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 放課後、智己は部員たちに基本メニューをこなすよう指示すると、理恵を部室に呼び出した。
「ちょっと聞きたいことがあったんだ」
 安原の名を口にすると理恵の顔色がさっと変わった。
「安原って、理恵と同中だったんだな」
「誰に聞いたの?」
 今までになく怯えた理恵を見つけて智己は首をかしげる。それでも、先生にだけど、とつねられた耳たぶに触れながら答えてみる。
 結局、先生には自分で解決しろと言われてしまった。
(田辺は人をのせるのが上手いが、肝心な所で臆病だな。おまえが探しているのは解決策というより、自分が傷つかない方法だろう?)  先生の指摘は痛いところを突いていて智己は返す言葉がなかった。
(そういったことからは逃げない方がいい。冷静に物事を見つめれば解決方法はいくらでもあるんだから)
「――まぁ。あいつが中学浪人したって聞いて俺も驚いたけど、それって学年一緒だったってことだよな」 
「……智己は何を知りたいの?」
「何、って。まあ、何でサッカーにこだわるのかなあ、とか? あいつのことが分かれば部の雰囲気を変えられるんじゃないかと思ったんだ。事情が事情だし、同じ中学の一年より理恵に聞く方が早いかなと」
「それだけ?」
「それだけだけど?」
 そう続けると理恵の口から安堵とも取れるようなため息がこぼれた。周りにあった緊張の色が少しだけ抜ける。
「確かに安原とは中学一緒だけど――その、ごめん。何も知らない。私、ああいう男と関わりあいたくなかったからずっと避けてたし……今も嫌いだし」
 おや、と思った。
 苦手な人間にも穏やかに振る舞う理恵があからさまに拒絶を示すのも珍しい。葉月の時でさえ気を使っていたというのに――
 もしかしたら昔、安原と何かあったのだろうか、ふとそんな思いがよぎってしまう。考えてもみれば、理恵の中学時代の話は聞いたことがないのだ。
「そうか」
 それでも智己はあっさりと引き下がった。
 わざわざ不快な思いをさせてまで聞くつもりはない。いつか理恵が話したくなったらそれでいいと思うし、安原を探る方法は他にもある。
 それに、後ろめたいことは自分にもあった。
 智己の記憶にはまだ、火傷してしまいそうな赤がこびりついている。わずかな時間で彼方に見透かされたかと思うと、背筋が凍りついた。
 やはり関わるべきではなかった。あの時、すぐにでも教室を立ち去るべきだったのだ。
 そうすれば己の愚かさを知ることもなかったのに――
「智己?」
 はっとした。気がつくと、理恵が心配そうに智己を見つめている。
「何かあったの?」
「いや。何でもない」
「ならよかった」
 やがて理恵の表情が柔らかいものへと変わる。弓なりになったまつげに光が差しこみ、頬がほんのりとピンク色に染まった。
「今日のことだけど……その」
 泊まるよね、と唇がたどたどしく問いかける。すがるような目で見られてしまった。
 いつもならこういった色っぽさにうろたえてしまうところだが――不思議なことに、今の智己はこのやりとりを他人事のように受け止めていた。
 それでも、誘いを断る理由なんてどこにもない。
「もちろん」
 智己は微笑んだ。
 ちゃんと返事をしたはずなのにまるで自分の声じゃない。どこかはぐらかしてしまった気分だった。

 理恵と一緒にグランドに戻ると、異様な空気が取り囲んだ。ゴール付近で安原が二年生と対峙している。
「どうした?」
 二人の間に入って話かけてみると、二年生が先に口を開いた。
「陸上部がグランド使わせて欲しいって言ってきたから、移動するように指示したんです。そしたらこいつが」
「だから、あいつらにグランド明け渡す意味がわかんねえって言ってるんだよ」
 安原はあさっての方向に吠えていた。その先には久保がピストルスターターをあからさまに見せつけ、安原を狙っている。その隣では葉月が複雑な顔をしていた。彼女もまた、ハードルのタイムトライアル直前のせいか殺気立っている。
 ……どうも空気が悪すぎる。
「悪い、少しだけ時間くれ」
 智己は一度陸上部に断りを入れてから安原を見すえた。
「安原、いいかげんにしろ」
「やだね。俺だってあいつらに愚痴る権利はあるだろう。言っとくけど、ヤニはもう吸ってないからな」
「だとしても、だ。部の方針を変えるつもりはない。これは代々のサッカー部と陸上部の間で決められたことなんだからな」
「そうやって仲良しこよしでやってるからレベルが低いんだよ。キャプテンがひ弱だとまとまらないよなぁ」
「何?」
「それとも部活のあとのお泊まりのほうに頭がいっちゃってたわけ?」
 安原の口撃に智己は返す言葉を失う。
「聞いてたけど晩メシはシチューだって? えらい違いだな。俺と泊まった時はインスタントの湯すら沸かしてくれなかったくせに」
 衝撃が走った。安原がわざと声のトーンを上げたことで、周りにいた部員たちの好奇心が煽られる。感染する疑惑。理恵の顔は真っ青だ。
 まさか、昨日の会話を聞かれていた――?
 安原の勝ち誇ったような顔を見て、智己を取り巻く炎が揺れた。それは昼間彼方が描いたような熱い色ではない。海とも違う醒めた色。頭の中には一点の曇りすらみえなかった。驚くほど冷静な自分がここにいる。
 こんなにも冷えてしまったのは、先生の話を聞いたからだろうか――
 理恵と安原に昔何があったのかは知らない。
 でも今までの様子からして、安原は今も理恵に何らかの感情を寄せていることは分かる。そして理恵はそこから必死に逃げようとしているのではないか。
 そう考えると全てが腑に落ちる気がした。
 つまり――サッカー部に入ったのも陸上部に絡むのも、理恵と理恵が大切に思っている者に対する嫌がらせだったのだ。
 おそらく以前理恵に絡んできた男、というのも安原なのだろう。
 冷たい炎が胸をちりちりと焦がす。確かに安原の発言にショックは受けた。だがそれは怒りにも届かない。ずっと隠していた理恵を責めるつもりもなかった。
 むしろ自分のふがいなさに吐き気がする。
 理恵を守らなくては。
 今できることは好奇の矛先を彼女からそらすことだけだ。
「安原、サッカー部員としてキャプテンである俺の指示に従え」
「あ?」
「言いたいことがあるなら、別の場所でちゃんと聞いてやる」
「るせえな。急に大人ヅラしてるんじゃねえよ!」
 突如グランドの奥から雷のような音がした。同時にサッカーボールが頬をかすめる。至近距離で安原が蹴ってきたのだ。
「そうやって上から見ている態度がムカつくんだよ!」
 胸元を掴まれた。目の前にある顔からは殺気が溢れている。しなった安原の腕を智己は利き手で抑えこんだ。
 場合によっては殴られるのも、殴るのもやむを得ない――智己の頭がそう判断を下そうとした時だった。
 背中から届いた、かすかな悲鳴。
 何かが倒れ、この世から空気が抜けていく音に悪寒が走る。
 振り返った先にあったのは――
 智己を支配していたものの全てが、消えた。
 安原をめいっぱい突き飛ばす。喧嘩を止めようとした部員たちをすり抜け、理恵を素通りし――ひたすら走る。
「佐藤っ!」
 葉月は百メートルコースの真ん中でうずくまっていた。
 倒れたハードルの側に五角形の連なりがへこんでいる。ずっと背を向けていたから詳しい状況は掴めないが、葉月は走るのを待てなかったのかもしれない。そして跳んでいる最中に逸れたボールが――
 すぐさま安原を責めるべきだったのかもしれない。
 しかしそれは違うと思った。安原を止められなかった自分にも非はある。陸上部がタイムを計ると知っていたというのなら、トラック以外にも気を使うべきだったのだ。
 遅れて久保がマネージャーを引き連れてやってくる。大声で何か指示をしているようだが、それは智己の耳をただ通り過ぎるだけだ。
 一番に走ってきたはずなのに――体が動かない。
 さっきまでの冷静さはどこにもなかった。
 よみがえったのはあの冬の日だ。
 あの時も、葉月を傷つけておきながら何もできなかった。同じようにこのまま終わってしまうのだろうか。
 急に怖くなって、智己は考えを巡らせた。
 救急車か、それとも先生への連絡か――
 いや、まず先に葉月を落ち着かせなければ。
 智己は何度も葉月に声をかけた。葉月の頭の中は痛みだけが支配しているようで、それ以外の思考も感情も入る隙も与えてはくれない。
 無駄に時間だけが過ぎていく。周囲に広がるざわめきと共に、智己の中にわけの分からない苛立ちが広がっていった。どうして、と思わず言葉が漏れてしまう。
 葉月はいつもそうだ。
 無垢で正直で無鉄砲で――相手にどれだけ心配かけているのか全然分かっていない。
 真っ直ぐにしか走れない大バカ野郎だ。
 だからこそ――愛おしくて。
 智己は心にたまったものを葉月の頬にぶつけた。乾いた音。いままであった喧騒は失われ、我に返ったようにしゃくり上げる声だけがグランドを駆け抜ける。
 智己は手の平に残ったしびれが消えないうちに言った。
「少しは落ち着いたか?」
「たな……べ」
「バカ野郎! 何やってるんだよ!」
 謝罪よりも先に怒りの言葉が出てしまった。もしかしたら感情のねじが外れてしまったのかもしれない。
 葉月も智己の罵声に反論しようと思ったのか、唇をわなわなとさせている。だが余分に吸った息が邪魔しているようで言葉もままならないようだ。
 できることならその肩を自分のもとへ寄せて呼吸を楽にさせてあげたい。頬に触れ、叩いて悪かったと謝って優しく包んであげたい。
 しかし今はそんな場合ではないのだ。
 智己は葉月の手を押しのけ、強引にスパイクを取り払う。予想通りくるぶしの下に不自然な膨らみがあった。腫れは時間とともに広がりを見せていて、素人目にもアイシングや冷却スプレーで解決するようなものではないと分かるものだ。
「かなり痛いのか?」
 言い返すことを諦めた葉月がうなずく。
 ここにきて罪の意識がこの胸に戻る。
「こんなに腫れてたら、そりゃあ痛いよな……ぜんぶ俺のせいだ……ごめん」 
 智己がうなだれると葉月の前髪が大きく揺れた。何度も首を横に振ったあと手で顔を隠し――やがて泣き崩れてしまう。
 それは今まで閉ざしていた感情を吐き出すかのようで、心を締めつけられた。
 葉月の右腕を掴み自分の肩に回す。柔らかい胸を自分の肩を沿わせ、おんぶをする。止めようとするものは誰もいなかった。
 道のりの途中に理恵がいた。その隣に安原がいた。
 呆然と立ちつくす二人を見て、自分が何をしてしまったのか思い知らされる。結局安原との喧嘩を中途半端にしたまま抜けてしまった。
 理恵を守らなければならなかったのに――
 だが起こった順番が逆だったとしても葉月のもとへ走っていたのかもしれない。
 二人を一度見てからゆっくり視線を戻す。言葉をかけることはなかった。
 この先どうなるかは想像がつかない。
 でも葉月を救えるのなら――この先訪れる苦しみや悲しみも、いかなる制裁も受け入れられると思った。
 それが報われない想いだと知っていてもその覚悟だけが自分を支えてくれる。それだけで心は満たされる。
「もう迷わないから」
 智己は葉月の前でそっと誓った。
 心の中にあった長い冬が、ようやく終わりを告げようとしていた。

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