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 太陽が沈んだ後も、智己はボールを追いかけていた。
 部活後の個人練習――智己はキャプテンに就任した時からそれを毎日欠かさず行っている。
 他に練習するものは誰もいなかった。陸上部は二時間前に引き上げたし、サッカー部も三十分前に全ての練習メニューを消化しきったばかりだ。
 外灯の下、智己はひたすらボールを蹴り続ける。
 リフティングは練習の積み重ねだ。ボールの高さがほぼ同じになるように心掛け、足首を固定するようにしてボールの中心を蹴りあげる。
 心に余裕ができると膝でリズムを取るように足を動かしてみた。時々頭で受け止めたり腿の上でドリブルしてみたりする。滑らすようにボールを落とすこともあれば、足の甲を使って蹴り上げる。連続回数が三桁を超えるとあとは集中力との戦いだ。
 智己はそれをトータルで九百九十九回まで続けると、最後のひとつは空に向けて蹴りあげた。
 白と黒のコントラストが宙を舞う。月と重なり、引力に導かれるまま沈んでいく。地面にぶつかる前にそれを片手ですくい上げた。
 ボールを抱え、ゴールの先にある黄色いベンチへ向かう。そこには制服に着替えた理恵が待っていた。
「お待たせ」
「お疲れさま」
 ボールを地面に置き、ペットボトルを受け取った。中に入っている水を一気に飲み干すと、動いている時より汗が出てくる。新陳代謝はすこぶる良いらしい。
 それからベンチに腰掛けようとして――おや、と思った。あらかじめ置いてあったタオルの横に携帯電話がある。
「これは?」
「忘れ物……みたい。貴重品入れに残っていたの。智己が預かってくれる?」
「それは構わないけど」
 こんな大事なもの、一体誰が忘れたのだろう。
 ボタンを操作し、持ち主のデーターを探すと「安原」と出てきた。
 呆れた。さんざん人を振り回したくせに、携帯を忘れたまま帰ってしまうなんて。
「あのバカは何をやっているんだ」
 智己は思わず本音を落としてしまった。
「まったく。俺にやたら突っかかりやがって。俺に恨みでもあるのか」
「……」
「ああ、こんなこと理恵に愚痴っても仕方ないよな。悪い」
「ううん。そんなことない」
 智己は携帯を一旦戻し、タオルに顔をうずめた。塩気を含んだ雫が柔らかい繊維に染み込んでいく。一度深呼吸すると、心音がより鮮明になった。
 そこに理恵の声が重なる。
「明日家に来ない?」
「え」
「親戚で法事があって――夜、一人なんだ。だから学校終わったらその、晩ご飯でも一緒にどうかな」
「いいけど……でも俺、ご飯食べたら動かなくなるからなあ……」
 そしたら泊まっちゃうかもよ、と智己は続ける。もちろん冗談で言ったつもりだった。
 だが、理恵はあっさりうなずく。
「明後日まで、親いないし」
 タオルがぱさりと落ちた。理恵の耳が真っ赤になっているのを見て今度はこっちが恥ずかしくなる。
 親がいない、の一言で口にはできないような妄想が広がってしまったではないか。
 このままじゃ動悸どころかめまいがしてくる。
 ――理恵と付き合って、もう半年以上が経とうとしていた。
 一緒にいて「そういうこと」を考えていなかったわけじゃない。それなりに欲望や期待もある。あと一歩を踏み出せなかったのは自分の押しが足らなかったせい。チャンスはいくらでもあったのに、心のどこかで欲望のまま「して」しまうのは悪いような気がしてならなかったのだ。
 お調子者なんて、裏を返せば傷つくのが怖いだけの臆病者だ。でも理恵はそんな男を一番に想ってくれる。だからその気持ちに応えてあげたいと思うし、それ以上の愛情を注げたらと思っていた。
 智己はベンチの上で正座をすると深々と頭を下げる。
「ふつつかものですが一晩お世話になります」
 そう言うと理恵が笑った。長い髪がふわりと揺れる。
「わかった。明日は智己の好きなもの作るね。何がいい?」
「俺は何でも食うよ」
「じゃあ……ビーフシチューにする」
「……」
「どうした?」 
「うん。こんなに幸せでいいのかな、って」
「そうか?」
「昔は彼氏ができるなんて想像できなかったから。智己のおかげだね」
理恵はベンチの隅っこをなでた。そこにはマジックで書かれた短いラブレターがある。
「智己がサッカー部に誘ってくれたから――私、変わることができたんだよ」
 一年前、智己は部活勧誘のビラ配りをしていた。
 理恵もフレームのついた眼鏡をかけていて、新入生の中でもあまり目立たない方だったと思う。
 きっかけは配っていたビラを新入生の誰かが捨てたことから始まった。
(まだ綺麗だし、もったいないから返します)
 そう言って理恵は拾ったビラを智己に返してくれたのだ。
 その行動は流れるようで、あまりにもさりげなくて――
 智己は直感した。
(君、大当たり。お礼にサッカー部のVIP席へ案内してあげよう)
 今思えば強引な勧誘だったのかもしれない。
 でもあの時は先代のキャプテンにマネージャーを見繕ってこいと脅されていたのだ。
 突然畑違いの場所に連れて行かれ理恵もかなり戸惑っていたが、最後には入部届を提出してくれた。
 理恵は智己たち部員に追いつこうと一生懸命だった。
 サッカーの基本的なルールも、くだらない冗談も最後まで聞いてくれる。練習中は積極的にボール集めもしてくれた。新しいマネージャーを誉める部員が増えていくたびに、智己は誇らしげな気分にさえなった。
 自分が引っ張ってきたという責任感もあってか、他の部員より理恵と話す機会は多かったのだと思う。
 一生懸命の理由を知ったのは期末テストが終わった日のことだ。
 あの日、理恵は倉庫から引っ張り出されたばかりのベンチに座り、何かをじっと見つめていた。智己が通りがかったのはまさに偶然だった。
(『先輩のことが大好きです。付きあってください』)
 突然の告白に智己は目を丸くした。
(何それ。もしかして俺に言ってるの?)
(え……あっ! あの、違うんです。確かに先輩のことは大好きですけどその、今のはここに書いてあったのをそのまま読んだだけですから!)
 理恵はベンチの隅を指しめいっぱい否定するが、さらに墓穴を掘ってしまったようだ。そのあどけない顔に火が吹いたのは言うまでもない。
 ――その時を思い出したのか、理恵が苦笑する。
「あの告白は間抜けだったよね。あのあと逃げようとしてずっこけて――確か、コンタクトレンズもその時落としちゃったんだよね」
「でも、嬉しかった」
 当時智己には別に好きな人がいた。けれど、誰かが自分を想ってくれていることがとても嬉しかった。ときめいたのも事実である。
 ――それが怖かった。
 理恵への感情は今まで抱えていた恋心とも違う。もっと温かで穏やかなものだ。
 だが智己の心は揺らぎ始めていた。想いがなかなか通じない恋をしていただけに、迷いが生じたのだ。
 さんざん悩んだ結果、智己は片思いの相手に全てを打ち明ける決心をした。この気持ちを全て告白すれば何かが変わるかもしれない。想うことと想われること、今の自分にはどちらが大切か分かるかもしれない、と。
 結局片思いの方は想いは届かなかったけれど、理恵のおかげで新しい一歩を踏み出せた。
 だから理恵と一緒に歩いていきたいと思ったのだ。
「俺も、理恵がいたから変わることができたんだ」
「智己……」
 理恵がまじまじと智己を見つめる。嬉しさの奥に未だ信じられないといったような顔。それは去年の夏休みに交際を申しこんだ時と同じ反応だった。
 しかし、その表情にもやがて影が差す。
「佐藤先輩、最近変わったよね」
「そう、だな」
「私たち、このまま幸せでいいのかな」
 理恵の不安を、智己は痛いほど感じていた。
 (智己が佐藤先輩と一緒にいる所を見たくないっ)
 以前、葉月の前でそう言ってしまったことを、理恵はずっと悔やんでいた。
 苦渋の決断は様々な場所へ波紋を呼んでしまっている。葉月を傷つけ、亜由美を怒らせ――理恵もまた悩んでいる。
 責めるべきは自分だ。そう言いたかった。しかしそれを口にしてしまったら逆に理恵を悲しませてしまう気がして、何も言えずにいる。
 これ以上誰かを傷つけることはしたくなかった。
 だからひとつだけ、嘘をつく。
「俺は自分のしたことを後悔してないよ」
 理恵の頬を両手でなぞる。瞼を閉じ、桜色に染まった唇に口づけた。お互いの体温が上がるのを直に感じる。
「俺には理恵がいるからいい――それでいいんだ」
「ん」
 しばらくの間、群青色に染まった空を二人で眺めていた。
 浮かぶ月は霞みがかっていて、とても朧げだった。

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