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 桜はあっけなく散ってしまった。
 新たに芽吹いた葉は太陽の光を浴び、より濃く色づく。
 四月も終りが近づくと肌に感じる温かさは暑さへと変わりつつあった。
 また新しい季節が近づいてくる。
 ――この日の放課後、智己は新しく入った部員の様子をゴール脇から観察していた。
 コーナーキックひとつとっても結末は様々だ。味方に上手くアシストする者もいれば、反対側のコーナーまでボールを飛ばしてしまう者もいる。奇跡的にコーナーからシュートを決めるものもいた。
 新入生たちの実力はまちまちだったが、どれも鍛えがいはありそうだ。
「キャプテン」
 名前を呼ばれ、智己は振り返った。声をかけてきたのは先ほど新入生のボールを受けていたキーパーだ。
「その、マネージャーの件なんですけど」
「おお。新しい子は見つかったか?」
「それがまだ……何か声かけづらくて」
 このぐらいで終わりにしていいですかねえ、と後輩は弱気なことを言う。
「勧誘時期も終わったことだし」
「そこで諦めるなよ。残りものには福があるかもしれないだろ?」
 智己はくるりとグランドを見渡す。フェンスの向こう側に制服姿の女子を数人見つけた。はしゃぐ声が初々しい。
「ほら、あそこに一年生いるぞ。おまえ誘ってこい」
「ええっ」
「今週中に新しいマネージャー確保できなかったら、全体責任で練習二割増しな」
 そう言って智己は悲鳴をあげる背中を突き飛ばす。後輩はよろけながら彼女たちに近づいた。必死になって喋っている姿は見ていて滑稽だ。
 智己の口元が思わず緩んだ。
 あの後輩は強引さに欠けるが、次期キャプテン候補として問題はないだろう。
 むしろ問題は――と思い、智己は再びコートを見据えた。すぐに不穏な空気を察知する。
 部活が始まってすでに一時間。重役出勤か、智己はこっそり毒づいた。
 ようやくグランドに現れた男は持っていた携帯電話をジャージのポケットにしまいこんでいた。赤い髪がやけに目立つ。男は当たり前のように智己を避けると悪びれる様子もなく練習の中へ紛れた。
 智己の表情が厳しいものへと変わる。
「安原」
 智己が手招きすると、赤頭の男――安原は面倒くさそうな顔をした。
 智己に近づく。果物系の甘さに、苦みを噛みつぶしたような匂いがつんときた。
「遅いぞ。何やってたんだ」
「ちょおっとヤボ用で」
「遅刻したならしたで先生か俺に報告しろ。それから貴重品はマネージャーに預ける」
「へーい」
 智己はこの安原という男が理解できずにいた。
 安原は態度もでかいし礼儀もない。口から出てくる言葉は相手の地雷を踏むものばかりだ。練習するのもかったるそうで、見ていてあまりいい気分ではない。
 もっと分からないのは安原が新入生の中で一番初めに入部届を出したことだ。入学式の当日だなんて、今となってはミステリーである。
 安原はすでに上級生のひんしゅくを買っている。同じ一年はというと恐れをなしてか近寄ろうともしない。
 智己はキャプテンという手前、冷静という膜を張っているがそれは日を追うごとに薄くなっているような気がした。そのうち体まですり減ってしまいそうだ。
 一体どうしたものだろうか。
 そのことで頭を痛くしていると、久保が寄ってきた。 
「田辺、そろそろトラック使わせてくれ」
 智己は両手を仰ぐと、コートから出るように指示を出した。ばらばらと後輩が散っていく。
 その光景を安原はいぶかしげに見つめていた。
「なあ……何で俺らがコート出てかなきゃならないわけ?」
「入部した時に言っただろう」
 このグランドは狭いから、お互いの部はそれぞれの状況に応じて場所を譲るようにしている。陸上部がタイムを計る時はその典型だ。これは部員たちの間で暗黙の了解となっていた。
 智己がそれを再度説明すると、そういえばそうだったっけ? と安原がとぼけた。明らかにどうでもいいような感じに、頭が更に痛くなる。
「つーかさ、こいつらにグランド譲る意味あるわけ?」
 安原の本音に久保がぴくりと反応した。
「明らかに俺より足遅えし。トラック使おうなんて百年早いんじゃないの?」
「安原!」
 智己がたしなめても安原は止めなかった。人を見下すような目が久保の怒りを更に広げていく。
「あのさ。幼稚園のかけっこじゃないんだから、もっとマシな走りしてから言ってきてよ」
「何だと!」
 久保が安原のシャツを掴んだ。
 いきなりの接近戦に智己は慌てる。すぐさま二人の間に割りこむと、体当たりで久保を押し戻した。
「久保! つまらない挑発に乗るんじゃない」
「んなこと言ったって、こいつが!」
「だから大目にみてくれって。こいつまだ『待て』も覚えてないんだから」
「俺は犬か!」
 安原が吠える。反省のなさに智己はつい、赤頭をはたいてしまった。
「おまえは人をけなす前に、自分をどうにかしろ」
「あぁ?」
「煙草。ガムでごまかせると思ったんだろうけど、バレバレなんだよ」
 久保がいるので、声のトーンは極力落としたつもりだった。そのぶん、低い声と鋭い眼差しを向ける。
 安原がくっ、と笑った。
「なんだ。あんたこそ、犬並みじゃんか」
 安原が怯える様子もなかった。だからこちらもひるむわけにはいかない。
「一回目だから先生には黙っておく。そのかわり抜けきるまでコートに入るのは禁止だ。草取りでもしてろ」
「はあ?」
「当然だろ。文句あるなら他の部に行ってもらっても構わないんだからな」
「……わかりましたよ」
 渋々といったような感じはあったが、安原がなんとか折れてくれた。どっと疲れが押しよせる。
「悪かったな。久保」
「全くだ」
 久保がゴールポストの後ろに向かって手を振った。
 陸上部のマネージャーが合図を確認すると、するするとライン引きを流す。トラックの直線部分だけが延長された。
 即席で作られたヘアピンコースは距離にして二百メートルほど。最後、石灰に平行になるようスターティングブロックが埋めこまれる。
「まずは二百と四百だな。そのあとで中、長距離は一気にタイム計るから二十分ちょっとあれば充分だと思う。それ以外は明日また時間もらえるか?」
 久保の説明に智己は了解、と返事をした。明日もトラックを使うなら、サッカー部も練習メニューの組み直しが必要だろう。
 頭の中で何通りかの組み合わせを考えていると、智己の横を影が通り過ぎた。
 先ほど注意したのにも関わらず、安原がトラック内をフラフラしている。
「おい。何してる」
「何って、陸上部と一緒に走る」
「はぁ?」
「サッカー部のキャプテンさまは『コート』に入るなって言ったんだ。でも今は陸上部の『トラック』なんだから全然問題なし、だろ?」
 飄々と言ってのける安原に久保が唖然とした。智己もぐうの音が出ない。
 安原の背中を見送りながら久保が思わず言葉を漏らした。
「今、おまえの分身をちょっとだけ見た気がする……」
「冗談。俺はあそこまでタチ悪くない」
「そうだな。まだおまえの方が常識わきまえている」
「その『まだ』ってのは余計だ」
 少しでも安原と一緒にされたことで、気分は最悪だ。
 やがて、何かが爆発するような音が耳に届いた。
 トラック上に風が舞い降りる。小さな針が土を削る音がここまで聞こえる。二人一組での競争だが、どちらも全速力でゴールを目指していた。先頭を走るのは葉月だ。
 走っている時が一番好き――
 いつだったか葉月はそんなことを言っていた。辛いことがあっても走っている時の苦しさで全て忘れられる、だから不幸な時こそまっすぐ前を見て駆け抜けるのだと。
 今日はその勢いが半減している。物足りなさを感じるのは、いつも置いてある障害物がないからだろうか。
 葉月はハードルを跳んでいる時が一番美しいと智己は思っていた。
 空を掴むように仰ぐ腕。伸びた足が描く弧はとても綺麗だ。リズムを刻んで跳ぶ姿も水面を跳ねる魚のようで、きらきらと輝いている。
 だがそれを本人の前で口にしたことは一度もなかった。
 きっと――この先も言うことはないだろう。
 ふと我に返る。
 葉月は既にゴールしていた。表情に翳りがある。どうやら思ったよりタイムが伸びなかったようだ。
 やはり葉月はハードルを跳んでいる時の方が活き活きしている気がする。

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