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 理恵は部室からすぐに立ち去るよう、安原に告げた。 
 安原は、俺に命令する気か、とごねていたが、犯人扱いされていいのか、と問い返すとしぶしぶ指示に従った。
 当然だ。二度も罪を被るほどの馬鹿はいない。
 ようやく一人になったところで、理恵は三日ぶりに携帯の電源を入れた。待受画面が現れてから間もなくしてメールが届く。新たに加わったそれのほとんどは智己からだった。
 理恵はそれを開封することなく、新規画面を開く。
 <<大切な話があります。休み時間になったら部室に来てください>>
 しばらくの間部室の前で待っていると、チャイムが鳴る前に智己はやってきた。
 久しぶりに見る恋人の姿に緊張が走る。
「早いね」
「授業抜けてきた。それよりも大丈夫なのか?」
「え?」
「保健室に運ばれたって、さっき足立に聞いたから……」
「ああ……もう、平気」
 理恵の返事を聞いて智己の表情が幾分か和らぐ。愛しくて、切ない気持ちが理恵を取り囲んだ。やはりどんな状況に置かれてもこの人が好きなのだと思い知らされる。
 だが、それは束の間の幸せにすぎなかった。
「でも、理恵に会えてよかった……」
 話したいことがあったんだ、と智己は続けた。どこか後ろめたそうな顔が理恵の目に映る。不穏な空気を察し、すぐに本能が見ないふりをしろと命令を下した。
「それって、すぐ聞かないといけない話?」
「いや――俺のは……あとでいい」
「そう」
「理恵の方こそどうしたんだ? 大事な話って――」
 智己に問われ、理恵は部室の扉を開いた。
 日差しを浴びた埃が細かい霧を作っていく。まだシンナーの匂いが残っていた。
 荒れ果てた部室に智己は呆然とする。
「今朝からこうなっていたの。すぐ知らせようと思ったんだけど、携帯の電源落ちちゃってたし、ずっとすれ違ってたみたいで――」
「そう、だったのか」
 智己は理恵の言葉をあっさりと飲みこんだ。
「ひどいな。一体誰がこんなこと……」
「……」
「どうした?」
 理恵は一度ためらうような表情を作ってから、ある一点を指で示した。
 色あせたロッカーの前にカラースプレーが何本も転がっている。そしてその中に明らかに用途が違うものがひとつだけあった。
「それ、佐藤先輩の、だよね?」
 智己がゆっくりとした動作でそれを拾った。どうして、と呟く声が震えている。
 それは智己を呼び出す前、隣の部室から拝借したものだった。本人の言った通り桃色の制汗スプレーは陸上部の部室にあった。
「信じたくないけど――でも、ありえるんだよね? 恨まれてもおかしくないんだよね?」
「まさか。佐藤がそんなっ」
「そう言い切れる?」
 理恵は問いかけ、智己を見上げる。刹那、胃のあたりがきりりと痛んだ。
「佐藤先輩、中学の頃から陸上やってたんでしょう? 今度の大会だって、練習頑張っていたんじゃないの? 怪我なんかしなけれれば上の大会も狙えたんじゃないの?」
 理恵の体は震えていた。無理もない。今まで不都合なことに黙ることはあっても人を騙したことは数えることしかないのだ。
 そう考えると、自分はつくづく真面目でいい人を気取っていたのだなと思う。
「大好きなものを、せっかくのチャンスをこんな形で潰されて、冷静でいられる人っているのかな?」
 理恵は湧き上がる緊張を拳の中に押し潰す。まっすぐ智己を見据えた。
 しばらくの間、沈黙が続く。浮上した疑惑から逃げたのは智己が先だった。
「……他にこのことを知ってる奴は?」
「まだ誰も知らない。智己が最初」
「なら、このまま誰にも言わないでくれ」
「どうして?」
「――俺が確認するまで待ってくれないか?」
 そう智己は冷静に言葉を放つ。
 だが、細長い缶を持つ手は血の気を失っていて、動揺が走っているのは一目瞭然だ。
 結局、智己は犯人について異を唱えることはしなかった。
 散らかった部屋を二人で片づける。
 ボロボロになったカーテンを外し、ほうきでゴミを一か所に集める。使えなくなったサッカーボールについては早急に補充しておかなければならない。しばらくは倉庫にある体育用のボールを紛れ込ませることにした。
 壁の落書きは適当なポスターやホワイトボードで隠す。
 とりあえず部員たちには今朝部室の模様替えをしたとでも言っておいて、窓は物を移動した時に割ってしまったことにしよう、そう提案したのは理恵だった。
 小一時間かけて部室を綺麗にすると、一旦智己と別れることにした。
 あと五分ほどで今日の授業が終わる。そうしたら一度鞄を取りに行かなければならない。
「これ、俺がやっとく」
 そう言って智己はごみ袋を抱えていった。
 種は心の中へ蒔いた。疑惑という水も与えた。真実はゴミとなって葬られようとしている。
 あとは芽吹くのを待つだけ――
「怖え女」
 智己の姿が建物の影に消えていくと同時に、低い声が聞こえた。 
「どうしたらそんな嘘がすらすら言えるのかねえ」
 どうやら近くに隠れて様子を窺っていたらしい。振り返るといやしそうな笑いで迎える安原がいた。
「何企んでる?」
 理恵は質問を無視した。自分の教室に向かって歩き出す。
「つれないなあ。教えてくれてもいいじゃん」
「うるさい。あんたの相手するだけで時間の無駄」
「そりゃあひでえな。じゃあ罪を着せられた俺の心は? 憤りはどこへ持ってけばいい?」
「勝手にすれば?」
 理恵はあっさりと言いのけた。腹の痛みはすでに消えている。
「あんたには私を恨む権利があるんでしょ。復讐でも何でもすればいいじゃない」
「んだよ。八つ当たりの次は開き直りか?」
 予想外の切りかえしに安原が口を尖らせる。
「また脅すかもよ」
「無理ね。どんなことされても、あんたは私に敵わない」
「どうして?」
「あんたが私のことが好きだから」
 理恵の嘲笑に、安原は反撃の言葉を失った。
 この男は自分に好意を持っている。だから今の質問を肯定したら、周りにはひねくれた愛情表現としか思われない。かといって嘘だと否定すれば安原のプライドがそれを許さない。
 この一言は安原にとっての地雷、理恵にとっての最大の切り札だ。
「ま、あんたが私をどう思っていても、私にとっては大迷惑なんだけど」
 優越感と皮肉をもって理恵は言葉を続けた。スカートが再び翻る。理恵の足が軽くステップを踏むと二人の距離は更に広がった。
 目の前にある男の顔が歪む。
「……じゃあ犯人が別にいるってこと、あいつにバラすって言ったら?」
「それなら私の嘘を本当にすればいいだけよ」
 事実なんていくらでも歪ませてみせる。たとえ智己の心が自分以外のものを訴えていたとしても、耳を塞いで聞かなかったことにすればいい。その唇を自分のもので塞いでしまえばいいだけのこと。
 この恋が間違っているなんて誰にも言わせない。
 この先誰かを傷つけても懺悔を請う気はないし許されるつもりもない。
 手にした十字架は一生捨てることはないだろう。
 理恵の瞳に鈍い光が宿った。

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