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 葉月がゆったりとした足取りで三歩ほど進む。亜由美を追い越すと胸の高さほどの冷たいコンクリートに手を添わせた。
「本当は――田辺が本気で心配してくれたのが嬉しかった。嫌われてなかったって分かってすごく安心して――あんな状況だったのに、一瞬だけ怪我してよかったって思っちゃったんだ」
 唇が当時の気持ちひとつひとつを紡いでいく。うつむいた横顔はこの間見せた危うさとはまた違う。とても寂しそうで、少しでも気を抜いたら暗い海の底へ沈んでしまいそうだ。
 葉月のわずかにほころんだ口元が、闇に消えてしまいそうな体をかろうじて繋ぎとめていた。
「やっぱ不謹慎だよね。田辺にとってはそうじゃなかったってのに……」
 言霊が小さな泡となって消えた。ひとふきの風は何もなかったかのように通り過ぎていく。
 それを追いかけるように葉月がぽつり呟いた。このままじゃ田辺、引退前にサッカー辞めるかもしれない、と。
「あいつ、自分のせいだってずっと責めていた。あんな辛そうな顔見たの初めてで――見ていられなかった。このままでいたらあたしと同じ目に遭わなきゃ、って思うかもしれないって」
「葉月……」
「考えすぎなのかもしれない。でもあいつなら本当にやりそうな気がして……」
 葉月はかぶりを振った。作った拳がわずかに震えている。
「あたしは田辺の好きなものをこんな形で奪いたくない。これ以上傷つけたくも、悲しませたくもない。こんなのは嫌なんだ!」
 深く激しい感情が理恵を揺さぶる。これ以上聞いてはいけない、と頭の中で警告音が発する。でも体がすくんで動けない。
 葉月の訴えは続く。
「ずっと考えてた……どうすればあたしに負い目を感じずにすむのか。どうしたらいつもの田辺に戻ってくれるのか」
「それで――大会に出ようって考えたわけ?」
 先を読んだ亜由美の発言に、葉月が顔を上げる。
「葉月がやりそうなことくらい分かるわよ。試合に出て走っちゃえば田辺は葉月に責任を感じる必要もないし、葉月も陸上生活に悔いが残らない。違う?」
「……先生には思いっきり反対されたけどね」
「でも走るんだ」
 亜由美の問いかけの先に葉月のはにかんだ顔があった。その瞳は揺るぎない何かを捕えている。取り囲む空気はこの間保健室で見た時と同じだ。
 あの時は彼方のためだけに発せられるものだと思っていたのに――
 鳥肌が立った。不気味なことに今の葉月はまだ片思いしていた時の自分にぴったりと重なっている。
 理恵はこの場に居合わせたことを後悔しはじめていた。
 再びドアの開閉音が耳に届く。この場にいる全ての視線がそちらへ向けられた。
 現れたのはさっき顧問の先生と話をしていた女性だ。
「遙さん?」
 どうやら葉月とは顔見知りらしい。女性はくったくのない笑顔を向けていた。
「あら、葉月ちゃんじゃない」
「どうして……何で遙さんがここに?」
「今日は立夏会の打ち合わせ」
「え! 遙さんってうちらの先輩だったんですか?」
「五つ上のね……って。彼方から聞いてなかった?」
「知りませんって。青柳ってそういう話全然しないし」
 ねえ、と葉月が亜由美に同意を求める。が、亜由美は彼方のことに興味を持つことはないらしく、首を横にかしげるだけだ。
 遙が苦笑する。
「確かに外じゃ無愛想だからねえ。でもそっちの話は聞いたよ。足は大丈夫なの?」
「ああ、これ大袈裟なんですよ。固定されてるから超動きづらいし」
「そこ怪我しちゃうとお風呂とかすっごい不便じゃない?」
「そうそう!」
 二人の会話はとても弾んでいるようだ。だが、これ以上二人の会話が耳に入ることがなかった。
 一体どういうことなのだろう。
 遙はさっき弟のために同じ年頃の女の子を探していた。つまり、話題に出ていた「一人身の弟」は彼方ということになる。
 では葉月の存在は?
 葉月にとっての彼方は―― 
 足元からは新たな恐怖が押し迫る。想像は苦しみを引き連れてきた。
 今日一番の激痛に理恵は体をくの字に曲げる。
 肌を襲うのはざらりとした感触。
 やがて、ものが落ちる音が耳をかすめた。視界の片隅に現れたのは電源を切った携帯電話だ。
 すぐに拾わなければと思った。
 必死になって手を伸ばすが、なかなか掴めない。冷たいものが水を含んで背中を通過する。
 そのうち大きな影が立ちはだかった。
 白くて太い足。ほのかに甘い香り。その存在をこの目で確認し、理恵はぎくりとする。
「加山……ちゃん?」
 様子がおかしいと気づいたのか、葉月の声色が変わった。
「どうしたの、具合でも悪いの?」
「来ないで!」
 とっさに理恵は差しのべられた手をはじいた。葉月の前髪が乱れ、戸惑った顔が瞳に広がる。
 すぐにしまった、と思った。
 でも言葉は止まらない。
「本当は私のこと大嫌いなんでしょう?」
「え」
「私だって……嫌いよ」
 本当は最初から嫌いだった。自分の気持ちに正直で、空気を読もうとしない人。それなのに周りから慕われて、智己の心さえとりこにした。
 最初は目もくれなかったくせに、今更何をほざいているのだろう。今度は智己のために走る、だなんて。
 そんなのはずるい。
 絶対に許さない。
「あんたなんか大嫌い!」
 理恵はありったけの声で叫んだ。残った気力だけで立ち上がる。
 だが理恵を支える細い足は膝から落ちた。体が引力の示す方向へ傾くとすぐに逆の方向から力が加わる。体を支えてくれる腕は女性のもののはずなのに、強くてとても温かい。
 ここにきて理恵はようやく安堵する。
 張り詰めていた緊張がするりと抜けると、意識は深い闇の中へ消えていった。

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