backtopnext



 安原の挑発に理恵の体が強張る。
 いつかは言わなければと思っていた。
 過去に自分が何をしたのか。何から逃げようとしたのか。
 でも理恵にその勇気はなかった。きっと口にしたら智己は失望してしまうかもしれない。嫌われてしまうかもしれない。そんな思いばかりが先走っていたからだ。
 やっと手に入れた幸せを自ら壊すことなどできるわけがなかった。
 このまま逃げてばかりいたらいつか同じだけの罰を受けるのだろう――
 ふいに訪れる罪悪感はそんな思いを増幅させた。
 そしてそれは同級生だった安原が後輩として現れたことで確実なものになった。
 安原は今までになく狡猾だった。
 徐々に追いつめられているのは分かっていた。追いつめて孤立した所を攻撃する――智己の気持ちが揺らいだ今が最大のチャンスだと思ったのだろう。だからここに連れてこられたのかもしれない。
 だが、安原のもくろみは失敗に終わった。その必要はない、と智己が拒んだからだ。
「おまえたちの間に昔何があったかは知らない。でも、俺はそれを聞こうと思わない」
「怖いんだ」
 すかさず安原が切り返す。
「つきあってる女の本性見たくないんだろ」
「そうじゃない」
「じゃあ何だって言うんだ。こいつを信じてるとでも言いたいのかよ!」
 そうだと言ってくれたらどんなに嬉しいだろう。
 過去などどうでもいい、大切なのは今だと言い切ってくれたら。
 しかし、智己の口から理恵が望むような返事は出てこなかった。唇を噛んで、何かに耐えるかのように沈黙を守り続けている。
 こみ上げたはずの感動は一瞬のうちに消えてしまう。いわれようもない不安が足元まで忍び寄る。
 しびれを切らした安原が何か言おうと口を開こうとしていた。
 ――その時だ。
「佐藤!」
 背後から響いた金切りの音。
 緊迫した空気がはじける。悲鳴に近い声にこっちが気圧された。
「青柳……」
 突然現れた第三者。名をつぶやいたのは葉月だった。
 その苗字に聞き覚えがある。以前陸上部で話題になっていたからだ。
 実際は智己よりも少しだけ背が高かった。バランスの取れた体型だが、筋肉がついているか、といわれるとそういうわけではない。肌も白くて、どちらかといえば文化部にいそうな感じだった。
 葉月が急に大人びた、その原因らしき人物に理恵は目を見張る。
「どうした?」
「どうした、じゃないだろっ!」
 彼方は自分の靴を乱暴に脱ぎ捨てる。どこか怒っているような口調だ。
「帰る前に陸上部に寄ったら怪我したって聞いて――」
「ああ、これ?」
 葉月が氷水に漬けていた足を上げると、彼方の、一重だと思っていた瞼の皺がよりくっきりと浮かび上がった。
「ひどく腫れてるじゃないか!」
「はっきり言って――痛い。泣いちゃいそうなくらい痛い。てか泣いた」
「そんなにひどいのか?」
「ひどいっていうか……まだ痛いっちゃ痛いけど」
 そして葉月はこれから病院へ行くことや先生が車用意してくれていることを説明した。
 最後に理恵たちのことにも触れる。
「田辺がここまで運んでくれたんだ。何かすごい騒ぎになっちゃったみたいで……みんな心配して来てくれて」
 それは正しいような、そうでないような、微妙な嘘だった。葉月の声が少しだけはねるも、話は淀みなく続く。
「あたしもあの時はさすがにテンパっちゃってたけどさ、もうだいぶ落ち着いたから。だから大丈夫」
「本当に?」
 確認するような問いかけに葉月は、えっ、と小さく言葉を漏らした。
 彼方は床に膝をつき、葉月を見上げている。
「無理してないんだな」
 彼方の眼差しが葉月を射抜く。わずかな揺れのあとで、葉月はうなずいた。
「……ならいいんだ」
 そこでようやく彼方に笑顔が広がった。
 柔らかい声とともにとりまいていた刺々しさが落ちていく。葉月を想ってかけた言葉だということはここにいる誰もが理解できた。
 今度こそ葉月に動揺が走る。
「心配かけて……ごめん」
 うわずった言葉は儚くて危うげだ。
 理恵は息をのんだ。
 明らかに葉月はうろたえている。うつむいたまま頬を強ばらせ、声を震わせている。
 そこへ彼方の顔が近づいた。
 彼方が何かを囁くと、葉月が何とも言い難いような声を上げる。もう一声かかると、今度は頬を両手で隠す仕草をした。
 葉月の耳が急に熱を帯びる。その様子に目を細めて彼方が笑っている。
 とても不思議な光景だった。
 智己には頭突きまでくらわせるほど攻撃的だったのに今はその逆だ。それどころか葉月にこんな危うさや愛らしさがあるなんて思いもしなかった。
 彼方の前での葉月はどこにでもいそうな、恋をする少女にしか見えない。
 これは彼方にしか見せない表情なのだろうか。
 彼方が現れたことで正直、理恵はほっとしていた。
 安原の話がうやむやになったこともあるが、何よりも葉月の態度が変わったことに安堵した。彼方との間に優しい心が育まれているのが微笑ましいとさえ思えた。
 このままうまくいけばいいと理恵は願う。そこに打算はあったが、願わずにはいられなかった。
「俺、練習戻るわ」
 突然、智己が口を開いた。
「青柳ついてるなら、もう大丈夫だよな」
 葉月が顔をあげた。その先に智己の満面の笑みがある。それは智己がその場から離れる合図だった。
「じゃあな」
 あることに気づき、理恵が声をかけようとする。その前に葉月が呼び止めた。
「その……ありがとう」
 背中を向けたまま智己がうなずく。廊下へ続く扉が静かに動き、人の気配が遠ざかる。
 確かに今が引き時だったのかもしれない。
 智己の言うとおり、役目は終わったのだと思う。
 でも「そっち」じゃないのだ。
 理恵は自分のきた道を戻った。途中、窓の前に置かれたシューズを拾い踵を返す。失礼します、とおざなりに言葉をかけ智己のあとを追う。すでに安原は眼中になかった。
「智己!」
 理恵がシューズを差し出すと智己があ、と声をあげる。やはり出口を間違えたことに気づいてなかったらしい。
「なんだよ。誰もつっこまないなんて、すげえ恥ずかしいじゃないか」
 そう言って智己はおどけてみせるが、気の抜けた笑いはすぐに消えてしまった。
「……疲れているんだよ」
 理恵はつぶやいた。
「この一か月忙しかったじゃない。一年が入ってきて……智己、部をまとめるのに一生懸命だったじゃない。佐藤先輩のことだって、智己のせいじゃない」
 せいいっぱい智己を励ましたつもりだった。だが、それは逆に智己を追いつめてしまったらしい。
「守れなくて――ごめん。本当は理恵を守らなきゃならなかったのに……」
「そんなことない」
 それはまぎれもない本心だった。
「智己は助けてくれたよ。盾になってくれた。私、智己に隠しごとしてたのに、それでも昔のこと、聞かないでくれた……すごく、嬉しかった」
「違うんだ」
 智己はかぶりをふった。 
「あれは怖いとか、信じてるとか、そういうことじゃない。俺も――嘘をついたからで」
「え……」
「本当は――佐藤を傷つけたことも、突きはなしてしまったことも後悔してた。その気持ちをずっと隠していたんだ」
「何、それ」
 蒼白になった理恵の脳裏に昨日のことがよみがえる。
 (俺は自分のしたことを後悔してないよ)
 そう言って智己は優しいキスをくれた。くすぶっていた不安を取り除いてくれた。
 ――それが嘘だと、智己は断言したのだ。
 最初は信じられなかった。いつもの冗談かと思った。
 智己の表情は固い。まっすぐに向けられた意志は理恵から離れようとしない。
 理恵の望んだ世界は完全に落ちた。足元がふらつくと、とっさに智己の腕を探す。掴んで、まだそれが温かいと知って安堵する。
 次に告げられた言葉は残酷なものだった。
「ごめん。今日は一人で帰ってくれないか」
「え……」
「ひとりで、考えたいんだ」
「何、を?」  理恵の問いに智己は黙りこんでしまった。さっき安原に問われた時と同じように。
 何か喋らなければ、と思った。
 理恵は必死に頭を巡らす。だが智己が喜びそうな話題が浮かばない。気持ちだけが焦って、空回りするばかりだ。
 智己を繋ぎ止めたものの、理恵は途方に暮れていた。そして――   
「加山、もう練習に戻れ」
 急に苗字で呼ばれ、ぞっとした。
 理恵の腕を押し戻すと、智己の体が一歩前進する。理恵が振りかえると、ひとまわり小さくなった背中の先に顧問の先生の姿がある。
 智己からは先ほどの苦しげな表情は消えていた。ただ、淡々と事情を説明し指示を仰ぐキャプテンの顔がそこにある。
 部活中の時は先輩後輩として一線を引くのが二人の決まり事だった。だから急に苗字を呼ばれても納得することはできた。
 だがそれ以外は何も納得できてない。
 納得したくなかった。

backtopnext