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 翌日の昼休み、智己は理科室を訪れていた。
 サッカー部の顧問にこれからのことを相談するためだ。
 新入部員は思った以上に入ってきた。しかし新しいチームをまとめるのにはいささか不安がある。
 特に安原は爆弾だ。昨日のことが続くけば二、三年の士気にも関わってくるだろう。
 悔しいけれど、今の自分には安原を諭す力がない。
 だから先生には部員たちの前で安原を指導してもらおうと思っていた。
 朝一番でその旨を話すと昼休みに詳しい話を聞こう、と言われた。だから指定された場所に来たのに――
 当の相手はいない。約束の時間はとうに過ぎていた。
「気楽でいいよな」
 思わず呟くと、扉が開いた。
「遅いよ先生。一体何――」
 振り返り、智己は言葉を失った。目の前に彼方がいたからだ。向こうも智己がいることに目を丸くしている。
 こんな情況は前にもあった。あの時はただ絶句するだけだったが――
「おう、どうした?」
 気持ちとはうらはらに笑顔をふりまく自分がとても悲しかった。
「……ここでスケッチでもしようかと」
 彼方は手に持っていたスケッチブックを胸元まで上げる。彼方が絵を描いていることは噂で聞いていた。
 そうか、智己はうなずく。乾いた笑いが広がった。
「俺は先生に用があって待ってるんだけどさ。まだ来てないみたいなんだよねえ……」
「そう」
「待ってるのって何かやだよな。こんなじめっとした所で暇つぶすのも時間の無駄っていうか」
 すると彼方が一度、スケッチブックに目を落とした。少し考えるような仕草をしたあと、ひとり納得したような顔をする。
「だったら先生来るまでモデルやってくれないか?」
「は?」
「『あれ』描くのもそろそろ飽きちゃったからさ」
 そう言って彼方が指で示したのは体中に赤筋を立てた人体模型だ。
「田辺ならサッカーやってるから筋肉ついてるし、描きやすそうだよな」
 やっぱり生身の方がいいよ、と彼方は言う。正直そういう誉め方をされてもあまりいい気分ではない。
 智己がいぶかしげに見つめている彼方が笑った。
「別に脱げとか言わないから大丈夫だよ。そんな趣味はない」
 的が外れているが、彼方の印象は最初見た時より悪くなさそうだ。退屈しのぎにはいいかもしれない。
「いいよ」
「じゃあ、机の上に座って。で、ポーズは……」
 彼方に言われるがまま智己は足を組み首だけを横に向けた。背中を少しだけ後ろに反らして手を机に添える。
 一方、彼方は教卓から一メートルほど離れた場所に席を取っていた。制服のポケットを探っている。出てきたのは、キッチンで使われるようなタイマーだ。
 彼方がタイマーのボタンを押した。
「とりあえず十分間」
 モデルなんて、校長の長話を聞くのと変わらないだろうとたかをくくっていた。
 意外にも侮れなかったと知ったのは開始から三分経ったあとである。
 さほど難しくもないポーズなのに変に力が入っていることに智己は気づいた。異物が入ったわけでもないのに体がむず痒い。
「……あのさ」
 気をまぎらわそうと智己は彼方に声をかけてみた。が、動くなと逆にはね返されてしまう。
 神経をとぎすませたような声に腹立たしい思いはあったが、そのうち口を尖らせることさえ辛くなってしまう。余計なことをしてしまったと智己は後悔した。
 感情を出すことを諦めたら、ただじっと耐えるしかない。
 時間きっかりでタイマーが鳴ると、スケッチブックがくるりとひっくり返った。
 彼方が描いたのは輪郭だけの大雑把なものだ。それでも体を縁取る線は尖らせた口元を含め、正確に描かれている。今にも振り向きそうな気配さえあった。素人目にも上手いと思えるものだ。こんなに綺麗に描いてくれたのは初めてだった。
「……すげえ」
 今までの苛立ちや疲れが一気に吹き飛んだ。確かな手応えに彼方も目を細めている。まだ先生の来る気配はなさそうだ。
「じゃあと一枚だけ」
 彼方がスケッチブックを翻し、鉛筆を替えた。新たに一ページがめくられる。
「今度は自由にしてていいよ。喋ってもいい」
「動いて平気か?」
「動いているものを素速く捉えるのも勉強だし」
 絵のことはよく分からないが、そんなものだろうか。
 とりあえず彼方の言う通りにさせてもらった。智己は組んでいた足を戻し、あぐらをかく。一度首をぐるんと回すと、間接が外れる音がした。
 彼方は黙々と智己を写しとっている。
「……ここで描いてるのか?」
「まあね。ここには面白そうなのがいっぱいあるから」
 智己は首をかしげた。鉢植えの植物はともかく、筋肉の模型やホルマリン漬けにされた標本を描いて何が面白いのだろうか。彼方の考えていることが理解できない。
 それにしても、待ち人は何をしているのだろう。
 智己は教卓に座ったままぼんやりと周りを眺めていた。長机の間にある細い水道とステンレスの器がお互いを照らしている。窓際には実験と先生の趣味で育てられた植物たちが佇んでいた。水槽には小さな魚――側面を這う苔独特の匂いが鼻につく。
 やがて視線は彼方が抱えているスケッチブックにおさまった。
 描いている絵の裏側には深い海の色で描かれた女性の顔。まっさきに飛びこんだのは憂いを帯びた瞳だった。
 髪が今より短いだけに、感情がすっと染みわたっていく――
「佐藤……」
 ふいの呟きに彼方の手が止まった。そして今開いているのが最後のページということを思い出し、ああ、と呟く。
「それ、いい出来だったから、裏に貼っておいたんだ」
 俺のお守り、と彼方は続ける。
「佐藤だってよく気がついたな」
 気づくも何も、自分が知っているベリーショートの女は葉月しかいない。
 でも彼女のこんな表情は今までに見たことがなかった。
 そういえば、と智己は思う。以前も似たような感じの絵を見たことがあった。あれは――そう、去年の文化祭のポスターだ。
 あの時も青い海に囲まれた人魚をどこかで見たような気がして、ずっと見入っていた覚えがある。
 後日ポスターは彼方が描いたと誰かから聞いた。
 あの人魚も葉月をイメージしたものだったのだろうか――
「なあ」
 それを知りたくて、智己は彼方に声をかけた。だが鉛筆を持っている手が葉月に触れたことを思い出し、気が変わる。
「佐藤と付きあっているのか?」
 それは今一番聞きたくもあり、聞きたくなかった質問だった。
「その。色んな所で噂になってるっつうか。どうなのかな、って」
「……佐藤から聞いてないのか?」
「まぁ色々あって、さ」
 智己は言葉を濁した。やはりこういったことを今更聞くのはばつが悪い気がする。
 再び鉛筆が動いた。今度は紙を叩きつけるような音が広がる。手の動きとはうらはらに視線はさっきより穏やかなものだった。
 やがて、彼方にやわらかい微笑みが広がる。
「付きあってるよ。それなりに」
 智己の胸に、見えない杭が刻まれた。
「あいつって普段うるさくてずぼらだけど、何か可愛いよな」
「そう、かぁ?」
 目を合わせたくなくて智己はうつむいた。つい気持ちとはうらはらな言葉を吐いてしまう。歪んだ口元が顔から今にも飛び出てしまいそうで、押さえこむのに必死だった。
「可愛いよ。昔俺が『汗くさい』って言ったから『ワキシュー』手放せなくなったとことか」
「え」
「ああ。俺たち小学校が一緒だったんだ。クラスはずっと別だったんだけど」
 遠い眼差しが智己を抜ける。ひょうたんから駒というのはこういう事を言うのだろうか。まさかそんな昔から関わっていたなんて――
 俺たち、というひとくくりが智己をもてあそぶ。久保が葉月を誉めている時はさほど気にはならなかったのに――彼方が同じように語っているのを聞くと胸元がくすぶってくる。ずっと押し込めていたもののたがが今にも外れてしまいそうだ。
「あいつ、あの時から俺の絵を誉めてくれたから……すごく嬉しかったよ」
「そう……」
「まぁ、俺が初恋だったってあとで聞かされたことの方が嬉しかったけど」
 とどめのカウンターパンチが効いたせいか、それ以上会話は続かなかった。
 しばらくして、時を知らせる鐘が鳴る。
「こっちの方がいい感じに仕上がったよ」
 再び彼方がスケッチブックをひっくり返した。最後のページに描かれた人物画は一枚目同様輪郭だけだが、先ほどよりさらに繊細に描かれている。
 驚いたのはその色彩だ。
 紙の上には赤一色しかない。今度は体を少し丸めるようにしてあぐらをかいていた。血液にも似た色は情熱とは違う、もっと深くどろどろとしたものを訴えている。
 それはまるで――
「嫉妬」
 彼方の一言にびくりとする。
「……よかったらあげるけど。どう?」
 葉月の家を訪れていた時と同じ目が智己を見つめていた。奥に見える鋭さは亜由美とも違う。自分の方が葉月を知っているとでも言いたげそうな優越感。
 葉月はもう遠い所にいるのだと言っているようにさえ感じた。
 体中からふつふつと沸きあがる熱さ。それは憤りという言葉に変わり、拳に溜まっていく。
 まさに薄っぺらな紙の世界と現実が重なろうとしていた。
 あと数秒遅かったら、確実に彼方に飛びかかっていただろう――
 智己の衝動を止めたのは白衣を着た中年男だった。
「おう。待たせたな。昼の会議が長引いちゃってさぁ……」 
 そのしまりのなさを見た瞬間、智己の中にある何かがぶつん、と切れる。
「ざけんな! てめえが日和見てるからこんなことになるんだ。どうにかしろ!」
 言って、しまったと思った。どうやら安原の口ぶりが感染ってしまったらしい。
 しばらくして彼方以外の冷ややかな視線が智己を突き刺した。
「ほお。それが相談を請う人間の態度か、田辺」
「いや、その。これはものまねというか……」
 やがて断末魔の叫びが教室にこだました。

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