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 それ以降、グランドで智己と顔を合わせることはなかった。
 どうやら顧問の先生が智己を引き止めていたらしい。理恵が所用でグランドを離れた時に一度解放されたらしいが、すぐ別の先生に呼び出された。
 周りはキャプテンの不在にやや困惑ぎみだったが、指示されたメニューを消化することで気を紛らわせている。
 そして一時間後――サッカー部の活動はようやく終わりを迎えた。
 理恵はゆっくりとした動作でボールを拾う。気がつけばふだんはやらなくてもいいボール磨きまでやっていた。
 小さな集中力が理恵の不安を消し去ってくれる。空はすっかり闇をまとっていて先輩や後輩たちの姿はどこにもない。すっかり置いていかれてしまった。
 でも――これでいいのだ。
 好奇とも、戸惑いともいえる眼差しからやっと解放されたのだから。
 理恵はへとへとの体で部室に戻った。
 片隅に座り込み、疲れを癒す。ぼんやり部屋の中を眺めていると自分以外の鞄が一つ残されていることに気づいた。つけられたストラップは理恵と同じデザインのもの。
 鞄に近づき、そっと手を触れる。初めてデートした記念に買ったそれはすでに色あせていた。
 ここに荷物があるということはそこからまだ解放されてないのだろうか。
 それとも――顔を合わせられないのだろうか。
 後者でないことを理恵はひたすら祈り続けた。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 明るみにでてしまったお互いの嘘。責めるべきは智己なのだろうか。その心をさらった葉月なのだろうか。同じように隠しごとをしていた自分、なのだろうか。
 そこまで考えて理恵ははっとした。
 違う。
 自分たちを陥れた元凶は他にいる。
 確実に責められるべき人間が一人いるではないか!
 理恵はすぐさま制服に着替えると学校を飛びだした。
 連絡を取る必要などない。だいたいの行動パターンは記憶に残っている。
 理恵は駅までの道をひたすら走る。わずかに感じる湿気は心を無性に高ぶらせていた。
 そしてそれは通学路沿いにあるコンビニの前で最高潮に達する。
「ふざけんな!」
 店の前で安原は不機嫌そうだった。
 隣にいる少年の服を掴んで目を血走らせている。少年の手から空っぽのペットボトルが落ちていく。
「てめえの中に罪の意識なんてこれっぽっちもねえのか」
「そんなこと……ない、です」
「じゃあ何で謝りもしねえで逃げたんだよ!」
 安原の言葉は少年を追いつめていく。細い足ががくがくと震えていた。
 状況からして過失は少年の方にあるようだ。だがぱっと見ただけでは安原の方が加害者に思えてならない。
 ふと、少年が自分と重なった。理恵に苦い思い出がよみがえる。
 もう二年前の出来事だ。思えば同じ系列の店だった。

 ――盗んだのは百円にも満たない商品だった。
 お金がなかったわけじゃない。平凡な毎日がつまらなくて刺激が欲しかっただけだ。安原はたまたま店に居合わせただけだった。
 万引きがばれた時、理恵は安原に脅されてやったと嘘をついてしまった。
 恐ろしいことをしたと今でも思う。
 あの時の理恵は今の少年と同じだった。罪の意識よりもこの場所から逃れることしか考えられなかったのだ。
 情にほだされたのか店員は真犯人を叱責していた。安原はありもしない罪で謝罪を余儀なくされた。警察や学校に通報されなかったが、ひとつの嘘が結果として無実の男を巻きこんだのは事実だ。
 後日見た安原の顔は今も忘れられない。
 怒りに震える頬、憎しみに満ちた眼差し。
(てめえが俺に何をしたか……分かってるよな)
 そこから先は地獄だった。
 安原には冤罪を盾に同級生や先生への嫌がらせを強要されたし、向こうが勝手に計画した家出にもつきあわされた。絡まれるのが怖くて、学校を休んだ時は見舞いという名目で自宅に乗りこまれたこともある。
 当然の報いなのかもしれないが、安原の復讐は明らかに度を超していた。
 何度か助けを求めようと思っただろう。
 だが相談するにもつまらないプライドが邪魔をして告白する勇気さえ持てなかったのも事実だ。
 だから高校はめいっぱい遠い場所を希望した。安原が家の事情で進学できないことを知った時、心の中は同情よりも安堵が勝っていた。
 これでようやく解放される。
 離れて、やっと苦しみから解放される、そう思ったのに。
 結局それは、執行猶予でしかなかったのだ――

 まばゆい光が理恵を包んだ。
 乗用車が理恵の側を通過し、安原と少年めがけつっこんでいく。軽く鳴らされるクラクション。やむを得ず、安原は車止めの向こう側へ移動する。
 だが車が店の前に完全に停車する前に、反対側に避けた少年の姿は消えていた。
 安原が車に気を取られた隙に逃げたらしい。
 騙された男は詰まる声を上げながらペットボトルを蹴った。
 それはゴミ箱の側面に当たって方向を変える。空回りする音が辺りをこだまし――やがて理恵の足元にたどりつく。
 そこではじめて、目が合った。
「なんだよ」
 安原の第一声は挑戦的なものだった。きっと恨みがましい目で見ていたせいだろう。
 そこへ着信音が割りこむ。同時に震えた二つの携帯。それぞれのディスプレイに映されたのはメールの着信を知らせるマーク。
 送信元は部活の顧問からだった。
「……あのねえちゃん、全治三週間なんだ」
 理恵が本文を読む前に安原が口を開いた。
「一週間後にある陸上大会が終わるまでサッカー部はグランドの使用を禁止。俺もそれまで部活動も禁止、だとさ」
 耳に届いた言葉とディスプレイの文字は確かに重なった。再び携帯がひとつ、反応する。けだるそうに安原がボタンを動かし――その指がふっと止まった。
「陸上部の三年、今度の大会で引退なんだ。おまえ知ってた?」
 問いかける安原に理恵はしぶしぶ首を横に振った。そもそも、告げられた内容は理恵の携帯に届いていない。
 安原によると葉月が部活に復帰できるまで十日以上かかるそうだ。
 つまり――葉月は最後の大会を諦めなければならないことになる。
「この結果を重く受け止めろ、だとさ」
 自嘲気味に言いながら安原が携帯をポケットにしまった。
 かわりにつぶれた煙草の箱を取り出す、が――まだ自分が制服姿だったことを思い出したらしい。舌打ちをする音が理恵の横を通り抜けた。
「で、おまえは何しているわけ? 今日あいつとヤるんじゃなかったのかよ」   
 無神経な言葉に理恵の体温が上がった。思わず足元にあったペットボトルを投げつける。
「何するんだ!」
「あんたのせいよ……」
「は?」
「あんたがあんなこと言うから――めちゃくちゃになったじゃない!」
「何? もしかしてドタキャンされちゃったわけ?」
 それだけじゃない。
 安原は他の部員たちにも今夜智己が家に泊まることをほのめかしたのだ。過去の話も引き合いに出した。さも自分と何かがあったかのような話しぶりまでして周りの好奇を煽ったのだ。
「俺は事実をありのまま言っただけだ」
「あんな言い方はないじゃない!」
「は。俺の言ったことでどうなるかなんて知るか。想像するのは向こうの勝手だろ。ありもしない噂を広げるのはあっちだ」
 冷静に返され理恵は言葉を詰まらせる。研ぎ澄まされた眼差しは血が流れそうなほどの鋭さを持っていた。
 久しぶりに感じる殺気。
 思いのたけをぶつけようと決心したはずなのに――急に唇が乾いてくる。
 理恵は次の言葉を躊躇ってしまった。
「そうやって被害者ヅラするとこは相変わらずだよな。自分に都合の悪いことは全部まわりのせいにしやがる。今だって、あいつに放っとかれたのも俺のせいだ、って言おうとしてたんじゃねえのか?」
「それは……」 
「でもあれはあいつの本心だろ?」
 もっともな事実が理恵の胸に突き刺さる。
「おまえよりあっちのほうが大事だったってことだろう? つうか、おまえの存在ってそんなもん? 今まで騙されてたわけ? 甘い言葉でほだされて、いいこと利用されて本当は――」 
「やめて!」
 理恵は耳を塞いだ。
 これ以上智己を疑うような文句を聞きたくなかった。
 なのに昨日の夜のことだけが繰り返しよみがえる。あの時、恋人は自分以外の女性を想っていたのに、触れた唇は当時の甘さを拭いきれずにいる。
 智己から告げられた真実は淡い記憶を崩してしまった。粉々になったそれらを掻き集めようとしても、指の間からさらさらとこぼれ落ちてしまう。ついた嘘を認めても、つかれた嘘を許したとしても、その先どうしたらいいのかが分からない。
 このまま気持ちだけ離れてしまったら一体どうなってしまうのだろう。
 安原が口にしたのは、心に巣くった不安そのものだ。言葉に変えられたら――それこそ本当になってしまうかもしれない。
 それなのに。
「残念だったな」
 いっきに奈落の底に落とされた。
 理恵には悔しさだけが残される。再会した日からこの男の前で絶対泣かないと決めていたのに――睨み返すことはできてもこぼれたものを止めることができずにいるなんて。
 どうしてこの男はこんなにも人の気持ちをかき乱すのだろう。
 唇をかんだ理恵に一つの可能性が浮かぶ。
 それは葉月の親友でもある足立亜由美が放った言葉。
 理恵はかぶりを振った。
 ありえない。
 こんな奴が自分を好きだなんてありえない。
 安原から目を逸らし、駅のある方向へ走る。安原が何か叫んだかもしれないが理恵の耳に届くことはなかった。

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