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 その日、田辺智己は最悪の面構えで教室に向かっていた。
 土気色をした顔はむくみ、目の下には浅黒い三日月が乗っている。峠を越したせいか、テンションはすこぶる上々だ。単なる睡眠不足なのに、ただならぬ形相を見た家族からは今「学校を休め」と言われてしまった。
 確かに今日は学校をさぼってもよかったのかもしれない。行った所で良いことがないのは分かりきっている。
 それでも制服に腕を通したのは逃げて負けたと思われたくないがための意地だ。
 ――自分の教室が見えてきたあたりで、智己は一度立ち止まる。
 意味もなく身だしなみを整えたところで自分の手元を見つめた。指に引っかけているコンビニの袋を見て馬鹿だな、と思う。逃げたくないと言いつつ、無意識に防衛線を張ってしまったことが滑稽に思えて仕方なかった。
 今更自分の弱さやずるさを擁護するつもりはない。でもそれが自分であることを認めなくてはいけない。
 智己は感情を押し殺し、一歩を踏み出した。他のクラスの様子を見ることなく、自分の教室にまっすぐ向かう。
 廊下との境界線を越えるとすぐに久保が寄ってきた。
「はよう」
「おう」
「で、どうだった?」
「何が」
「昨日佐藤と話したんだろ?」
 その質問に智己の動きが止まった。
「あれから部活出てなかったようだし……ってことは仲直りした?」
「……別に」
 智己は久保を追い越した。荷物を置き、自分の席にほど近い窓際に寄り掛かる。コンビニで買ってきたばかりの雑誌に目を通す。
 巻頭の見開きページには旬のグラビアアイドルが水着姿でいた。胸を強調したポーズは明らかに読者受けを狙ったものだ。だが、背景にある南国の海が世間離れしすぎて、薄っぺらいものにしか感じられない。
 それでも智己は、いいねぇ、と賛辞を述べてみる。
「この娘超かわいいじゃん」
 眉をひそめる久保をよそに智己はページをめくった。今度は架空の物語に集中しようとする。
 が、一ページを読まないうちに横取りされてしまった。
 取り上げたのはそれこそ雑誌から出てきたモデル顔だ。いつの間にか教室にいたらしい。
「一体どういうこと?」
 足立亜由美は眉間に皺を寄せ、闘志をたぎらせていた。さっきのグラビアアイドルよりも数段高貴で美しいはずなのに、顔が歪んで台無しだ。下手に出たら殴られそうな勢いである。
「ケリをつけるまで葉月に近づかないって――言ったわよね?」
 迫力のある低声が智己の耳に届く。鋭い眼差しが智己を突き抜けた。
「答えなさいよ。今度は何言って葉月を傷つけたわけ?」
 智己はひきつった笑みを広げるしかなかった。

 ――昨日、サッカー部の部室が何者かによって荒らされた。
 壁に落書きをされ、床はナイフで切り裂かれたボールとゴミで埋め尽くされていた。盗られたものはなかったが、最初に発見したのが理恵じゃなかったら学校中が大騒ぎになっていたことだろう。
 この事件をもみ消したのは智己の独断だった。
 現場に残された制汗スプレーは葉月のものと酷似していた。そして葉月にはサッカー部を恨む権利がある。
 高校生最後の大会に出られなかったことへの腹いせ――それは罪を犯すには十分すぎる動機だ。
 問いただすまで、智己はこれが間違いであってほしいと願っていた。
 だが、希望は葉月が肯定したことであっさり砕かれてしまった。
 智己の記憶の中にはまっすぐに見つめた瞳が今も残っている。悪いことはしていないと挑むように突き出された言葉たちも、胸に刺さったままだ。
 葉月がしたことは常識からみて許されることじゃない。智己自身でさえ、怒りを覚えたほどの罪だ。
 嘘をつかれたことが悲しかった。そこまで追い詰めてしまったことが悔しくてたまらない。
 だからこそ、真実から絶対目をそらしてはいけないと思ったのだ。
 今のところ、事件のことは智己と理恵しか知らない。葉月に心からの反省を求めることは変わらない。そのかわり葉月が受ける苦しみは自分が受けとめるつもりでいた。
 どんなに非難されても、この世の全てを敵に回しても、自分は最後まで味方でいる――本当はそう伝えたかったのに。
 現実は燦々たるものだった。
 事実を認めた葉月に傷ついて何も言えない。そのうちお互いが感情的になって、責めるどころか、怪我をした葉月に起こりうる可能性すら見逃してしまうなんて――

「最低」
 亜由美のその一言が智己に決定的な烙印を押す。
「あんた、自分が何をしてるか分かってる? えらそうなこと言ってるくせにやること中途半端。結局人の気持ち弄んで混乱させてるだけじゃない」
 確かにその通りだと智己は思った。
 本当は智己も気づいていた。葉月を選んだ時点で、理恵と付きあい続けることは無理だと。
 それなのに理恵にはっきりと別れを告げることができなかった。最後まで非情になりきれなかったのだ。
 だから智己は改めて誓いを立てた。理恵と決着をつけるまで葉月には近づかない――それは、葉月の怪我に対する責任を問い詰めた亜由美と交わした約束だ。
 約束を破ったことについてはこちらの非と言われても仕方ない。
 でも――
「足立」
 智己は口を開いた。
「おまえ、佐藤が俺に何をしようとしていたのか、知ってたんだろ?」
「……それが何?」
「友達ならそれを止めるべきじゃなかったのか?」
「は?」
「佐藤を止められなかった責任はおまえにもあるんじゃないのか?」
 淡々としゃべる智己を冷たいものが囲む。それは葉月が怪我をする直前に感じたのと同じ空気だった。
 あまりにも落ち着いた口ぶりにただならぬものを察したらしい。一瞬だけ亜由美がひるんだ。漆黒の髪が揺れ、完璧を装っていた少女に隙ができる。
 そこへ割りこんだのは最初から外野に飛ばされた久保だ。
「足立が責められるなら俺も同じだろ」
「え」
「俺も――佐藤を止めなかった」
 予想外の言葉が智己の思考を止める。
 それが何を意味しているのか、理解するまで少し時間がかかった。
 つまり、久保は葉月の暴走を容認した。
 ということは――陸上部全体がサッカー部を敵とみなした、とでも言いたいのだろうか。
「佐藤、怪我をしてからずっと悩んでいたんだ……だから、このくらい許してやれよ。佐藤のこと想っているなら見逃してやれ」
 久保の眼差しは同情を含んでいる。
 それはここにいない人間に向けられたものなのだろうか。それとも目の前にいる愚か者への慰め、なのだろうか。
 絶望のあとに湧きあがった感情はすでに喉元までせり上がっていた。
 昨日と同じだ。あの時、葉月は自分自身のためにやったと言った。そしてこれが智己のためであると――
「何が俺のためだって言うんだ!」
 智己は言葉を吐き捨てる。行き場のない悔しさを壁に叩きつけた。
 建物が震え、音が突き抜ける。驚いたクラスメイトの視線が智己に向けられる。
 物に当たっても意味がないのは分かっていた。どんなに綺麗ごとを並べたとしても怒りが抜けるわけではない。
 こんなことになるなら、罵ってくれた方がよかった。おまえのせいで走れなくなったのだと、その口ではっきり言ってくれればよかったのだ。
 そうすれば変な期待などしなくて済んだのに――
「結局俺を追いつめたかっただけなんだろ?」
 熱くなった手で拳を作ると、心の中でくすぶっていた言葉がすとんと落ちた。罪の証拠を掴んだ右手が、葉月を救えなかったこの手がもどかしい。
 葉月が彼方に支えられる姿を見た時、自分の居場所はないのだと見せつけられた気がした。こうなることも覚悟していたはずなのに、狂おしいほど胸が締めつけられた。
 智己は葉月と罪を分かち合った二人から目をそらす。この場に居たくなくなくて、教室から背を向けた。
 隣の教室には葉月がいる。その存在を見つけてしまうのが怖くて、前の廊下を歩く時はうつむいて難を逃れる。
 この世界が歪んでいるような気がしてならなかった。
 殴られたわけでもないのに、階段を昇るたびに後頭部のあたりがずきずきする。踊り場にある窓から漏れた朝日がまぶしすぎて目にしみる。
「ってえんだよ……」
 屋上の一歩手前まできて、やっと弱音を吐けた。
 白くなった指の節はいつの間にか擦り切れて、うっすら血がにじんでいる。一滴にも満たないのに、鉄の香りが離れない。
 智己は背中を壁に添わせると、踊り場の床に座りこんだ。頭を抱える。すでに考える気力すら失い始めていた。

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