backtopnext


 6 流転

 その日、葉月は陸上大会の日程表に目を通していた。
「ハードルは日曜、か……」  
「で? 先生は走ってもいいって?」
 情報を流してくれた久保の問いかけに葉月は肩をすくめた。
 今のところ、先生の口から葉月の望んだ言葉は一度ももらっていない。やはりこの足が先に目に入るのが良くないのだろうか。
 葉月は包帯にくるまれた白い塊を一度見すえた。放課後の教室にひとつため息がこぼれおちる。
 葉月が怪我をしたのは数日前のことだった。
 ハードルのタイムトライアル中、あぶれたサッカーボールにつまずいての捻挫――医者には一週間以上の安静を告げられた。
 そこで終われば単なる間抜け話で終わったのだろう。
 だが、ボールは悪意を持って蹴られたものだった。
 狙われたのはサッカー部のキャプテンである田辺智己。詳しい事情は分からないが、部の後輩から恨みを持たれていたらしい。
 智己は葉月に怪我をさせたことにひどく落ちこんでいた。決して自分が悪いわけではないのに、ボールを蹴った犯人よりも自分を責めていて――その姿ははっきり言って見ていられなかった。
 怪我をしたことに関しては今もやるせない思いで溢れてしまう。どうして、と思うこともある。
 でも智己がこれ以上自分を追いつめるようなことはしてほしくなかった。ましてや、大好きだったサッカーを諦めることなんて決してあってはならない。だからこそ葉月は走ることを決めたのだ。
 当日は固定も外し痛み止めも打つつもりだ。診療所も競技場からそう離れていない場所を選んだ。少なくとも予選が終わるまでは持つだろう。
 ここであきらめてしまうわけにはいかない。こっちだってゆずれないものがあるのだ。
「こうなったら意地でも『走れ』って言わせてやる」
 恨みに近い思いを糧に葉月は息まく。
 だがそれは久保の「やめとけ」で打ち消されてしまった。
「どうせ反対されても走るんだろ? だったらこれ以上騒がない方がいい」
「なんで?」
「あんまりしつこいと、こっそり走るんじゃないかって警戒されるだろ」
 久保の冷静な判断に葉月は唸った。
 大会で走ると決めた時、単純に近くにいたという理由で部長を巻きこんだわけだが――これは正解だったのかもしれない。
「そっか。油断させて、こっそり出ればいいんだ」
「走っちゃえばこっちのもんだからな。ただ、これだと問題が――」
「コール、か」
 葉月は机にひじをつくと、自分の手で作った拳を口元にあてた。
 陸上競技は各種目に出る前に出欠を兼ねたコール(点呼)を受けなければならない。特に総体予選などの大きな大会では各種目が始まる三十分前には一度集合がかけられるようになっている。そしてスタート直前にもう一度コールがあり、それを通過して初めて選手は競技に出場することができるのだ。
 つまりコールをすっぽかしたり、指定された集合場所に少しでも遅れたりすると失格とみなされ、競技に出ることさえできなくなってしまう。
 陸上選手にとってのコールは大切な命綱。
「これは俺の方で何かしとくしかないか」
「平気?」
「ま、あいつらも協力するって言ってたし。先生の気をそらすことくらいできるだろう」
 久保の言うあいつら、というのは陸上部員たちのことだ。無理に巻きこんだにも関わらず、久保は最初から葉月の意思を受け入れてくれた。それどころか部自体が葉月をサポートするような体制にまでまとめてくれたのだ。
 それはとても感謝すべきことなのかもしれない。けど―― 
「何か大げさになっちゃったね」
「別にいいさ。俺が佐藤の立場でも同じことしてただろうし」
「久保……」
「それに――しけた顔ばっか見ても気持ち悪いからな」
「あたし、そんな顔してた?」
「さあな」
 久保の口元が緩やかな弧を描く。その視線は廊下の向こう側にあった。
 窓の先には白線が引かれたグランドがある。今はひっそりとしているが、もう少しすれば後輩たちのにぎやかな声がこだまするだろう。
「高校なんて、あっという間だな」
 ぽつり久保が呟いた。
「最後だから、お互い悔いのない走りしような」
「うん」  久保の言葉に葉月は柔らかな笑みで返した。
 陸上部は校内でも三年生の引退が早い部だ。部活を抜けたあとは各々の将来を考える時間が待っている。
 それを実感させるかのように三年生は今日から進路相談が始まっていた。親を交えての面談はもっと先だが、希望する大学や職種が決まっている者は別室で話し合いを始めている。机のあちこちに残された鞄たちはそれぞれの道に進む彼らを静かに待っていた。
 やがて、後ろの扉から人が現れる。
 てっきり進路指導を受けていたクラスメイトかと思っていたが――
「お、田辺じゃん」
 先に声をかけたのは久保だった。席についたまま、葉月が振り返る。
「戻る教室ちがうぞー。つうか、授業さぼってどこ行ってたんだよ」
「ちょっと、な」
 智己の右手は後ろに隠したままだった。葉月をちらりと見てから、視線を久保に戻す。どこかそわそわした様子がうかがえる。
 この様子だと智己は久保を探していたのかもしれない。
 そう思った葉月はこの場から席を外そうとした。
 だが智己の眼差しは再び葉月をとらえ始める。それは佐藤、と声をかけられたことで確実なものとなった。
「ちょっと聞きたいことがあるんだ」
 神妙な顔の智己に葉月の心臓がと波打つ。
 するとあさっての方向から久保の間抜けな声が上がった。
「あ、そうか。俺は部活に行った方がいいんだよな」
 わけのわからない自問のあとで、久保が踵を返した。軽い挨拶が響き渡る。久保がいなくなったことで教室は再び二人きりになった。
「久しぶり、だね」
 はやる鼓動を落ち着けながら、葉月は言葉を紡いだ。
 それでも口元は自然と緩んでしまう。智己の姿を見られただけでも嬉しいと思える自分がいる。数日前に会ったはずなのに、もっと長い時間会ってないような気がした。
「元気、だった?」
 葉月の問いかけに、一瞬智己が戸惑う。それでも、まぁ、と穏やかな声が返ってきた。
「……足、どうだ?」
「最初は不便かなぁと思ったけど……学校では割と平気みたい」
 誰かさんのおかげで、と葉月は続けた。机の下から白い足を突き出し、先にひっかけられたサンダルを見せつける。
「これ、下駄箱に突っ込んだの田辺でしょ? 変に気を使わなくてよかったのに」
「……ごめん」
「でも――片足で動くの大変だったから、すごく助かった」
 ありがとう、素直な感想を届けると智己の口元がわずかに上がった。ちょっと困ったような微笑みではあったが――それでも葉月は救われる。いつもと違っても、明るい表情を少し見られただけで心がじんわりと温まった。
 今回の計画は智己に一言も話していない。久保にも固く口止めをしていた。
 智己にはスタートの直前に打ち明ける。そこで今まで抱えているものをありのまま伝えるつもりでいた。そこから先は何も考えていない。想いの先に何があるか分かっているからこそ考えないようにしている。
 今はただ、一緒にいられる時間を大切にしよう――葉月は走ることとは別の、小さな決意を心の奥にしまった。
 一方、智己は隠していた右手を葉月に見せる。目の前に現れたのは葉月がワキシューと呼んでいる制汗スプレーだった。
「佐藤の?」
 智己に聞かれ、葉月は二度うなずいた。携帯するには大きすぎる図体とその色は葉月にとってすでに見なれているものだ。
「それ探していたんだ。どこにあったの?」
「サッカー部の部室」
「は……何でそんなとこにあったの?」
「聞きたいのはこっちの方だ。なんでこんな所にあった?」
「んなこと言われても知らないし」
「本当に?」
 智己がじっと葉月を見つめる。
 おまえ、何か俺に言うことない?」
 その一言にぎくりとした。
「俺に何か隠していること……ない?」

backtopnext