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 連休が明けてから、理恵は部活を休んだ。
 それは一連のことが理由だけではない。昔から自分の中で不安なことがあると、腹痛に襲われるのだ。ここ二年間はなかったが、最近になってまたぶり返した。
 体はとても正直だ。
 今の理恵は智己に会うことを避けている。信じたいという気持はあっても不安は消えない。
 今は智己から話しかけられるのを少しでも避けようと休み時間になる度に理由をこじつけて席を外す自分がいる。胸元にある携帯も電源を切っている。
 そして今日もあてもなく廊下を彷徨っていた――

 何かの視線を感じた。
 一瞬智己かと思ったが――違う。
 今廊下ですれ違った女性だ。
 理恵はそちらの方向へと目を向ける。穏やかそうに見える奥二重の瞳は品定めをしているかのようだ。
 自分の全てを見透かされそうで怖い。何か気に障ることでもしてしまったのだろうか?
 理恵の周囲に張り詰めた空気が走る。金縛りと同じように体が動かない。
「おい。そんなにじろじろ見るなって」
 呪縛を解いてくれたのは女性の隣にいた先生だった。
「生徒が怖がってるだろうが」
「あーっ。ごめんなさいっ。同じ年頃だから弟の彼女にどうかな、と……」
「何だよ。あいつ彼女いないのか?」
 先生のぼやきに女性はそうなんですよ、と声のトーンを上げた。
「青春真っ盛りなのに一人身で……まぁ普段から人受け良くないし、ここは姉の私がひと肌脱ごうかと」
「残念だが加山には男いるぞ」
「えーっ。そうなの? 残念」
 女性は本気で悔しそうな顔をする。
 成り行きで引きとめられた理恵はというと、二人の会話にただ失笑するしかなかった。
「そういえば、加山は体の調子どうだ? 良くなったか」
「まだ……ちょっと」 
「そうか。まぁ、早く復帰するに越したことはないが、無理するな」
 普段は頼りないサッカー部顧問ではあるが、その気づかいはありがたいと理恵は思った。
 分かっている。こんなことを続けても根本的な解決にならない。でもそれを超える一歩がなかなか踏み出せない。
 だから今は笑顔でごまかすしかなかった。
 そんな理恵をよそに、大人たちは来週にある創立記念イベントへと話題を進めていた。
 この時期になると学校は創立記念を祝って何かしらのレクリエーションを催している。端折って言えば大がかりな同窓会だ。
 参加対象が卒業生なので在校生には関係のない話なのだが、これは五月の暦をもじって「立夏会」と呼ばれていた。
 先生の話によると今年はフットサル大会が行われるらしい。
「今年はサッカー部全員で盛り上げるからな」
 先生はご機嫌だった。普段は部活も見に来ないくせにこういうイベントには気合いを入れる。きっとお祭り的なものが好きなのだろう。先生の性格を知ってか女性も呆れぎみだ。
 理恵は軽く会釈をしてからその場を離れた。気を使ったせいか鈍いものが腹をつつく。
 学校が終わるまでまだ二時間もある。授業に出るのは正直言って気が重い。
 誰もいない、どこか落ち着ける場所がないだろうか。
 しばらく考えたのち、理恵は棟の端を目指すことにした。
 廊下をまっすぐ歩き、突き当たりにある扉を開く。
 その先に二日ぶりに見る光景があった。少し違和感を感じるのは白線が四角形から楕円になっているからだろう。予告どおりグランドは陸上部に占領されていた。
 ここは職員玄関の屋根に当たる、ちょっとしたおどり場だ。
 屋上から伸びている非常階段はここで一旦終わり、そこから一階に下りるには直角に曲がった先にある鉄の階段を使うことになる。突起出たこの空間は非常時以外の立ち入りは禁止されていた。
 鉄の階段に近づく。ここは傾斜がきつく、少しでも気を抜くと足をすくわれる段差だ。それでも生徒たちはグランドに出る時の近道として使っている。
 理恵はそこから部室棟に向かおうとするが――ふと足を止めた。サッカー部の部室に入っていく人影を見つけたからだ。
 遠目で目立った特徴がなかったから誰か分からない。忘れ物でも取りにいったのだろうか。
 まあいい。だったらここで時間をつぶせばいいだけのこと。
 理恵は踵を返すと、壁沿いにある階段の下へ身を委ねた。体育座りを崩し、足を延ばす。湿気を含んだ風が理恵の心を少しずつほぐした。午後の授業を知らせる鐘はまだ鳴らない。
 しばらく呆けていると、非常口の扉が突然開いた。
「ほんと、何を考えてるわけ?」
 皮肉をこめた女性の声には聞き覚えがある。
 首を少しだけ伸ばした理恵は扉のそばに亜由美が立っているのを確認した。その隣にはショートヘアの生徒――葉月がいる。
 不運の傷跡は一回り大きくなった白い足が物語っていた。
 反対の足に重心を置きながら歩く姿はぎこちない。足先にあるサンダルが飾り物のようについて、葉月が膝を曲げる度にぷらぷらと揺れていた。
 理恵の鼓動が大きく波打つ。
「まったく……休み時間の度にどっかいっちゃうし、見つけたと思ったら廊下の隅っこで何か企んでいるし……あんたはどうしてそう落ち着きがないの?」
「んな怒らなくたっていいじゃん。子どもじゃないんだからさあ」
 亜由美の皮肉に葉月は拗ねた声をあげた。
「教室離れたのはワキシュー探してたからだって。それに企んでたんじゃなくて、部活の話をしてただけ」
「本当に?」
 疑いの眼差しに葉月は口を尖らせる。試合に出られないと知っても明るさはいつもどおり――いや、更に上向きと言った方がいいのかもしれない。とにかく明るい声なのだ。
「うちら引退したら新しい部長決めなきゃならないじゃん。誰にしようか話してたの!」
「葉月は知ってた?」
「は?」
「葉月って嘘つく時、声が半音上がるの」
 突然の口撃に葉月は言葉を失う。ぐらり、と体が揺らいでいだ。どうやら図星だったらしい。
「ま、別にいいんだけど」
 かまわず亜由美は皮肉で話を切り落とした。ふっと見せた微笑みは妖しげで、どこか楽しそうだ。しかも相手に謝罪の機会を与えないのは安原とは違った意味でタチが悪い。
 案の定、策に引っかかった葉月もぐうの音が出ないようだ。
「でも、ワキシュー探してるのは本当だもん……」
「はいはい。部室に置きっぱなしかもしれないんでしょ」
 子供をあやすような口ぶりをしたあとで亜由美はそれにしても、と言葉を続けた。
「やっぱ危ないんじゃない? ここの階段、今の葉月にはきつくない?」
「でもここからが一番の近道なんだ。グランドも近いし外を歩く距離も少ないから……と」
「どうしたの?」
「これ……」
「ふうん。転倒防止の滑り止めか」
「昨日はこんなのなかったのに」
 やっぱり変だ、と葉月は続ける。
「だって、あたしの下駄箱にサンダル突っこんであったでしょ。机が勝手に廊下側の席に動かされたでしょ。それにこれ。絶対変。クラスのみんなも教えてくれないし……亜由美は心当たりないの?」
「ない」
「本当に?」
「だから知らないって言ってるじゃない」
「……亜由美が嘘つく時って、まばたきしなくなるんだよね」
 言葉がするりと抜ける。突然の反撃に今度は亜由美が声を詰まらせた。
「これ、田辺がやったんでしょ?」
「どうして……」
「あたしだってそのくらい気づく」
 鋭い眼差しが亜由美を射抜く。勢いに観念したのか亜由美は嘆息交じりに肯定した。
「やっぱり、そうなんだ」
「だから中途半端なことするなって警告したのよ」
 犯人に向けられた怒りの言葉が理恵に突き刺さる。もちろん、智己がそんなことをしていたなんて理恵が知るわけもない。
 ぽっかりと広がった空間に悲しみと悔しさが押し迫る。
「こんなことされて葉月も迷惑でしょ」
「迷惑というか……キツイ。責任だけの優しさなんてもらっても嬉しくないし」
「怪我のこと、恨んでる?」
「恨んだよ。最後の大会だったのに、こんな形で終わっちゃったら納得できるわけないじゃん」
「そっか」
「でも……本当に恨めしいのはあたし自身なんだよね」

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