「別に……何もないけど」
葉月は渡されたワキシューを机の上に置くと、薄い紙に手を出した。プリントに目を通すことで少しでも智己と目を合わせないようにしたつもりだ。
だがそれは仇となって返ってくる。
「おまえ、大会に出られなくなってすげえ悔しかったんじゃないのか?」
「そんなことないけど?」
「だったら――何でこんなの見ているんだよ」
そう言って智己は葉月の手にあった日程表をさらってしまう。
「まさか、この足で走ろうとか……」
「そんなことっ」
ない、と反論しようとして、葉月ははっとした。
声がいつの間にか半音上がっている――
それは嘘をつく時の合図だと親友は言っていた。無意識とはいえ、癖はどうしても抜けない。
不穏な空気が二人を取り囲む。葉月が会話を止めてしまったことで、疑惑という波紋が更に広がってしまう。
葉月は焦った。その一方でどうして、という思いも膨らんでいく。
怪我をしてから智己とは今日まで顔を合わせていなかったはずだ。なのに隠しごとがあることを最初から言い当てられてしまうなんて。
まさか――久保との話を聞かれていた?
考えた途端、葉月の背中に冷たいものが走る。
そうだとしたら逃げられない。嘘のつきようもないことだ。
しばらく考え、葉月は覚悟を決めた。両手を上げ、降参の意思を示す。
「ごめん。隠してること、あります」
小さな告白に智己の体が揺らいだ。
すがるような瞳はやはりという確信というより信じられないといった感じだ。悲しげな表情は怪我をしたあの日よりもっと深い。わずかな隙間に忍びこむのは罪悪感にも似た感情。
「やっぱ、勝手にやるのはまずかった、かな?」
「やっぱり……そうなのか?」
抑揚のない問い返しに葉月はうなずく。
「どうして」
「……あたしにはそれしか方法がなかった。それが自分のためでもあるし……田辺のためだって思った。だから――」
「ふざけんな!」
突然の罵声に葉月の体が揺れた。
白い紙が飛ばされる。見上げた先にあったのは眉間に皺を寄せた顔だった。
「そんなことして満足か?」
「え」
「関係ないやつ巻きこんで、それで満足かって聞いているんだ! そいつらもひどい目に遭うって分かってあんなことしたのか?」
「そんなつもりじゃ……」
「そりゃあ佐藤がそうなる気持ちも分からなくもない。でも、こんなやり方は卑怯だろ!」
突然腕を掴まれた。
「ちょっ……何」
「理恵に謝れ」
「は?」
「自分のしたことを謝れって言ってるんだ!」
大きな力が葉月そのものを動かす。無理やり席を立たされた。
「俺はどう責められたって構わない。でも理恵は違う。あいつや部の奴は無関係だろ? なのにお前は一時の感情でめちゃくちゃにしようとした。それが悪いことだって何故思わない!」
「そんな……」
隠しごとをしていたのは智己に笑顔を取り戻してほしかっただけ。大切なものを失いたくなかっただけだ。
智己にとってそれは怒りを覚えるほどの行動だったというのだろうか。
智己に言われた卑怯、の一言が心に突き刺さる。そして智己の「彼女」に許しを請う理由が分からない。
葉月は苛立ちを隠すように前髪をかきあげた。
正直、理恵のことは苦手だ。
それでも理恵は智己の彼女なのだと自分に言い聞かせていた。智己とはずっと友達でいようと必死でふるまっていたのに。
理恵には友達というわずかな希望さえ断ち切られた。さっきは正面から罵られ、大嫌いとまで言われた。
いつだって傷ついたのはこっちの方。それなのに智己はどんな時も理恵の味方で――
「嫌だ!」
張り詰めていた気持ちが一気にはじけた。
「何であたしが謝らなきゃならないわけ? 何それ、意味わかんない」
一方的に罵られて、こんなのは理不尽だ。
卑怯だなんて思わない――自分は間違ったことはしてない。だから。
「あたしは何も悪いことなんかしてない!」
「佐藤!」
厳しい声が再び葉月を震わせた。もう片方の腕を掴まれ逃げ道を失う。目の前にあるのは怒りで我を失った顔だけだ。
あまりの至近距離に体が熱くなる。それは好意からくる動揺とはあまりにも程遠い。
「離せ」
葉月は低く吠えた。
「離せって言ってるんだこのバカっ!」
葉月は絡まった茨を振り払うと智己を突き飛ばした。
反動で固定された足が宙に浮く。体を支えきれないことに気づいた瞬間、身の危険を察した。小さな悲鳴が葉月の耳元をかすめる。
視界に救いの手がよぎったのは気のせいかもしれない。
でも、もう遅すぎる――
机が乱れ、椅子が音を立てて倒れていく。二人とは別の声が突き抜けたのは葉月が尻もちをついたのとほぼ同時だった。
「何やってんだよ!」
戸口に佇んでいたのは見知ったクラスメイトだ。
かねてからの進路相談はすでに終わったらしい。
青柳彼方は智己を素通りすると、葉月に近づいた。床に伏した腕をとり、いっきに引き上げる。
「大丈夫か?」
彼方の問いかけに葉月は頷いた。倒れる直前、机に腰をぶつけたが大した痛みはなかった。だから平気、と普通に答えたつもりだ。
しかし、声がかすれて届かない。
葉月の体はありのままの感情を受けとめていた。
彼方の腕に触れたことで、自分がひどく震えていたことに気づかされる。いつの間にか頬に熱いものも流れている。水分を含んだそれは逃げ場を失うと、ぽつぽつと床に滴り落ちた。
数秒置いてから目に見えない場所がしくしくと痛みを訴え始める。
それは彼方の怒りを買うのに十分な理由だったのかもしれない。
「おまえ、何をした?」
彼方の問いかけに智己は答えない。呆然と立ちすくむだけだ。
「こいつに何をしたって聞いてるんだ!」
気圧され、智己が一歩下がった。逃がすまいと彼方の手が伸びる――が、ぴんと張った背中が彼方の動きを封じた。制服の裾に引っかかっていたのは葉月の手――
「どうして……」
葉月は答えられなかった。自分でも何故そうしたのかが分からない。
深く頭を垂れた状態で葉月は唇を強くかみしめる。
ただ、こみあげる切なさと苦しみに耐えることしかできなかった。
|