翌日の朝、葉月は風邪で欠席だと担任から伝えられた。
亜由美はちょうど同じ線上の席にいる彼方を見る。奥二重の目が一瞬二重になったのを見逃さなかった。無愛想な顔はすぐに戻ったが、足元がそわそわしているあたり動揺しているのが伺える。
葉月は彼方に昨日のことを話したのだろうか。風邪というのは本当なのだろうか。
考えるほど不安はつのる。苦しみを心にしまいこんだままひとりで泣いてはいないか、それだけが心配だった。
暗示するかのように外は真っ暗だった。雨が降っている。水を含んで垂れ下がる雲が今にも大地に落ちてしまいそうだ。
二時間目が終わったあと、亜由美は葉月にメールだけ打っておくことにした。
<<風邪治ってからでいいから、話がしたい>>
携帯を閉じ次の移動教室に向けて教室を出る。
すると廊下で半袖姿の智己に呼び止められた。向こうは前の時間体育だったらしい。
「昨日は悪かったな。何か変なことになっちゃって」
「別に……どっちかっていえば田辺の方が災難だったんじゃないの?」
亜由美の毒吐きに智己が苦笑する。その一方で、隣にあるべき姿を捜しているようだった。
「佐藤は?」
「今日は休み。風邪だって」
「そっか。なら――分かった」
智己が勝手に自己完結させて帰っていこうとするから阿呆、と言いたくなる。ちょっと前だったら心配して見舞いにでも行こうかな話に持っていくはずなのに。
やはり理恵のことを想っての行動なのだろうか。
「田辺」
田辺の中の葉月はもう過去でしかないんだね、と言おうとしたが――止めた。分かっている。それが間違っているとは思わない。
「……ううん。何でもない」
亜由美もまた、智己のもとから足早に去っていくしかなかった。
三時間目が終わる頃になると、雨は季節外れの嵐に変わっていた。
強風に煽られ、校庭の枯れ木が今にも折れそうな位の弧を描いている。窓ガラスが今にも割れてしまいそうだ。
ここまでくると駅までの道のりはおろか、電車の運行も怪しくなってくる。一部の生徒たちは、この時間で授業が終わるのではないかと憶測を交わしていた。
やがてポケットにしまっていた携帯が震える。着信を知らせるランプ――葉月からの返事だ。
<<学校終わったら青柳と家にきて>>
短い言葉の中に重みを感じた。とうとうこの日が来たのか、とも思う。
亜由美は携帯をにぎり直し、はやる心を押しこめた。彼方の席に向かう。
「ちょっといい?」
亜由美は自分に届いたメールの内容をそのまま見せた。
午前中で学校が終わると彼方と一緒に葉月の家に向かった。
交通機関はどこも慌ただしい。
学校の前を走る路線バスは濡れ鼠を避けようとする生徒たちを無理矢理詰め込むと、滞った通学路を一時間かけて走った。電車は速度規制がかかっていて上下線ともダイヤが乱れている。かろうじて葉月の住む街まで運んでくれたが、そこから先は動かなさそうだ。
更に二十分ほど待ってタクシーに乗りこむ。普段なら四十分で辿り着く距離なのに、今日は倍以上の時間がかかっていた。
リアシートが暖まる頃になるとフロントガラスに椿の垣根が見えてくる。それが葉月の家の目印だ。
割り勘でお金を払うと、先にタクシーを降りた亜由美がインターホンを押した。出てきたのは葉月の母だ。彼女は亜由美たちの訪問をとても喜んでくれた。
葉月の部屋は二階にある。緩やかな螺旋階段を昇ってすぐの扉だ。
階段を昇りきったところで、亜由美は自分よりも背の高い彼方を見上げた。少し待ってもらえるように言葉をかけ、ドアを一度ノックしてから部屋に入る。
最初に机が目に入った。次に剥きだしのクローゼット――パンツ系のワードローブが続く中、場違いのように掛けられているニットコートとワンピースは亜由美が密かに狙っていたものだ。その下には少年漫画が微妙に向きを変えて積まれていた。
ベッドの上でパジャマ姿の葉月はうそ、と声を上げる。
「来るの早すぎ。もしかしてさぼった?」
あっけらかんとした態度は変わらない。それでも顔は赤いし声も枯れている。風邪をひいたのは本当のようだ。
「ううん。この天気で学校が早く終わっただけ」
「そっか。じゃあ――」
「――その前に、聞いてもらいたいことがあるの」
亜由美は葉月の前で正座すると一度深呼吸した。突然訪れた静寂に心臓が震えている。それでも。
「私ね、葉月は田辺とくっついてほしいって思いがあったの」
亜由美は胸に抱いている不安を少しずつ吐き出した。
「二人なら付き合っても私のこと見捨てないって安心があった……だから田辺があの子と付き合ってるって聞いてから不安だった。いつか葉月にも田辺以外の男ができて、そうしたら自分の居場所がなくなるんじゃないかって」
「亜由美……」
「でもね、私は葉月にはいつも笑っていてほしいって思ってる。だから私より大事なものができたら――そっちを選んでほしいの。葉月が幸せでいられるなら私、賛成するよ。ずっと味方だよ」
まるで異性に告白しているような気分だった。自分でも頬がだんだん火照っていくのが分かる。
葉月は布団の中で膝を立てていた。布団を抱えるように腕を組むと咳が襲う。亜由美がそっと手を伸ばし、背中をさすってあげた。
「ありがと……」
涙目になった葉月が静かに微笑む。
「あたしも。ずっと考えてた。田辺のこと……すごく悔しくて苦しくて。でも、少しでもあたしのこと好きだったんだ、って知って嬉しかった……そのうち、誤解を解けば何かが変わるかもしれないって――今更だけど、変な期待しちゃった」
「葉月……」
「でもさ。冷静に考えてみたら、あの時のあたしってそういった事何も考えてなかったんだよね。意識すら、してなかった……だから、告白をちゃんと聞いていたとしても……きっと断ってたと思う。どっちにしろ……今と何も変わらないんだ」
葉月は時折言葉を詰まらせていた。その度にひゅう、という音が耳をかすめる。本当はとても辛くて悲しいはずなのに、その微笑みはとても柔らかい。
いつの間にそんな顔をするようになったのだろう。
亜由美は自分よりもずっと大人びた女性が目の前にいることに今更ながら気づいた。突然置いていかれたような気がして少し寂しさを感じてしまう。
「……青柳は?」
「外にいる――もう、決めたんだね」
葉月がうなずいた。
「あたしがどんな答え出しても友達でいてくれる?」
「当然じゃない」
亜由美は口元を上げて笑ってみせた。
廊下にいた彼方を促し、部屋に入れた。あとは頼んだから、とこっそり伝えて扉を閉める。木目の扉に肩を沿わせると安堵のため息がひとつこぼれた。
外の音もぷつりと消えていたので雨が止んだのかと思った。
違うと知ったのは、階段そばの窓を見てからだ。
雪が降っていた。
本当なら雪の方が冷たいはずなのに、雨よりも温かく思えてくる。
自分はこの雪のように葉月の全てを受け止められただろうか――
亜由美は葉月の部屋に繋がる扉を見上げた。
二人がどんな話をしているのかは分からない。でも、大丈夫な気がする。メールを見せた時、彼方は葉月を心から心配していたから。それが純粋なものだと悟ったから。
いつか笑顔に繋がるように。葉月が導いた答えを無駄にしたくない。
――それなのに。
氷の結晶の奥にいつか話に聞いた自転車を見つけ、ぞくりとする。
インターホンの音を聞きつけ、台所から葉月の母が現れた。だがそれより先に亜由美が玄関ドアを開ける。家の中に声が漏れないよう閉めてから、目の前にいる来訪者を鋭く睨みつける。
――智己は制服のままだった。
傘も差さず、レインコートすら被っていない。自転車の前かごにはビニール袋が詰め込まれていた。昨日話題に出た洋菓子店のロゴがついている。
「その……昨日プリンの話してたから。早いほうがいいかな、って……」
とってつけたような理由に亜由美は息をのんだ。
智己の家からここまで何駅あるだろう。帰宅してからここに向かったというのだろうか。今までどしゃぶりだった雨の中、自転車を走らせて。わざわざそれを届けるために?
「何、やってるのよ」
さっきまでは見舞いすら行かない智己にがっかりした。もしかしたらと少し期待していたのもある。だが、いざ目の前に現れてしまうと――こっちの方がもっと腹立たしいことに気づかされてしまうなんて。
「あんた、自分が何してるか分かってるの? 彼女の為にここに行かないって、そう決めたんじゃないの?」
そこまで心配するのなら何故葉月を諦めた?
何故理恵と付きあっている?
何故――葉月は傷つかなければならなかった?
「黙ってないで何か言いなさいよ!」
亜由美に責められ、智己の顔が歪んでくる。生半可な答えは認めない。ここまできてまだ大切な友達だからと言ってのけるものなら殴ってやると、亜由美は本気で思った。
だが――智己の答えより先に、玄関の扉が開いてしまった。
刹那、智己の顔に何故という文字が浮き上がったような気がする。その表情が向けられるが、亜由美は答えることを放棄した。
家から出てきた彼方は二人を一度見据えたあとで、静かに微笑んだ。
「佐藤、かなり辛そうだったから、帰るって言っといた」
それが何を意味するか、亜由美にはまだ分からない。ただ、彼方が智己に向けた目が敵意だったことだけは理解できた。
やがて椿と同じ色の傘が残った雫をはじく。智己を置き去りにしたまま、亜由美もまた、復旧の見込みが読めない駅へ向かうしかなかった。
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