backtopnext



 理恵が安原との対峙に選んだ場所は三年生の下駄箱の前だった。
 ここは同じ昇降口でも特別教室のある棟寄りにあり、購買室は死角になっている。特別教室から購買に向かう生徒もいるが、大抵は争奪戦のすさまじさ気を取られて見落としてしまいがちな場所だ。
 更に三年生は自宅学習に入っていて、誰も寄りつかない状態になっていた。
 理恵は声のトーンを落とし、話を切り出す。
「……何しに来たの」
「べっつにぃ。受験するから願書取りに来ただけだけど。ねぇ『先輩』?」
 安原は同意を求めてきたので亜由美は黙秘した。話かけるなと誇示したつもりだ。
 理解したのか、安原が不敵に笑う。
「でもずいぶん変わったのな。前はぶ厚いメガネかけて地味だったのに。やっぱ彼氏できたから?」
「あんたに答える必要ない」
「つっまんねー返事。せっかく再会したんだから思い出話くらい付きあってくれたっていいんじゃない?」
 安原はどんどんくだけていくが、理恵の警戒心は消えない。対照的な二人を亜由美はただ傍観していた。
「こっえー目。前は俺がちょっとちょっかい出すだけでビクビクしちゃって超いじめがいあったのに」
「……」
「そうそう、一度二人で家出してどっかの田舎まで行った時あったじゃん。超笑えたよなぁ。途中で道に迷うわ真っ暗になるわ。で、結局近くにあったラブホに泊まっちゃって――」
 瞬間、鋭い視線が安原に突き刺さった。
「だって事実じゃん? 俺たち一晩つきあった仲なわけだしい」
「あれはあんたに脅されたから――それにやましいことなんて何もなかった!」
「そうだったっけ?」
「言っておくけど、もうあんたとは何の関わりもないし持ちたくもないの。だから」
「どっか消えろって?」
 次の瞬間、大きな音が耳をつんざいた。理恵の華奢な体がびくり、と跳ねる。
「もう俺とは生きてる世界が違うって言いたいのかよ。一年勝ったからって変に偉ぶって、おまえこそ何様だ!」
 下駄箱に突き刺さった拳がその先を阻んでいる。それでも彼女は気丈に安原を見据えていた。顔を強ばらせながらも自分のあるべき場所へ帰ろうとする。
「……どいて」
「やだね。態度改めるっていうなら別だけど」
 安原の顔が近づいた。今にも噛みつかれそうな程の距離に理恵が顔を背ける。はりつけにされた状態が昆虫の姿と重なった。
 標本――いや。これは蜘蛛の巣だ。引っかかってしまった蝶が必死にもがいている姿。所詮は儚く、弱いものだと蜘蛛があざけ笑っているさま。
 理恵は安原の前で自分の感情を必死に押し殺そうとしている。
「どうした? 足震えてっぞ。今にも泣くんじゃねぇか」
 安原にいやらしそうな笑みが広がる。音と髪の色に引きつけられたのか、亜由美の後ろで立ち止まる者がぽつぽつと出はじめていた。もう少ししたら誰かが騒ぎ始めるに違いない。
 ここは理恵のためにも先生を呼ぶのが無難な解決策だろう。
 でも――安原がつまみ出されても、この胸の不快感は消えるわけがない。
「幼いわね」
 亜由美は預かっていた封筒を捨てた。
「思い通りにいかないから拗ねているだけじゃない」
「んだと?」
「本当は寂しいんでしょ?」
 亜由美は核心を突いてみせる。
「自分の知らない間に彼女が変わったのが悔しいから、そうやって自分の存在しらしめてる……おもちゃと一緒だ。本当はすごく気に入ってて大好きなのにそっけない態度しちゃって。でも人に取られたら慌てて取り戻そうとしてるんだ」
 え、と声を漏らしたのは理恵が先だった。
「さっき受験とか何とか言ってたけど。本当は彼女の男がどんな奴か見たかっただけじゃないの?」
「てめぇ、いいかげんなこと喋るんじゃねぇ!」
 罵声を引き出したことで亜由美の口元が思わず右上がりになる。
 その一方で理恵は息を飲んでいた。無理もない。自分に向けられた嫌がらせが好意の裏返しだなんて想像もできないのだろう。
 制服の襟を掴まれ、今度は亜由美が下駄箱に押しつけられた。近づいた顔から恋人と似たような匂いがしてつい鼻で笑ってしまう。それが安原の感情を更に逆なでしたらしい。右手が天井を仰いだ。
 ――全ては亜由美の中で想定内の出来事だった。
 むしろここで騒ぎを大きくし、傷害なりの事実を作れば、安原は受験どころかここにいられなくなるはずだ。
 殴られるのは割に合わないし貧乏くじもいいところ。でもこのまま殴られても構わないと亜由美は思っていた。
 しかし――そんな思いはあっけなくはじかれてしまう。
 すんで安原の手が止まったのだ。
 次の刹那、亜由美の視界にオレンジ色がよぎる。それが安原のこめかみを直撃した。
「ってぇ! 誰だよ」
「その子殴ったらマジで許さないから!」
 怒鳴り返したのは葉月だ。傍観者たちの数歩前で仁王立ちし、安原を睨んでいた。
「この不審者! 警察呼ぶぞ」
 吠えながら葉月は自分の上履きを投げる準備に入っている。増えてきた野次馬に、安原も掴んでいた手を緩めるしかなかった。
「……どうやら理性とプライドはあるみたいね」
 解放された亜由美は足元に放置したものを拾い直す。一度汚れを払ってから安原につきつけた。
「ま、逃げないことを祈るわ。『後輩』さん」
 安原が願書をひったくり人の波を押しのけて去っていく。その姿が見えなくなったところで、理恵の膝が折れた。すぐ側に葉月が投げた紙パックのジュースが転がっていた。
「立てる?」
「ええ……平気、です」
  亜由美が手を差し伸べる前に理恵は立ち上がった。仕方なくジュースの方を拾っていると、理恵の王子様が脇目もふらず飛びこんでくる。何という間の悪さだろう。
「大丈夫か?」
 問いかけに理恵が頷いた。智己に柔らかい微笑みが広がる。その手が理恵の頭に触れる姿が、とても遠いもののように感じてしまう。
「足立も一緒にいたのか?」
「まぁ……葉月もいるけど」
 智己はそこで葉月の存在に気づいたらしい。
 目があうとお互いがうろたえた。だが一瞬で立ち直る。しかけたのは葉月が先だった。
「遅い! 彼女がピンチの時に何やってたんだ!」
「仕方ねぇだろ。こっちだって理恵の友達からさっき聞いたばっかなんだよ」
「怖じけたのかと思った」
「んなわけねぇ! どこだ? 絡んできたチャラ男は。俺が一発がつんと――」
「ばあか。とっくに消えたっての」
「へ」
 葉月のおかげでね、と亜由美がつけ加えると、頭を抱える間抜けな男の姿が現れた。
「うそ。超特急で走ってきたのに――俺ってば超しまりねぇ……」
「あはは。残念だったねぇ」
「んで? ここで何があったわけ?」
「……」
「理恵?」
 理恵はだんまりだ。自然と二人の視線が亜由美に向けられる。色々思うことがありすぎて、言葉よりも先にため息がこぼれてしまった。
 とりあえず、無難な答えだけにしておこう。
「勝手に彼女に絡んできたのよ。私はその態度がムカついて文句言っただけで……」
「したら今度は亜由美が絡まれた、って。このバカっ!」
 いきなり葉月に怒鳴られた。
「その前に先生とか誰かに助けを呼びなって! 何でも一人で解決しようと思うな」
「だって。あの場合ならこの方法が一番かと思って……」
「言い訳するんじゃない!」
 亜由美は肩をすくめた。思えば葉月に叱られるなんてしばらくぶりだ。一年の時から亜由美を怒る時はこんな調子で、最初はうざくて仕方なかったのに。
 反省半分、嬉しさ半分で亜由美が説教を聞いていると、まぁまぁ、と智己の手が伸びた。理恵と同じように頭をなでられ、葉月が悲鳴をあげる。
「な、何っ」
「いや。やっぱおまえ、いいやつだなぁ」
 智己の笑顔に葉月の怒りがしぼんでいく。残った頬の赤色は不完全燃焼というより、もっと淡くせつないもののような気がした。
 懐かしくて心地よい温かさ。
 ずっとこのままで居られたらいいのに――
 悲しいかな、葉月のお腹から流れた奇妙な音が現実へと引き戻した。智己が思わず吹き出す。お昼なんだからしょうがないじゃないかぁ、と言い訳をする葉月がとても可愛らしい。
 亜由美たちの周りにいた傍観者たちはいつの間にかいなくなっていた。廊下の先にあった品物は既に完売したらしく、購買には売り子の気配だけしか残っていない。
「プリン、売り切れちゃったね」
「ま。あたしも人に頼んでいたわけだし、しょうがない」
「何だ。プリンくらいならおごってやるぞ」
「ほんと?」
「理恵を助けてくれたし……コンビニのでいいか?」
「えーっ。同じプリンなら駅前のケーキ屋っ。苺がいっぱいのったプリンのタルトがいいー」
「って、三倍返しかい」
「違うな」
 葉月がにっと笑う。
「切ったの、じゃなくてホールでの話」
「十倍かよ! おまえには遠慮ってものがないのか。鬼だ鬼っ。なぁそう思わねぇ?」
 理恵に助けてもらおうと、智己が振り返る。理恵の反応はなかった。それどころか理恵の頬を涙が伝っている。
 智己の顔が一変した。
「どうした。さっきのチャラ男にひどいことでもされたのか?」
「……がう」
「だったら何だ? 具合でも悪いのか?」
「――別に、智己が私以外の女の子と一緒にいたって平気だよ」
 唐突に語られ、智己は困惑する。葉月もぽかんとしていた。言葉の意味を理解していたのは亜由美だけだ。
 冷たさがじわじわと忍び寄る。
「そんなこと気にしたってしょうがないって思ってる。それは本当……でも」
 理恵がしゃくりあげた。視線が智己から逸らされる。涙をこぼす瞳の中に葉月だけが映っていた。
「佐藤先輩は別。私の前であってもそうでなくても――智己が先輩と一緒にいるのは嫌。そんなの見たくないっ」
 え、と智己から言葉が漏れた。呆然とする葉月を見つけ理恵がはっとする。幼さを残した顔がさらに歪んだ。
「ごめんなさい……私……」
 理恵は亜由美たちから離れようと踵を返した。
 智己がすかさず手を取って動きを止める――が、自身も固まってしまった。
 智己は唇を噛み必死で考えている。理恵も頭を垂れたまま沈黙を守っていた。その先の言葉が見つからないのは亜由美たちも同じだ。
 長い静寂が続く。
 少しして智己が呆然と立ちすくむ葉月をちらりと見た。亜由美も一度だけ、智己と目があい、その瞬間だけ朝の出来事が脳裏に浮かぶ。亜由美だけに見せた顔が離れない。
 葉月を想う表情を、その言葉を今でも信じたかった。
 でも――
「わかった」
 そこにあったのは全てを断ち切ってまで愛しい人を守る瞳しかなかった。
「もう、佐藤に話しかけたりしないから」
 とても優しい声を葉月は黙って聞いていた。智己の決意を最後まで見届けている。
 例えそれが二人の関係を決定づけるものだと分かっていても――

backtopnext