七時、学校のグランド。 
 来るまでずっと待っている>>
  
 このメールを送ってきたのは同級生の田辺智己だった。 
 一年の時のクラスメイト、部活でのお隣さん、ずっと友達でいるのだろうと思っていた少年――だったはずなのに。その存在は去年の夏から大きく変わってしまった。 
 葉月が自分の気持ちに気づいたのは智己に彼女ができてからだ。 
 恋を自覚してからというもの、葉月は気持ちのやり場に困っていた。 
 智己からあふれる何気ない言葉や優しさは葉月の心に切なく響く。苦しいのに嬉しい、想いを知られるのが怖いから逃げるのに、そばにいたいと願い近づく。そして現実を知り混沌の世界に落とされるのだ。 
 久々に会話を交わしたのは一週間前――自分が足を怪我した時だ。 
 全治三週間の捻挫は目前に迫った陸上競技大会の出場を絶望的なものへ変えてしまった。 
 それは本来、智己が受けたであろう被害だった。 
 高校生最後の試合を諦めなければならない――葉月はその悔しさをぶつけることができなかった。智己が他の誰よりも罪悪感を持っていることに気づいてしまったからだ。 
 自分がハードルを諦めなければならないように、智己も大切な「何か」を諦めてしまうかもしれない。 
 そう思った時、解決方法は一つしか思い浮かばなかった。 
 テーピングだけ巻かれたそれははまだ心もとない。でも体重を傾けすぎなければ歩くのに問題はなかった。痛み止めを打てば一定時間走ることだってできる。 
 それが無茶で馬鹿だと知っていても、わずかな可能性に賭けるしかない。 
 葉月は携帯を閉じた。背もたれに体を委ね、そっと目を閉じる。 
 智己の言う「大切な話」とは何だろう。 
 無理して走ることに対するものだろうか。 
 また反対されるのだろうか。 
 できることなら自分にとって辛くない話であってほしい―― 
 しばらくして、バスのアナウンスが高校の名前を告げた。 
 葉月は停車ボタンを押しバスを促す。運賃を払い、わずかな段差を一歩ずつ降りていく。毛先が眉の上で騒ぐのは久々に前髪を切ったから。ほんの数センチなのに自分の周りにある世界がやけに広く感じた。 
 晴天に恵まれた空を一度仰いだあとで、葉月は手元にある流線形に目を落とす。指定された時間にはまだ二十分以上の余裕があった。 
 陸上部の面々とは七時半に駅のホームで待ち合わせの約束をしている。 
 智己の言う話がどのくらいの長さになるのかは分からないが、最悪一時間以上かかったとしても点呼――コールには間に合うだろう。 
 校門を抜け、ゆったりとした歩調でグランドに向かう。 
 湿ったアスファルトは昨日降った雨の置き土産。わずかに感じる湿気は梅雨が近い合図なのだろう。それを超えたら夏――バッグの中にある「ワキシュー」が最も活躍する季節だ。 
 ふと、葉月は足を止めた。 
 待ち合わせ場所であるグランドに今一番会いたくなかった人物を見つけたからだ。 
「おはようございます」 
 智己の恋人――加山理恵は葉月に気づくとバインダーを抱えたまま会釈をした。年齢よりも幼く見える顔、ふわりとした印象はいつ見ても変わらない。 
 自分とは真逆の存在に苦手意識はあったが、相手の挨拶を無視するのはなんとなく気分が悪い。 
 葉月は短く挨拶を返した。 
「早い……んだね」 
「今日は立夏会なので早めに来てるんです」 
 それはもっともな理由だった。ここ最近は試合のことで頭がいっぱいになっていたが――今日が卒業生に向けた創立記念祭であったことを思い出す。確か今年はフットサル大会だと聞いていた。 
 葉月はそっか、と口にし、次の言葉を探した。どうにかして話を切り上げようとするが、そのきっかけは意外にも理恵の口から運ばれる。   
「その、今日佐藤先輩がここに来ること……聞いてます」 
「え」 
「今は体育館裏にいますから」 
 そう言って理恵は自分の作業に戻っていった。 
 待ち合わせの経緯は聞いてこないのは理恵なりの礼儀なのかもしれない。理恵は自分とは違い、相手の意見を尊重する奥ゆかしさがある。 
 それでも――内心では自分のことを快く思ってないはずだ。 
 理恵の心境を考えたものの、葉月がそれを口にすることはなかった。個人の好き嫌いを理由にして本来の目的をすり替える必要はない。 
 葉月は「ありがとう」とだけ告げると体を翻した。 
 グランドから離れ、部室棟の前を経由し、体育館という建物を外側からなぞる。 
 ――体育館の裏にある倉庫でジャージの後姿を見つけた。 
 今日は頭に白いタオルが巻かれているが、青で統一された着こなしは部活中によく見ていたものだ。 
 葉月は歩調を早めた。追いつく前に声をかけようとするが、青い背中はそれをかわすかのように重い引き扉を開け中へ入ってしまう。葉月もすぐに追いかける。 
 倉庫の中はひんやりとしていた。 
 昨日の雨のせいか、飽和した汗とかびの匂いが際立っている。 
 葉月は室内をぐるりと見渡すと闇の奥へ足を運ばせる。視界が慣れてないことに躊躇いはなかった。 
 少しして葉月の後ろで金属か何かがぶつかる。 
 音に誘われ、反射でつい振り返る。感じたのは人の気配。 
 いきなり服を掴まれ、口を生温かいもので封じられた。突然のことによろめくも無事な方の足でかろうじて踏ん張る。わけのわからぬ引力に逆らおうと必死でもがいた。 
 手が何かに引っかかると口をふさいでいたものが今度は首に降りてくる。沿った体が得体のないものに押しつぶされる。 
 直視したのは今までにない闇の塊――死にも近い恐怖。 
「いっ、やぁっ!」 
 喉を潰されたまま、葉月はおののきとも言える情けない声を吐き出した。 
 刹那、葉月を覆った影が揺れる。片方にこめられた大きな力はみぞおちに当たる寸前で止まった。 
 無我夢中になって払ったものが、相手の肩にだらりと下がる。扉の向こうの光が差しこみ、太陽にも似た緋色があらわになる。一本一本が光に跳ねるさまは不釣り合いなほど美しい。 
 だがそれもすぐに陰りを見せた。 
「どういうことだ」 
 葉月とは別の気配に安原が吠える。その眼差しはすでに葉月を離れていた。 
「犯人がいるって言ったのはそっちじゃねえか! 今日ここに来るって――」 
「私にとっての『それ』はこの女だけよ」 
「なっ……」 
「馬鹿な男。どうせろくでもないことを考えていたんでしょう?」 
 理恵は腹の前で手を組み、柔らかな笑顔を見せていた。そのたたずまいを見たら教会にあげられる聖女と例えられるだろう。 
「このことは見なかったことにしてあげる」 
 与えられた慈悲に安原は舌打ちをした。 
「っざけんな! 何が『見なかったこと』だ。俺を騙しやがって」 
「じゃあこの女を襲うつもりだったと言うまでね」 
「何?」 
「動機は理不尽な処分を受けたことに対する逆恨み……別に、何を言ったって知ったことじゃないんでしょう? 想像するのは向こうの勝手。そう言ったのは誰かしら?」 
 理恵の唇はほころんでいた。だが目が笑っていない。向けられた眼差しは刃物そのものだ。 
 重い沈黙が広がる。 
 葉月はというと、二人のやりとりに困惑していた。しゃがれた喉は唾をのみこむことで解消されたが頭が追いつかない。 
 それでもこの空間にある、ただならぬものはびしびしと感じていた。 
 驚くべきは理恵の立ちふるまいだ。 
 理恵にとっての安原は天敵、これまでその存在にずっと怯えていたはず――なのに今はその立場が逆転している。 
 一体何が起きているというのだろう。 
 ここにいるのは本当に理恵なのだろうか。安原は何故こんなことを…… 
 そこまで考えて葉月ははっとする。 
「田辺……は?」 
 思わず口走った言葉に、天敵同士の睨みあいが止まった。 
 先にこちらを見たのは安原だ。理恵に向けられた怒りは抜け、信じられないような面持ちで葉月を見ている。 
 そこへ理恵の視線が絡んだ。 
「安原」 
 含みを持たせた笑みに戦慄が走る。安原の喉が上下に動いた。 
「あんた、私が何を考えているか知りたいんでしょう?」 
「……ああ」 
「だったら私の邪魔をしないで」 
 それは親が子をたしなめる口調に似ていた。しかし周りに与えた威圧感は大人さえ凌ぐものだ。 
 たった一言の命令が安原を突き離す。選ばれたのは人間としての常識ではなく、好奇心だった。 
 安原は葉月に一度だけ後ろめたいような視線を残すと、倉庫から退散する。入れ替わるように、理恵が近づく。覆いかぶさる影が先ほど味わった恐怖と重なった。 
「そんなに怖がらなくても大丈夫ですよ」 
 理恵は静かに微笑んだ。 
「先輩はここでおとなしくしてくれればいいのだから」 
「どういう……こと?」  
「先輩を引きとめるよう、智己に頼まれたの」 
 耳を疑った。 
「先輩が無茶をしないように閉じ込めておいてくれ、って」 
 よどみない台詞に隙はない。穏やかすぎてつい流されそうになる 
 だが―― 
「嘘だ」 
 かろうじて葉月は踏みとどまった。 
 智己との間に意見の食い違いはあるが、そんなことを企むとは思えない。ましてや恋人である理恵にこんな手荒なことを頼むなど―― 
「ありえない。こんな卑怯なこと、田辺は絶対にしない!」 
「まるで智己のことを全部分かっているような言い方をするのね」 
 祈りをささげるようないでたちで理恵はくすくすと笑っていた。 
「でも、その強気がいつまで続くのかしら?」 
 理恵は残り一歩を踏みしめた。固まる葉月に手を伸ばし上着ポケットにあった携帯電話を抜き取る。人の荷物を掴み颯爽と歩く後ろ姿は悔しいほど自信に満ちあふれていた。 
 呪縛から抜け出せたのは扉が閉められたあとだ。 
 いっさいの光が閉ざされる。むなしく響く施錠の音。渦巻くのは疑問と不安――恐怖と怒り。 
 訪れた闇の世界に、葉月の心が震えた。
  
 
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