5 嘘
放心状態でいると、いきなり腕を掴まれた。
「来い」
目の前にあったのは世界で一番嫌いな男の顔。頬にキスでもされるのではないかという距離に加山理恵は息を呑む。
命令される筋合いはもともとない。嫌だ、と言うつもりだった。
だが返事をする前に男は一歩を踏み出している。強く引っぱられたせいで肩に痛みが走った。すぐに腕を進行方向とは逆に動かしてみるが、返ってきたのは鋭い目と重い威圧感だけだ。
半ば引きずられるようにして学校のグランドを横切っていく。人とすれ違うと好奇の視線に襲われた。毎日突きあわせる顔なだけに彼らの反応が怖い。今、彼らがこの男との関係を勝手に想像しているのだと思うと吐き気がしてくる。
理恵はうつむいた。
頭をよぎるのは同じサッカー部の先輩。恋人でもある田辺智己の顔。
でも智己はここにいないのだ。その理由を思い出すだけでも心が潰されそうになる。
どうして――どうしてこんなことになってしまったのだろう。
最初はこの男――安原のわがまままでしかなかった。
グランドを自由に使えないことへの反発。だがそれは仲裁に入った智己への嫌がらせに変わり、被害は隣の陸上部まで飛び火した。安原の蹴ったボールが疾走中の佐藤葉月を襲ったのだ。
葉月が倒れた直後、智己は全てを放棄した。掴みかかった安原も、仲裁に入った部員たちも、自分の存在でさえ素通りし、葉月のもとへ走ったのだ。
葉月の前で智己は焦っていた。やりきれなさを葉月の頬にぶつけていた。感情にまかせたままの行動や言葉たちはめちゃくちゃで――でも葉月を救いたいと願う気持ちだけは心苦しいほどまわりに伝わっていた。
あまりの奇行ぶりに周りにいた者たちは言葉を失ってしまった。葉月を背負う姿に理恵は立ちすくんでいた。
まさか、あれが智己の本心だというのだろうか。
葉月の為なら全てを投げ出しても構わないというのだろうか。
だとしたら。智己にとっての自分は何だというのだろう――
――再び腕に痛みが走る。
突然、安原の足が止まったのだ。
連れ出されてからそんなに時間は経っていない。
うつむいた顔を上げるとガラスの向こう側に智己の背中を見つけた。葉月もいる。テラス窓を開けているせいで、病院と同じ匂いが理恵の元にも届いていた。
どうやら二人のあとを追っていたらしい。
理恵に違和感がのしかかる。
もし安原が責任を感じて、葉月の様子を知るためにここに来たのなら自分がここへ連れて来られる理由はない。もちろん、智己と会わせるためにわざわざ連れてきたとは到底思えない。
「どうして」
安原の手がサッシに触れる前に疑問を投げかけた。だがそれは理恵から発せられたものじゃない。保健室の長椅子に座らされていた葉月のものだ。
「あたしとはもう関わらないって、言ってたじゃない」
葉月の声に抑揚はなかった。かすかに鼻をすする音。まだ、涙が抜けきってないのかもしれない。
今までにないしおらしさに安原の動きが止まった。
「なんで助けるの? どうして――」
「……理由なんて、考えられなかった」
葉月の足が沈められた器を見つめたまま、智己は言葉をこぼす。
「佐藤のあんな姿見たらいてもたってもいられなかった。どうすれば助けられるか、それしか考えられなくて……」
智己は自分の手のひらを見つめる。指を折り、こぶしを作ってからゆっくり顔を上げる。
「すごく痛かった、よな?」
葉月は答えない。そのかわり熱を帯びた頬に手を添えていた。それは少し前、智己の手が触れた場所。
そこへ智己の手が重なる。
「俺、最悪だ。ただでさえひどいこと言って傷つけたのに、怪我まで負わせちまった。本当、ごめん」
「……」
「謝って、それで許されるものじゃないってのは知ってる。でも。このままじゃ自分が許せなくて……何もできないのがすげえ悔し――ぐっ」
突然、詰まる声が天井を突き抜けた。葉月が智己の顎に頭突きをかましたのだ。
「じめじめしてて腹立つなぁ」
後頭部をさすりながら葉月は言う。声のトーンがいきなり跳ね上がった。
「そりゃあ許せないに決まってるだろ! こっちはハンパじゃなく痛かったんだ! 本気で泣いたんだぞ」
「ごめん」
「ほんと最低。こんなことするなんて許せない……つうか、くじいた足よりも痛いってどういうこと?」
「――は?」
「『は?』じゃない! これだこれ!」
葉月が前髪をかきあげる。あらわになった頬に涙のあと。でもそれ以上に目立つのは赤く残った手形の方だ。
「どう見たって足より腫れてるでしょうが。あとが残ったらどうしてくれるんだ!」
「……怒るトコ、そっちなんだ」
「当然でしょ! あたしだって女の子なんだから!」
その一言で智己が固まる。一瞬だけ間が空いたのが癪だったらしい。
葉月が洗面器から水をすくって投げつけた。
「つめてっ。何するんだ」
「今、あたしのこと『気持ち悪い』って思ったでしょ。顔に出てた!」
「思ってねえよ。ただ……今頃になって自覚したんだ――って……うわっ!」
今度こそ氷の塊が智己の顔を直撃する。ここにきて初めて、葉月に笑顔が広がった。ひどいな、と毒づく智己に悲しみの色が抜ける。
理恵は二人を遠くで見ていた。
彼らの会話がささいでつたないものであっても、その奥に秘められたものは無意識のうちに相手を優しく包んでいる。
それは理恵が強く望んでも決して手に入らない。この二人だからこそ与えあえるもの。
以前二人が一緒にいる所を見たくない、と言ってしまったのはそれがあったからだ。
智己は特別な感情がないと言っているけれど、彼らの間には自分が入りこめない何かがある。
もちろん、罪悪感はあった。彼女の特権をふりかざし二人をひき離したことは申し訳ないと思っていた。でもそれは穏やかな時間を、平和を崩されたくなかった故のこと――
理恵は二人から目を逸らした。このまま逃げたいとさえ思った。
だが理恵を掴んでいた手がそれを許さない。
安原の指がぎりぎりと食いこんだ。理恵の鋭い悲鳴に部屋にいた二人が反応する。
「邪魔して悪いな」
待っていました、とばかりに安原が境界線を越えた。
理恵も靴のまま舞台へ放り出される。目の前にあるのは智己の驚いた顔。その奥では葉月が口をぽかんと開けている。
「ちょっといいか?」
安原は智己を押しのけ、葉月に近づいた。葉月に緊張が走る。安原が負傷した足を一度見据える。
「ボールを蹴ったのは俺だ」
「え……」
「俺はこいつがむかついて、こいつにボールでもぶつけてやろうと思って蹴った。でもこいつはよけて、あんたに当たったんだ。事情はどうあれ、巻きこんじまった。すまない」
あっさりと頭を下げた安原に葉月は固まる。
智己も言葉を失っていた。普段態度が大きいのを知っていただけに意表を突かれたのだろう。
理恵さえ最初は驚いた。だが、次の瞬間に襲ってきたのは言われようのない恐怖。
その裏に何かあると思ったのは、深読みのしすぎだろうか。
「安原、もういい」
沈黙を破ったのは智己だった。
「佐藤に怪我を負わせたのは俺にも責任がある。俺も周りをちゃんと見ていればよかったんだ」
「……気持ち悪いな」
安原が顔を上げる。
「バカの罪かぶったところで何になる? 俺に貸しでも作ろうってわけ? 弱み握って服従させる魂胆?」
「別にそういうわけじゃない――ただ」
「ただ?」
「これはおまえだけを責めて終わらせることじゃない。そう思っただけだ」
佐藤、と智己が呼びかける。
「もう一度サッカー部と代表としてあやまらせてもらう。うちらの問題に巻きこんで本当に悪かった」
「は……ぁ」
葉月の返事は気の抜けたものだった。無理もない。あの時の葉月はサッカー部がここまでに至った経緯を正確に掴めていなかったのだ。
そんな葉月を見て、安原の口元がわずかだけ右上がりになった。視線がこちらに送られる。企むような眼差しは昔見たものに限りなく近い。
「ふうん。あんなにテンパってたのに、自分で何をしたかは理解できたんだ」
「ああ。おまえとの話も投げ出して悪かった。この続きは……」
「――今、しようか?」
いぶかしげな顔をする智己に安原は不敵な笑みをのぞかせた。
「教えてやるよ。俺があんたを嫌う理由。それに――理恵が何を隠しているのか」
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