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 その日、青柳彼方は部室棟の前にいた。
 ドア越しに届いたご愁傷様、の言葉に凍りつく。抱えていた缶ジュースの箱を思わず落としそうになった。両腕に下げていた菓子袋がぐらぐらと揺れる。
「智己は私のものよ。だから誰にも渡さないの」
 どろりとしたものが彼方の背中にはりつく。追いうちをかけた一言に今度こそ段ボールの角が扉に当たってしまった。
 盛大な音に彼方の背中が更に丸くなる。何とか荷物を抱えなおそうとするが――扉が開いてしまった。
 顔を合わせた途端、お互いの口から、あ、と言葉が発せられる。
 扉の向こう側にいたのは理恵だった。
 理恵は黒い携帯電話を持ったまま目を丸くしている。
「何……か?」
 彼方は背筋を伸ばした。あえて何も言わず、品物を差し出す。
「これ――立夏会の幹事から差し入れ」
「ありがとう、ございます」
「どこに置いたらいい?」
「じゃあ……」
 理恵は部室の奥にある机を示そうとして――はっとした顔をした。置いてあった紙が白い指に掴まれ、彼方の視界から消える。
「すみません。すぐに片付けますね」
 理恵の背中で紙をつぶす音がした。首が締めつけられるような感覚。生々しい音色に彼方は歯を噛みしめる。
 理恵は散らかった携帯電話と財布を集めると大きめの巾着袋へおさめていた。彼方は視線をそらし、指示された場所へ荷物を下ろす。邪魔にならないよう隅に寄せておく。
「幹事って、先輩のお姉さん――でしたよね?」
「そう、だけど?」
「お姉さんっていい人ですね」
 突然の賛辞にどこが、とつっこみたくなった。
「前に会った時、相談に乗ってくれて……私、お姉さんにはとても感謝しているんです」
 そう言って理恵は口元をほころばせた。湿気を含んだ森に一輪の可憐な花が咲く。だがそれは今にも吐きそうなくらいの毒々しい闇をまとっていた。
 ひたひたと忍び寄る悪意は彼方の苦手な水の世界をはるかに凌いでいる。
 気持ち悪い――
 彼方の足が一歩、引いた。
「俺……他にも頼まれてることあるから」
 彼方は理恵から離れた。後ずさりするような形で忌々しい場所を抜け出す。
 最悪だ。
 姉の用事に付き合わされてこき使われて、ただでさえサッカー部には近づきたくなかったというのに――理恵にあんなおどろおどろした部分があるなんて思いもしなかった。
 理恵は遙に感謝していると言っていた。遙は何をほのめかしたのだろう。
 彼方は先ほどまでの記憶をたぐり寄せる。
 理恵が手にした携帯は女子高生が持つにはあまりにも渋すぎる。あの黒塗りはどちらかといえば男性が好みそうな色合いだ。
 理恵が持っていたのはたぶん、智己の携帯だろう。
 彼方は眉をひそめた。人のプライバシーを覗くという行為は見ててもあまりいいものではない。
 だが責めるつもりはなかった。むしろこのまま智己を縛りつけてくれればとさえ思ってしまう。
 そう、ささやかな願望は時にひとを狂わせるのだ――
「……醜いな」
 彼方はぎしぎしに詰まった感情を言葉とともに吐き出した。さっき部室で見たものと同じものが出てきてもおかしくないと思っていたが、どんな言葉も世の中には無色透明でしか現れてくれない。ぽっかりと穴のあいた心に宿ったのは自分に対する憤りと虚しさだけだ。
 全てを吐きだしたあとで、彼方は思う。
 葉月は今もこんな気持ちと戦っているのだろうかと。
 彼方はズボンのポケットを探った。自分の携帯を取り出すとメモリーの中から未だに消せない番号を選択する。
 三回ほどコールを聞いてから声が届いた。
「佐藤、か?」
 背景には何かしらのアナウンスが聞こえる。すぐ近くでファイト、の声が耳に届いた。
 どうやら応援の途中だったらしい、慌てて葉月が輪唱している。
「ごめん、今仲間が走ってて――どうした?」
「いや。たいした用じゃないんだ。その、明日どうするのか……ちょっと気になっただけだから」
「やるよ」
 返事は即答だった。
「あたし焦ってた。思いあがってたのかもしれない。自分のすることが必ずしも正しいとは言い切れないって知ってたのに……またバカやっちゃうとこだった」
「何かあったのか?」
「ううん。今度は誰かのためじゃなくて……自分のためだけに走ろうって、そう思っただけ」
「そっか」
「ごめんね。いろいろ心配かけちゃって」
 もう大丈夫だから、と伝える葉月の声は明るい。トーンを上げることもなく、とても穏やかなものだった。
 おそらく、今の言葉は葉月の本心なのだろう。
 翌日は葉月が出場するハードル競技がある。もちろん彼方も葉月の決意を最後まで見届けるつもりでいた。
 葉月から競技のスタート時間を聞き電話を切る。ひとつだけため息をこぼしてから天を見上げた。
 頭上にたなびく黒ずんだ空。肌に感じる生温かい空気と湿気はいかにも嵐の前触れを知らせていた。
 重く垂れた雲は葉月が風邪をひいた冬の日を思い出させる。
(ごめん。たとえ付きあったとしても、あたしは青柳を傷つけることしかできない)
 あの日、葉月は彼方にはっきりとそう言った。
 こみ上げる咳に耐えながら、それでも淡々と語るその姿は凛としていて、美しいさえ思った。
 本当は告白する前から覚悟はしていた。己に素直な葉月が簡単に気持ちを割り切る人間ではないことも分かっていたことだ。
 だから彼方は今までどおりでいいと言ったのだ。
 最初から一方通行だったわけだし、この先葉月が傷つく必要も最初からないと。
 でも実際は葉月が抱える罪悪感に甘えていたのだと思う。
 あれから数か月近く経とうとしているが、その間、葉月の言動の中に彼方を気遣うようなふしがいくつも見受けられた。そのぎこちなさはあからさまで滑稽で――少しだけ疎ましかった。
 だから彼方も葉月をからかうことで虚勢を張り続けていたのである。
 皮肉なものだ。失恋してからの方が葉月とうまくいっている。周囲がそんなやりとりを勘違いしたのもその頃からだ。意外だったのは葉月が恋焦がれる人物がそのことを知らなかったことだ。
 智己から葉月とのことを聞かれた時は驚いた。そしてその一方でしゃあしゃあと話しかける智己に憤りを感じていた。あの時、彼方が赤鉛筆を選んだのは直感だったが、嘘をついたのは単なる嫌がらせに他ならない。
 なのに、どうしてだろう。
 智己を取り巻いていた空気はすんなりと絵の中に溶けこんでしまった。色も雰囲気も全くの正反対なのに、智己が訴えたものは向かいのページにいる青の葉月のとほとんど変わらないなんて――
 その時、彼方は己の感性を恨んだ。
 性格も考え方も違うのに、二人の本質は重なっている。嫉妬に焦がれていたのは自分の方だった。
 もしかしたら恋に踊らされていたのはこっちの方だったのではないのだろうか。
「ひでえよな……」
 彼方の口から愚痴がこぼれた。視線の先にあったのはグランド。向こう側にいる人物がやけに際立って見えるのは、まだ憤りが残っているせいだろう。
 智己は机や椅子を運ぶ部員たちの中にいた。
 キャプテンらしく仕切りながら、時に後輩たちを茶化しながら作業を進めている。先日のようなおどおどした姿はどこにもない。
 智己を殴りたいのは山々だ。
 しかし――できない。
 葉月がそれを望んでいないとあの瞬間悟ってしまったから。
 見逃すのは葉月の悲しむ顔を見ないための、彼方にできるせいいっぱいだった。
 彼方は歩く方向を変えると今度こそ遙の元へ向かう。すかすかの駐車場に置いてあった自動車に乗りこんだ。
 運転席では遙が携帯を乱暴に扱っている。
「何かあった?」
「あったも何も。落雷で本社のコンピュータがイカれたって」
「ふうん」
「ったく。何だってこんな時に――つうかシステム管理は私の仕事じゃねぇっての」
 遙はぶつぶつと言いながら後部座席に乗せておいたバッグに手を伸ばす。片手で分厚いスケジュール帳を広げると、携帯電話を持っていた手はすでに次の電話番号を押していた。すぐに物腰の柔らかい声が広がる。
 遙がひとつひとつの問題を確実にこなしていく。
 車のフロントガラスには水玉模様がいくつもできていた。大粒の雨と雷鳴に小さな車が怯えている。
 結局、遙が理恵に何を吹きこんだのか、聞きそびれてしまった。

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