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 その日、足立亜由美は受話器を持ったまま体をこわばらせていた。
 耳に届いたのは聡明で張りのある声。それでいて記憶のどこかに残っているような――不思議な声。
「慎せ……いえ、店長さんいらっしゃいますか?」
 相手の女性は確かにこの店の主である中嶋慎を――しかも名前で呼んでいた。そしてすぐに店長さん、と言葉を変えてきたのである。
 自転車で埋め尽くされたこの空間が急に色あせた。
 付き合って二年以上が経つが、確か慎は男兄弟だったと聞いていた。親は両方とも他界している。
 だとしたら親戚か、それとも――
 亜由美の頭の中で様々な疑問と可能性が繰り広げられる。でも結局は、どちら様ですか? と無難で核心をついた質問しか出てこない。
「あの、どういったご用件でしょうか?」
 亜由美は学校の進路実習で学んだ言葉をそのままなぞる。高鳴る心音。向こうからの答えを聞こうとして――受話器を奪われた。
 余計な事をするな。
 目の前に現れたつなぎの男は目でそう訴えていた。
 自分が用無しだと分かった時点で、現実が再び色づく。
 灰色の事務机に同色の戸棚。月別に仕分けされた防犯登録の控え――仕切りの向こう側が雑然としているのは、今後の天気を見越した慎が外に置いてあった商品を店内に回収したせいだ。ここと修理スペース以外の通路はすでに自転車でふさがれてしまった。
「――了解。明日そっちに持って行くよ。何時がいい?」
 穏やかな声が亜由美の横をすり抜ける。
 そこには慎の柔らかな笑顔があった。会話の端々に見せる瞳の輝きはまだ少年だった頃の無邪気さを感じる。
 亜由美の中で不穏な空気がとりまく。電話に出てからまだ二分にも満たないはずなのに、倍以上の長さを感じていた。
 だめだ。こんなことにうろたえてどうする。
 亜由美は慎に背を向けると、小さな台の上に用意されたコーヒーセットに手を伸ばした。
 インスタントコーヒーひとさじに対しポットのお湯は七分目まで――
 いつもの手順をなぞることで、亜由美は冷静さを戻そうとしていた。次に起こるべき展開とそれに対する答えを探す。 
「亜由美」
 濃いブラックができた所で、低い声がした。まっすぐにたなびいていた湯気が、大きく揺らぐ。振り返った先にあったのは感情をなくした、顔。
「やるのは伝票整理だけって言っただろ」
「……電話に出るくらいいいじゃない」
 亜由美はつとめて冷静に対応する。重たくなったマグカップを机に置いた。
「慎だって接客とかで手が離せなかったんだし」
「じゃあ俺が店にいない時も、おまえは客の質問や要望に答えてくれるっていうのか?」
「それは」
 できない、と答えるのが正解なのだろう。完全に覚えてない自分が慎の代わりなどできるわけがない。
「もう余計なことはするな」
 その一言が亜由美を突き放す。瞬間、どうしてという疑問が湧く。
 自分はただ、慎の負担を軽くしたかっただけだ。少しでも力になれればと思ったのに――
「私のしたことって、そんなに迷惑?」
 用意していたはずの言葉は感情にあっさりと負けてしまう。つい、喧嘩腰で尋ねてしまった。
「っていうか、女の人からの電話だったから、出てほしくなかっただけじゃないの?」
 そこまで言って亜由美はしまった、と思った。
 これでは電話の女性にやきもちを焼いているだけではないか。
 思わぬ失言に亜由美は口元を指で隠した。慎はというと煙草をくわえ、なるほど、というような顔をしている。その指はライターの発火装置を探っていた。
 小さな炎が煙草の先端をちりちりと焦がす。
「さっきのは学生ん時の仲間」
 白い息が大気にまぎれたところで、慎はぽつりと呟いた。
「明日までに一台見つくろってほしいって頼まれただけだ」
 ちなみにそいつは彼氏もち、と慎は続ける。
 あいた方の手で、くしゃり、と亜由美の頭をなでた。
「まったく、何を勘違いしてるんだか……それとも、俺が慌てた方がよかったのか?」
 慎の呆れたような台詞に亜由美は口を閉ざす。そんな穏やかな瞳で見つめられると、幼稚なことを考えてしまった自分が恥ずかしくなってしまう。
「慎は大人だよね」
 皮肉をこめて亜由美は言った。
「いっつも余裕だし、思っていることなかなか表に出さないし」
「何だよ急に」
「別に」
 亜由美は机に置き去りにされた子機を手に取ると元の場所へ戻した。無機質な機械音が再び充電を始める。
 慎はいつもそうだ。
 一緒にいる時は冷静で穏やかで、弱音を吐くこともない。
 だから感情をあらわにしてしまうのもこっちが先。慎はいつも聞き手にまわっていて必死に取り繕った鎧を簡単にはぎ取ってしまう。渦巻く不安や悲しみをくるんでしまう。それに救われているのも事実だが、喧嘩をするたびに自分がまだ子供だということを思い知らされる。
 ばつが悪くなった亜由美はそっと目をそらした。
 気持ちを紛らそうと仕分けした伝票の束をまとめ紐で閉じる。うつむいての作業なのでサイドにあった黒髪がはらはらとこぼれた。細い指が動くのに邪魔な分だけをすくい取る。
 慎の口から言葉がこぼれたのは、その奥に光るものを見つけたからだろう。
「ちゃんとつけてるんだ」
「……慎がつけろって言ったんでしょ」
 亜由美は自分の耳に手をあてる。
 形の良い耳を飾るのは四月の誕生石だ。
 屈折を繰り返すことで輝きを増す石は十八歳を迎えた日に慎がくれたものだった。
「これ、毎日つけてなきゃだめなの?」
 小さな粒を指でなぞりながら亜由美は問う。
 最初、亜由美はこのピアスをつけることを躊躇っていた。
 恋人からのプレゼントはとても嬉しかったが、石の価値がどれほどか知らないわけじゃない。そして学校という狭い空間に〇.四カラットのダイヤは神々しくもどこか浮世離れした気がしてならなかったのだ。
 できることならこのピアスは大事な時にだけ使いたい、そう思っていたのに――
「当然」
 慎は女心をあっさりと打ち砕くから困ったものだ。物は使いこんでこそ味や愛着が出る。それが慎の持論らしい。
「体育の時とか目立ってしょうがないんだけど」
「だろうな」
 慎は残った煙草を灰皿に押しつけた。亜由美よりもずっと大きな手がカップの持ち手を掴む。
「おかげで考えなしに近づく野郎がいなくなっただろ?」
 言葉はあまりにも流暢すぎた。
 ああ、言われてみればそうかもしれない――そう言いそうになって亜由美ははっとする。
 思わず慎を凝視してしまった。
 今は悠長にコーヒーを飲んでいるが、慎は大変なことをさらっと言ったのだ。
 しかも何故、疑問形で返すのだろう。
「……私、モノとかペットじゃないんだけど」
「分かってる」
 カップを置く音が響いた。
「でも俺だって――亜由美が思っているほどの余裕なんて持ってない」
 気がつけば大きな影が亜由美を包んでいた。慎の唇が触れる。むせそうなほどの煙草とコーヒーの香り。内に秘めた情熱が体の中をいっきに駆け巡る。
 ずるい。やっぱり慎の方が一枚上手ではないか。
 耳に残る言霊に酔いしれながら、亜由美はひとつ、ため息をこぼした。 
「そういえば前に言ってた二人はどうしてる? あれから仲直りしたの?」
 熱が落ち着いた頃になって、慎が口を開く。
 亜由美も二人が誰を示すのかを理解すると、さっきとは別のため息が出てしまった。
 思い出すだけで浮ついた気持ちが一気に沈んでいく。答えるなら最悪、というのがぴったりなのだろう。
 智己の豹変ぶりには亜由美をひどく驚かせた。
 確かに今の状況で葉月を走らせるのは無謀としか言いようがないし、智己がいてもたってもいられなかった気持ちも分からなくはない。
 でも葉月を心配こそすれ、あんなにも怒る必要があったのだろうか。
 だいたい葉月に謝罪を求めたというのも意味不明だ。そしてあの台詞。
(結局、俺を追い詰めたかっただけだろう?)
 亜由美の中でその一言が今も引っ掛かっていた。
 葉月は智己が抱えこんだ苦しみを取り除いてあげたかっただけだ。それは智己にとって泣くほど嬉しい言葉なのではないのだろうか。
 まさか自分だけのけものにされたことが悔しかったとでも――
 そこまで考えて、亜由美はかぶりを振った。
 違う。
 智己はそこまで心の狭い人間ではない。
 智己は相手のことを心から思いやれる男だ。中途半端な優しさで足をすくわれることはあっても、悪意で人を傷つけることは絶対にしない。相手が葉月であるなら尚更だ。
 そうなると葉月の方に智己を怒らせるような非があったということになる。
 しかし、思い当たるふしがどこにも見つからない。
 どこかで、何かが噛み合っていない――
「降ってきやがった」
 慎のつぶやきが亜由美の脳天に落ちた。
 落ち着いた声は肩をすべると、くすぶっていた心の中へすっとしみこんでいく。
 屋根を奏でる音は激しさを増していた。まるで大量のビー玉を転がしたようだ。
 刹那の光が亜由美の体温をすっと下げる。音が途切れてもなお、余韻は警笛となって頭の中で響き続けた。天からの恵みが目の前の世界をけむに巻く。
 そういえば、こういった突発的な雨は長く続かないと、小さい頃誰かに聞かされていた気がする。
 どんなことがあっても雨はいつか止む。
 そして希望の光が未来へ導いてくれるのだと。
「明日……晴れるよね」
 ぽつり、亜由美はつぶやく。答えはすぐに返ってきた。
「晴れるよ。予報じゃ夏日になりそうだって」
 それは当り前でさりげない言葉。亜由美の表情がふっと和らいだ。うるさかった雨音が遠のいていく。
 明日は陸上大会の最終日だ。
 親友にとってかけがえのない時間がひとつ、終わりを迎えようとしている。
 葉月のことだ。きっと怪我をしたことも忘れて、喜びや悲しみを受け止めて最後まで走るのだろう。 
 どうかその強さが葉月のこれからを支えるものであるように――
 先を急ぐ雲を見送りながら、亜由美はそっと願った。

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