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 倒れた理恵を腕一本で支え、保健室まで運んでくれたのは遙だった。
「楽になった?」
 固いベッドの上で横になっていた理恵は一度うなずく。目を覚まして最初に出たのは、すみません、の一言だった。先ほど飲んだ薬が効いてきたせいか、腹の痛みはだいぶ治まっていた。少し眠ったおかげで体についていた重りもだいぶ取れてきている。
 あれからどのくらい時間が経ったのだろう。
「ずっと……そばにいてくれたんですか?」
「まあね。今日は暇だし」
 そう言って遙は目を細める。その優しさに理恵は二度目のすみません、を口にした。
 ゆっくりとした動作で上半身を起こす。
 教室の中はとても静かだった。
 白い布で囲われた空間は見方を変えれば、神聖な場所にさえ見える。カーテンの向こう側からはなめらかにペンを動かす音だけが聞こえていた。この部屋の主は雑務に追われているらしい。
 乱れた髪を直したところで、理恵は自分の手のひらをじっと見つめた。
 差しのべられた手にかすったのはほんの一瞬。あの時の顔が今も脳裏に染みついて離れない。
 理恵は自分が吐いた言葉を呪った。
 葉月は純粋に心配してくれたのだろう。それなのにひどいことを言ってしまった。分かっていても葉月の手を取ることはできなかったのだ。
 自分が放った言葉は葉月を傷つけたに違いない。
「あやまらなきゃ……」
 言葉は無意識に出た。しかしそこから先は動くことも考える気力さえ出てこない。出てきたのはため息だけだ。
 そこへやさしい声が舞い降りる。
「あなたはいい子なのね」
 声の主は遙だった。
「でも、無理に自分の感情をねじ曲げる必要なんてない」
 理恵は遙を見上げた。さっきの拒絶ぶりを見られただけに、葉月の知り合いである遙がそんなことを言うなんて思いもよらなかったのだ。
「この世の中には嫌いな人がいたっておかしくない。どんなに仲が良くたって憎んだり妬んだりすることはあるわ」
「どうし、て……」
「私もね、昔友達にひどいことしちゃったんだ」
 遙は理恵に背を向けると、白いカーテンをさっと開いた。フィルターを外された理恵の視界にまばゆい光が差し込む。踵を返した遙の姿が少しぼやけた。
 窓際に立つ影がまだ幼かった当時の輪郭を作っていく。
  「中学の時からの親友なんだけどね。彼女、高校に入ってふたつ上の先輩に恋をしたの。私と同じ部活の先輩で――彼女ってば私をだしにして先輩のことこっそり見てたのよね。そしたらその先輩も彼女のことが気になっていたってわけだ。まさに両想いの一歩手前? だから二人がつきあうのは時間の問題だって思ってた」
 だが親友はその年の夏に海外留学することが決まっていたらしい。
「彼女が日本を発つちょっと前、頼まれたの。『向こうに行ったら最低五年は帰れない。だから先輩に会って話がしたい。私が会いたがってるって伝えて』って。告白するんだってすぐにわかったわ。彼女は携帯なんて持ってなかったし先輩の家も知らなかったから、私に頼ったのね。だから『いいよ』って嘘ついたの」
「嘘……」
「そ、嘘ついたの。私も先輩のことが好きだったから」
 遙の話によると、留学のことを伝えたのは親友の乗る飛行機が発ったのを見送ってからだったという。
 さらに遙は黙っていることが彼女との約束だったのだとでっちあげていた。
「すぐにバレると思ったのに……皮肉なものね。おかげで二人は私の嘘を今も信じている」
 理恵の中で二年前の出来事が重なった。
 欲望のままに自分は嘘をつき、人を騙した。その傷跡はふさがれることはない。被害者は特にそうだ。
「その、嘘ついていろいろ思ったり――しませんでしたか? 罪悪感、とか」
 言葉がつかえて、たどたどしい質問になってしまった。
 こんなことを言ったら遙に笑われるのだろうか。やっぱりいい子だ、と皮肉を言われるのだろうか。
 だが、遙の答えは理恵の予想を覆した。
「確かに私は親友を裏切った。私の嘘が二人の関係を壊してしまった……悪いことをしたと思っているわ。でもそれが間違っていたとは思わない」
「え……」
「だって私は本気で先輩のことが好きだったんだもの。先輩を失いたくなかったから引きとめた。卑怯なことをしたけれど、私だけを見てほしかった。ただそれだけ。それ以外は他の恋と何も変わらないの」
 理恵は唖然とした。己の罪を分かっていても遙は堂々としている。きらきらと輝く瞳はまだその「先輩」に恋をしているようにさえ感じた。
 だから、聞かずにはいられない。
「その先輩に告白はしたんですか?」
 遙はその質問に答えることはなかった。
 そのかわり穏やかな微笑みを見せる。瞳にほんの少しの憂いを帯びながら。
 不思議なことに今の遙は先ほどの葉月と同じ空気をまとっていた。
 ゆったりとした風が遙の髪を揺らす。同調するかのように理恵の髪もゆらゆらと流れていく。
 自分は遙とは違う。己の中にある醜いものなんて見たくないし、見せたくもない。できることなら忘れたいと思う。
 それなのに目の前にいる女性は凛とした表情を見せていた。葉月もそうだ。怪我を引き寄せた智己に複雑な想いを抱きながらも、瞳に宿った意志は決して揺らぐことはなかった。
 それは自分の気持ちに正直だからだろうか。危機に瀕してもなお、大切なものを諦めないでいるからだろうか。
 分からない。何が美しくて、何が醜いのか。どれが正しいのかさえも――
「あー、やっぱり撤去されちゃったか」 
 気がつくと、遙の頭は開放された窓の外へ突き出していた。すぐにひっこめ、乱れた髪に手をあてる。
「昔、この壁際にベンチがあったんだ。目の前植えこみだし、校舎からも死角になってるから良いサボリ場所だったんだけどなあ……」
 遙が言うようなベンチは理恵が入学した時にはすでになかった。
 お互いの年の差を考えたら廃棄されたと思うのが妥当だろう。
 しばらくして理恵と遥の空間が壊された。保健室に現れたのは安原だ。
 遙の存在に気づき安原は軽く顎を引く。本人にしてみれば目上に対する挨拶なのかもしれないが、会釈には程遠い。
 理恵の口元が少しだけ歪んだ。
「来い」
 返事を待つことなく、安原は理恵の腕を取った。ベッドから引きずり出される。不思議と恐怖はなかった。
 遙を置き去りにしたまま、保健室を出る。
 確かにこの男は最悪だ。ひねくれた真実を口にし、心のままに動いて人を困らせる。今までは理恵も本能的に排除しようとしていた。
 だが被害者意識を捨て素直に認めれば何てことない。呪縛から逃れるヒントはすでに与えられていたのだ。それを拒んだのは他ならぬ自分自身。何という皮肉だろう。
「離して」
 廊下に出て数メートルほど引きずられたところで、理恵は静かに言った。
「そんなことしなくてもついていくから」


 安原の足はサッカー部の部室前で止まった。
 扉が開かれた瞬間、理恵は言葉を失う。
 部室の壁には意味不明な文字で連ねられていた。それらはいくつもの層に塗り重ねられていて――はっきり言って芸術以前の問題だ。出来が気にくわないといわんばかりに、奥の窓ガラスは粉々に砕かれていた。
 視線を落とせば、床は足の踏み場がないほど物にあふれている。飲み干したペットボトルや菓子袋――それだけならまだましだが、三角コーナーにありそうな生ゴミもあって正直いただけない。はみ出たスポーツ誌の表紙は得体のしれない液体の餌食となっていた。まるでこの部屋の中で台風でも起きたかのような惨事だ。 
「さっきここに来たらこうなってた」
 低い声で安原は言った。
「おまえがやったのか?」
「するわけないじゃない!」
 突然の言いがかりに、理恵は声を荒げた。
「そっちこそ……こんなことする理由があるんじゃないの?」 
「部活止められた程度でやるか。こんなことしたって意味ねえし」
 確かに。安原は極悪人だがこんな姑息なことはしない。やったとしても、人前で正々堂々と仕掛けるだろう。安原はそういう人間だ。
 では誰がこんなことをしたのだろうか。
 理恵は混沌の世界へゆっくりと足を踏み入れた。
 引き出しやロッカーの中から盗まれたものがないかを確認する。ひととおり見たあとで、天井から壁から犯人の手掛かりになりそうなものはないかを探す。
 あ、と声をあげたのは理恵が先だった。
 あちこちに放り出されたペットボトルの側面、巻きつけられたジュースの銘柄が統一されていた。
 理恵を既視感が襲う。これと同じものを理恵はつい最近手にしている。
 脳裏によぎったのはあの夜に見た少年の姿だった。
「あのガキ……俺への腹いせかよ! ふざけんなっ」
 考えたことは安原も同じだったらしい。それも一理あるのかもしれない。実際理恵だって非常階段からそれらしき人影を見ているのだ。
 だがそれがあの時の少年だったかどうかは分からない。ペットボトルだってただの偶然かもしれない――いや。
 理恵は顔半分を手で覆う。心の中に潜んでいた闇が再び取り巻いた。
 脳裏をよぎるのは自分を心配してくれた「先輩」の顔。
 そのことは感謝すべきなのかもしれない。
 でも――
 わずかに生じた葛藤を理恵は打ち消した。かわりに、穏やかな声を安原に向ける。
「このことは智己に報告するわ」
「は?」
「あとは私が引き継ぐ。だから教室に戻って」
「……犯人捕まえるんだよな?」
「そうね。そのへんも話しておく」
 理恵は神妙な面持ちで答えた。その裏で笑いそうな衝動を必死にこらえる。
 犯人を追及する気など、さらさらなかった。
 幸いだったのはロッカーの中が無事だったことだ。犯人は個人の所有物までは手をつけていない。愉快犯の犯行は派手だったが、被害はたいしたものではない。
 おそらくこの状況を怨むのは安原くらいだろう。
 つまり今の状態ならサッカー部は「不可解な出来事」として片付けることができるのだ。
 では、これが顔見知りの犯行だったとしたら――
 理恵の唇に今度こそ笑みが広がった。

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