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4 戻れない道

 桜の花がはらはらとこぼれ、地上に舞い降りる。
 この季節がとても待ち遠しかった。
 学年が変わるごとにシャッフルされる生徒たち、新たに築かれる関係。
 これまでが楽しかろうが苦しかろうが、春になれば全てがリセットされる。新しい自分に生まれ変われる。
 そう思うだけで全てがきらきらと輝いていた。
 でも今年は違う。散りゆく姿に儚さと寂しさを感じるのは高校生最後の春だから、だろうか?
 それとも――

「なーにしんみりしてるんだよ」
 突然、背中に衝撃が走った。
 体がくの字に曲がり、つま先が浮く。廊下の窓から身を乗り出す格好になり、三階下にあるピンク色の芝生がぐんと近づいた。
 驚きのあまり、空を散歩していた花びらをつい飲みこんでしまう。すぐに桜の欠片が喉を刺激した。少しむせたあとで肺の奥から苦いものがこみ上がる。
「危ねえじゃねえか!」
 窓のサッシに両手を置きしっかりと足をついたところで――ようやく田辺智己は振り返ることができた。目の前には放課後グランドで顔を突きあわせる男が一人。これから一年机を並べる級友だ。
 久保は筋トレで作り上げた逆三角形の体をぴんと伸ばした。
「おまえのしけた顔は気持ちが悪い」
「るせぇ」
「つーか、廊下で何やってんだよ? 教室入らないのか」
「ああ……そうだったよな」
 言われて、ようやく体が活性化する。
 こいつがいるなら大丈夫だろう。
 智己は床に放り出したスポーツバッグを肩に担ぎ直した。ゆっくりとした歩調で三年のプレートが掲げられた教室に入る。
 新しい教室は活気に溢れていた。
 三十数人ほどいるクラスメイトはすでにいくつかのグループに分かれて談笑していた。だいたいは二年で同じクラスだった者同士や部活の仲間同士でまとまっている。
 寄せ集めの生徒たちだがクラスの雰囲気もさほど悪くなさそうだ。ただ一点を除いては――
「は。なんで佐藤がここにいる?」
 入るなり、久保が口をあんぐりとさせた。
「あいつは隣のクラスだろう」
「……だよな」
 智己は冷静になったつもりで相づちする。
 やはり、自分が見た新しいクラス名簿は間違っていなかったらしい。
 教室の窓際の席には運動部の女子が数人固まっていた。
 その中心にいるのはショートカットの女子生徒――佐藤葉月だ。自分のホームでもないのに、机を椅子がわりにして堂々と居座っていた。智己が教室にいる今も構わず話題に没頭している。
「なるほど。佐藤がいるから教室に近寄らなかったわけだ」
「まぁ、な」
「まだ『勝手に絶縁中』かよ。佐藤も災難だな」
「好きに言ってろ」
「でもさ。おまえがいると知ってて、何で佐藤は居座っているんだ?」
 久保が抱いた疑問について、智己はだいたいの見当をつけていた。
 たぶん「保護者」なのだろう。
 智己は窓際のある一点に集中する。葉月と背中合わせになるように、足立亜由美が席についてほおづえをついているのを確認した。
 亜由美は親友が振り返る度に相づちを打って言葉を返す。どうやら話の内容は聞いているようだが、積極的に参加する意志はなさそうだ。
 再び葉月に注目する。
 葉月の髪はここ二、三か月ですっかり伸び、前髪は目元まで届いていた。利き手で髪を何度もかき上げる仕草。ほんのり色づいた唇から無邪気な笑い声が聞こえると智己の中でざらざらとしたものがこみあがってくる。
 正直、どうしたものかと思う。
 これでは葉月と別のクラスになった意味がない。
 もしこの状態が一年間も続くのなら、うっかり声をかけてしまいそうだ。
 葉月と喋らないと決めたのは自分自身なのに――これでは本末転倒になってしまうではないか。
 あまり見ていたくなくて、智己は視線を久保に戻した。
「……佐藤って変わったよな」
 久保のぼんやりとした質問にどこが、と智己が切り返す。久保がにやりと笑った。
「髪型もそうだけど、こう、体のラインに色気が出てきたというか……最近はユニフォーム姿見るだけでどきっとさせられるんだよ」
「セクハラ大魔王。陸上部長の名が泣くぞ」
「そういうおまえだって、本当は気づいてるんじゃないのか?」
 最近葉月に対する周りの印象が変わったことは智己もうすうす感じていた。智己のいるサッカー部でもごく少数ではあるが、葉月を追いかける視線が増えている。
「今部内ですげえ噂になってるんだ。佐藤、絶対男ができただろうって――」
「……ふうん」
「『ふうん』って。それだけかよ? 佐藤に振られた直後、ひっどい壊れ方してたくせに」
「もう過去の話だろ」
「だとしても、結構きてるんじゃないの?」
 ここにいるお節介が何を言おうとしているのかはだいたい想像がついていた。だからこそ今の自分を強調するべきだと智己は思う。
「だって俺、理恵がいるし。佐藤なんか全然関係ねえって」
「ならいいんだけど……お」
 噂をすればだな、久保の声が急に小さくなる。近くにある扉からまた、違うクラスの男が入ってきた。
 直接話したことはないが、顔と名前は知っている。
「佐藤」
 青柳彼方が扉の前で手を振り、葉月に合図を送った。
「先生とっくに来てるぞ」
「マジで? やっば」 
 亜由美への挨拶もそこそこに葉月は座っていた机から飛び降りた。
 スカートがふわりと広がる。葉月が長いコンパスを使って最後列までたどりつくと、前髪の隙間からのぞかせた目が智己を捕らえた。
 一瞬どきりとして、智己は思わずうつむいてしまう。
 近づく足音、側をすり抜ける気配――交わす言葉は一つもない。そのかわり、智己のもとには甘い香りだけが残される。今の智己には斜め三十度の横顔を見るのがせいいっぱいだった。
「ちょっと待った」
 教室を出る直前、彼方の手が葉月に触れた。
 葉月の前髪を横に流して髪を整える。あまりの至近距離に葉月の頬がうっすらと赤らむのが見えた。彼方に笑顔が広がると、誰にも入り込めない空気が二人を包みこむ。
 二人の姿が消えてから三秒で教室にどよめきが起こった。
 感嘆ともため息ともつかない声が連呼し、窓側の席が急に騒がしくなる。誰もが二人の関係を亜由美に聞き出そうとしていた。
「ちょっと! 私に聞かないでよ」
 亜由美は餌にたかる雛鳥たちを一喝で黙らせる。こういった噂の類を亜由美は一番嫌っていた。
 いつもならその辺の輩を睨みつけ辛辣な言葉でもって反撃するのだが――不思議なことに今日はそれがない。
 それどころか微笑みさえ浮かべているではないか。
 教室がしんと静まりかえる。めったに拝めない表情にクラスメイトたちは絶句した。
「きつい言い方してごめんなさい。でも、そういった話は本人に直接聞いてくれないかしら? 葉月のこと、軽い気持ちで言いふらしたくないの」
 亜由美は自分を取り囲む一人一人を見上げた。穏やかな眼差し。やがてその視線は人の間をすり抜けていく。
「大切な友達を、変に茶化して傷つけたくないから」
 瞳は確実にこちらをとらえていた。優しさの奥に潜んだ鋭いものが智己の心臓を深く突き刺す。口調はとても柔らかいのに、身震いが走った。
 隣で久保が唸った声をあげる。
「意外だな。足立って怖いやつだと思ったけど……友達思いなんだ。笑っている顔なんて、まるで天使だな」
 いや、天使というよりタチの悪い悪魔だろう。
 一年の時亜由美と同じクラスだった智己はこっそりと思う。今もまだ、背筋に冷たいものが残っている。
 あれは亜由美から自分に向けられた警告だ。
 『これ以上葉月を傷つけたら許さない』
 そんなのは分かっている。
 智己は目に見えない重圧にじっと堪えた。そして亜由美という不器用で情の深い人間を敵に回してしまったことを少しだけ後悔する。以前は自分と葉月の関係を繋ぎとめる唯一の存在だったのに――
 考えが甘かったのだと思う。
 葉月にふられ、後輩の加山理恵と付き合っても、葉月との距離を置くことはしなかった。葉月に対して感情の温度差はあったとしても、こっちの熱が下がれば友達として続けられると信じていたのだ。
 葉月の影を消さなかったことで、いつの間にか理恵を追いつめてしまった。
 そして今度は理恵を守ろうとして、葉月とは一切関わらないと宣言してしまったのだ。
 無視を続けることは葉月の存在自体を否定するとも取れる。今まで友達だった人を、ましてや恋心を抱いたことのある人間を、だ。特に恨みも嫌いになる理由もないのに。
 決断するまで迷いは消えなかった。でも心のどこかで、葉月ならきっと理解してくれるだろうと思った。
 あの亜由美にだって根気強く向き合っていたのだ。少ししたらお互いのわだかまりも薄れるかもしれない。また、笑って話せる時が来るだろうと――
 それが勝手な思いこみだと気づかされたのはその翌日のことだ。
 学校に葉月の姿がない。病休だと聞かされていても根拠はどこにもない。
 智己は焦った。もし、自分の言動が葉月を傷つけていたとしたら。
 気がつくと智己は自転車を走らせていた。見舞いに行く気など最初はなかったけれど、その一瞬だけ誓いを忘れたのは事実だ。
 ただ、葉月のことが気がかりだった。
 葉月を傷つけた罪悪感だと思いこんでいたから、あのひどい雨の中、ペダルを漕いでいられたのかもしれない。
 見舞いに訪れたのが亜由美だけだったら、これは友情だったのだと勘違いしたままで済んだのかもしれない。
 しかしあの日彼方に会ったことで智己が築きあげたものは根底から覆されてしまった。
 まさか、葉月に男の影が出てくるとは思いもしなかった。そんな話さえ一度も耳にしたことがなかったのに。
 葉月には幸せになってほしいと願っている。それはどんな状況に置かれても変わらない。
 でもその一方で、ものすごいスピードで変わっていく葉月に怯えている自分がいる。
 これは過去の恋への感傷か。それとも――
「分かんねぇよ……そんなこと」
 ここにきて初めて、弱気な感情がこぼれた。

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