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「行こっか」
 やがて葉月が言った。車のギアが外れたような、空回りしたような軽さだった。
 二人はくるりと踵を返す。昇降口から三歩進んだ所で先輩、と消え入りそうな声が届く。
 振り返ると理恵が頭を下げていた。
 それは安原から助けてくれたことへの感謝なのか。吐いてしまった本音についての謝罪だったのか――あるいはその両方なのかもしれない。
 無言のまま、三階にある自分たちの教室へ向かう。階段を昇り始めたところで亜由美から口を開いた。
「大丈夫?」
「まぁ、さすがに目の前で言われたらきつい、かな?」
 深いため息が亜由美の横をすり抜けた。解せない表情が亜由美の目に映る。
「でも納得いかない……なんであたしだけ? 亜由美だって田辺といっぱい喋ってるじゃん」
「葉月は田辺に告られたからね」
 正直に言えば理恵の気持ちも分からなくない。付き合っていれば相手の過去は気になる。ましてや最近まで片想いしていた人間と今も仲が良いなんて――面白くもないだろう。だから智己の答えに文句をつけることはできなかった。
 葉月は三段先にいる亜由美を不思議そうに見上げている。
「何それ。意味分かんない」
「あの子、田辺が片想いしてたの知ってたから――だから葉月に嫉妬したってことでしょ?」
 葉月は首をかしげたままだ。鈍感ぶりもここまでくるとどうかと思ってしまう。
「だから、夏休み前のことだって。葉月が黙っていたから何も言わなかったけど――聞いたんだから。あんた、田辺の告白を冗談で返したでしょ? 田辺、相当へこんだってぼやいてた。何でふっちゃったのよ。そのまま付き合っちゃえばよかったのに」
 智己が葉月の事が好きだと知ってから、亜由美は葉月にそれとなくサインを送っていた。葉月は鈍感だが、智己が想いを打ち明ければ二人が付き合うのものだと思っていた。
 それなのに蓋を開けてみたらどうだ。葉月の返事ひとつで全てがバラバラになってしまったではないか。
 それとも――告白の瞬間に自分が立ち会っていたら少しは違ったのだろうか。
 葉月はつっ立ったままだった。口元に手をあてて何かを考えている。呼びかけてみるが反応はない。どうやら意識が「あっち」にいってしまったようだ。
 こうなると葉月は誰の言葉も受けつけない。考えごとを始めたら異常なほどの集中力を発揮してしまう。
 いつものことだ。時間が経つのを待つか、ちょっと大きな音を出せばすぐ元に戻るはず――
「……そっか。あたし、田辺に最悪なこと、しちゃってたんだ」
 葉月の意識はすぐに戻った。でもひどく落ち込んだ様子に今度は亜由美がいぶかしげな顔をする。
 今更何を言っているのだろう。今までそのことで心を痛めていたのではないのか?
 智己を好きになってしまったから――だから自らが放ってしまった言葉に傷ついていたのではないのか。
 だが、そんな疑問は次の瞬間に全て吹き飛んでしまった。
「罰、だ。あたしが聞いてなかったから。だから……」
「え?」
「ごめん。このままじゃマジやばい。頭――冷やしてくる」
 葉月はまともに顔を合わせることなく、階段をかけ昇ってしまう。
 だから葉月が放った言葉の意味を自分で想像するしかなかった。
 亜由美は考えを巡らせる。だが、どう予測しても葉月の言葉からは最悪のパターンしか浮かんでこない。
 まさか――葉月は智己の告白を聞いてなかったとでもいうのだろうか。
 あの夏の日。もし葉月が今みたいに考えごとをしていたとしたら。その間に放った言葉を聞き逃す可能性は充分にある。それが智己の告白だったとしたら――
「嘘、でしょ……」
 そんなオチ、あるわけない。タチの悪い冗談だと否定したくなる。
 しかしそれはあっさりと打ち砕かれてしまった。葉月が逃げたことが何よりの証拠なのだ。


 結局、葉月は午後の授業が終わるまで帰ってこなかった。
 帰りのホームルームでやっと顔を拝めたのはよかったが、あっという間に教室を出ていってしまったため、ろくに会話もできず別れてしまった。
 仕方なく亜由美は帰り道をひとり歩いていく。
 夕日はすでに建物の影に身をひそめようとしていた。商店街は買い物のピークを迎え、食料品店ではすでにタイムセールの呼びこみが始まっている。
 出口であるアーチが近づくと、店先に色とりどりの自転車が並んでいるのが見えた。全て通勤通学用の自転車だ。ウィンドウ内には子供用の自転車やマウンテンバイクが飾られ、一部に設けられた修理スペースにはつなぎを着ている男がいた。
 彼こそ二十代でこの自転車屋を切り盛りする店主、中嶋慎である。
「いらっしゃいませ」
 慎は自動ドアが開いた合図を聞きつけ、声のトーンを上げた。だが入ってきたのが亜由美だと気づくと、なんだ、というような顔をする。
「学校終わったのか?」
「ん」
「バイトは? 五時からあるんだろ?」
「もうどうでもいい……」
「あっそ」
 慎は工具が散らばった床の上であぐらをかきはじめる。
「店いるなら奥の部屋に行ってくれない? 客来た時に制服でうろつかれると困るから」
 亜由美はそれを無視した。
 慎の後ろにまわると背中合わせに体育座りをする。ため息をつかれたが結局何も言われなかった。
 自転車屋は仕事に波がある。
 季節や天候もあるが、客が来るときはどっと押しよせるし、来ない時もある。客の対応が忙しい時間が毎日決まっているわけでもない。今はちょうど客が引いている時間のようだ。
 慎は仕入れた自転車を組み立てていた。ロードレーサーだ。気になるところがあったのか、動力部分の組み直しを始めていた。
 亜由美は工具が奏でる音と背中から伝わる振動だけを受け止めた。時折どちらかが体を伸ばすと背骨同士がこつんとぶつかる。まるでお互いの存在を示すかのようでもあった。
「何か嫌なことでもあったわけ?」
 背中越しの質問に、亜由美はかぶりを振った。
「でも……きっと傷ついてる」
 亜由美は今日あった出来事をとつとつと話した。
 慎は「ながら」で聞いている。時々聞こえる金属音が相槌を打っているかのようだ。
 話が終わり振り返る。慎は後輪を回し手元のレバーでギアチェンジを繰り返していた。
 正常に動いていることを確認したところで、煙草を出して火をつける。亜由美の側を白い煙がかすめた。
「……つまり亜由美は安原って男の行動が自分を見ているようでいたたまれなかったわけだ」
「ガキだよね」
 亜由美の体が小さく丸まる。
 たとえ三年間という短い期間でも、亜由美は学校の中で自分の居場所ができたことが嬉しかった。
 ずっと人を信じるのが怖くて、慎と家族以外は傍観者か敵でしかなくて――そんな自分に友達ができるなんて思いもしなかったのだ。
 彼らはお節介で優しい。本気で自分のことを心配してくれる。厳しいことも言ってくれるから素直な気持ちをぶつけることができるのだ。
 だから彼らが自分から離れてしまうのが怖かった。お互いが誤解したままでいるのが心苦しかった。
「で? 亜由美は二人にどうしてほしいわけ? くっついてほしいわけ?」
 正したところで何かが変わるのだろうか。
 今ではそれが正しいことなのかさえ分からなくなる。もう何もかもが違う方向へ走り出しているのだ。時も環境も、智己の気持ちでさえも。
 もしかしたら一年の時のような関係に戻れないのかもしれない。
 智己には彼女がいる。葉月も別の決断が迫られている。自分だけ逆らっても、波に飲み込まれてしまうのは目に見えている。
 そう――自分が下した決断に傷ついても、悔やんでも。今とは違う新しい道を探さなければいけないのかもしれない。だとしたら。
「笑っていてほしい……」
 大切な友達が選んだ道が幸せであってほしい。それだけだ。
「なら、そう伝えたら?」
 慎の口調が和らいだ。
「大切なら、素直な気持ちを全て話せばいい。それでも辛いなら……ここにいればいい」
 こんな時になって優しくなるのは卑怯だと思う。でもそれでいいのだともう一人の自分が囁いた。
 そう、自分にはまだ心を許せる場所があるのだから――
 慎の左手が亜由美の頬に触れた。指に染みついた潤滑油と煙草の匂いに安堵する。優しい笑顔が頑なだった心を溶かしてくれる。
 そのまま、体を預けた。
 明日、葉月に言おう。自分が抱えている不安を全て話そう。
 まずはそこから始めるべきだと、亜由美は思った。

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